オランダのスキポール空港から九州は福岡空港へ向かうKLMオランダ航空内での英国青年とのおしゃべりの記録である。なぜ、オランダに? といった前口上の話は割愛するとして、離陸するとき、わたしは機体後部のエコノミークラスに座っていた。中央列の通路側の席ながら、エコノミーなので窮屈この上ない。左隣には国籍不明の若い白人夫婦と泣きじゃくる幼児が並んで座っていた。夫婦であやしても泣きやむことはない。離陸から上昇中の間も周りの席はなにやらざわついていて、心身を静かに休ませたいという、わたしの思いとは真逆の状態だった。機体が一定の高度に達して巡航飛行となりシートベルトを外していいことを意味するランプが消えた。カチャ、カチャ。シートベルトを外す音があちこちで小さく響き、乗客は少しばかり寛いだ体勢となった。
隣の幼児は相変わらず、ぐぜって泣き声を上げている。そうこうしているうちに、エコノミークラスと機体中央部の席を仕切るカーテンが開いて、スキンヘッドのアテンダントが現れた。2m近いプロレスラーのような威丈夫だ。さすがオランダ、ガリバーの国の民だなと感心していると、スキンヘッドマンはわたしの席の横で立ち止まった。腰を曲げて、青い瞳でわたしの黒い瞳を覗きこみ名前を確認した。自分の後に付いてくるように英語で語りかけた。わたしは指示に従ってエコノミークラスの通路に立ち上がった。ぐぜる幼児をあやしていた白人夫婦がわたしを見上げている。何があったのか? そんな顔をしていた。エコノミークラス通路側の乗客たちの怪訝な視線―こいつ、何か問題でも起こしたのか?―を浴びながら、スキンヘッドマンの後を付いて前方に移動していく。
機体後部から中央部を経て、前方部分のビジネスクラスに案内された。そう、なんの問題もない。エコノミークラスからビジネスクラスへ。なぜ、こんなことができたのか。それは詳述しない。スキンヘッドマンは最前列の通路側の席まで案内し、役目を終えると笑顔を見せて立ち去った。窓側には白人青年が座っていた。隣が空席で実質的に2つの席を独占的に使えることで優雅な気分に浸っていた真っ最中に、突如見知らぬアジア人風の男がやって来て座り込んだのである。座席を後ろにやや倒し、足を座席前方の棚―膝掛けの毛布が畳んである―に両足を突っ込んでいた。態度がでかく、だらしない奴だと思ったものの、わたしは気さくな感じでハーイ! と声を掛けた。青年は微かに会釈した。こいつは何者だろうか? お互いがそう思っている気配が漂った。
最前列席そばのカーテンが開いて、歌手のクリス・ハートみたいなアテンダントが現れた。夕食に先だって飲み物を載せたワゴンが目の前で止まった。クリスがわたしに英語で尋ねる。
何をお飲みになりますか?
何があるのかな?
いろいろございます。ビール、ジュース、ワイン……と挙げていく。
それじゃ、赤ワインをいただこうかな。どこの産なの?
えー、南アフリカ産でございます。
いいねえ。
クリス・ハートは小瓶の赤ワインとプラスチックの透明なコップを手渡してくれた。隣の白人青年は缶ビールを受け取っていた。赤ワインのキャップを捻って開け、コップにそそぐ。紫に近いような色合いを愛で、口に含んで味わいを確かめ、お初の南アフリカ産の赤ワインをごくりと呑み干した。目を閉じて、いかにも悦に入ったような表情をした。まあ、味は可でも不可でもない、まったくの並みだったのだが。ワインをじっくりと味わう姿。やり様によっては気障で、お高く止まって、嫌味な人格を醸し出してしまう場合もあるが、一方で品格の良さや、深みと渋みのある人格を漂わせることもある。酒の好味と呑み方は、金の稼ぎ方と使い方と同様に、その人柄、人品を映し出すものがある。赤ワインで肩の力が抜けたところで、隣の青年とコミュニケーションを図ってみることにした。なにせ10時間以上も相席となる仲だから。
わたしの方から名前を語り、握手の手を差し延べる。青年もビールを1缶開けて少しはほぐれた気分になっていたのだろう。名前をジョン・コーエンと言った。わたしの口からこんな言葉がすかさず出てきた。
ああ、ジョンならもう1人知ってるのがいるよ。
青年が?という顔をして、わたしを見た。茶色の瞳がわたしの黒い瞳を見つめた。
彼の名はジョン・レノン!
そう言って、わたしは笑った。青年もつられて笑って、即座に応じた。
ぼくは彼みたいに有名じゃないよ。
ここで、わたしは畳みかける。
いやいや、将来、彼みたいに有名になるかもしれないさ。
青年は英国人だった。ここでコミュニケーションのギアを上げる。
きみは大学教授なのかな?
よく見れば知的な顔つきなので、ちょっと思いついての問い掛けだった。
青年は、そんなーといった表情に変わっていった。めっそうもないといった風でもある。
うーんと、オックスフォードとか?
見知らぬ人から、いきなりオックスフォードの大学教授なのか? そう言われて悪い気がしないというよりは、そんな有名な大学出てないですよと言って、自分が出た大学名を出した。大学教授ではないようだ。年の頃は20代後半から30代前半ぐらいだろうか。わたしのコミュニケーションのギアはどんどん上がっていく。
英国人か。何かスポーツをやってるのかな。そうだな、英国ならサッカーだろう?
いや、違いますよ。
サッカーじゃない。それじゃテニスなのか?
それでもないですよ。
サッカー、テニスでもない。クリケットか?
違いますねえ。
英国人なのに、テニスもサッカーもやってないなんて。なにやってるんだい?
バスケットボールをやってますよ。
ふーん、英国人でもバスケットボールやってるのかあ。
今度は英国青年がコミュニケーションのギアを上げ反転攻勢の問い掛けである。
あなたは何のスポーツをやっているのか?
スポーツじゃないが、マーシャルアーツ(武術)だよ。
英国青年はちょっと驚いた顔になった。まあ、バスケットボールとはまるっきり違うし、やわなスポーツではまったくないことは分かっているようだ。
どらどら、拳をつくってみろよ。
拳のワークショップの始まりだ。英国青年は拳を握ってみる。トイレットペーパーでも握っているような、締りのない拳である。もっと言えば、拳にまったくなっていない。武術に素人だからしょうがないのだが。
拳法で言うところの拳のつくり方を教示する。
まずは親指以外の4指を掌の内側に握り込む。そうして握り込んだ人差し指と中指の上に親指を軽く乗せる。構えているときは指に力を入れず、いざ打撃という瞬間に親指と小指に力を入れて石の塊のような拳をつくり上げるんだよ。ただし指の関節を打撃面にすると指そのものを痛めるから、手の甲で打つ裏拳や、掌底といって指以外の掌部分で打つのが本当は怪我をしないのさ。目を指で突くときはこう。その目突きを防ぐ方法はこう。
拳のつくり方から、指や掌、手の甲などが護身につながる世界となることを知った青年は驚くばかりである。初対面のときの、ふてぶてしい態度はすっかり消えて、自らのことを語り始めた。青年が福岡行きの飛行機に乗った理由は熊本に行くためである。なぜかと言えば、そこに妻が住んでいるからだ。日本人女性だった。根ほり葉ほり聞くのがコミュニケーションの目的ではない。愉しい時間を過ごすためのおしゃべりで十分だ。わたしたちは武術と日本人妻とスポーツ、コンピュータの話で盛り上がった。そして相並んだ席でそれぞれ食事をし、眠り、起き、手洗いに行って戻った。長かった飛行も、まもなく福岡空港に到着する時間となった。眠るときに使った掛け毛布をわたしがきちんと畳んで座席前の棚に丁寧に入れると、英国青年もわたしと同じようにきちんと毛布を畳み、丁寧に棚の中に仕舞い込んだ。
福岡空港に着き、隣り合う席の時間が終わった。わたしは立ち上がり青年に声を掛けた。
SEE YOU SOMETIME SOMEWHERE! GOOD LUCK!
青年は満面の笑みを浮かべて応えた。
SURE! I ENJOYED NICE TIME!
そうして青年は立ち上がった。2m近い長身だった。あらためて思い知った。確かにバスケットボールをやってたんだな。英国人なのにサッカーやテニスじゃないんだ。
隣の幼児は相変わらず、ぐぜって泣き声を上げている。そうこうしているうちに、エコノミークラスと機体中央部の席を仕切るカーテンが開いて、スキンヘッドのアテンダントが現れた。2m近いプロレスラーのような威丈夫だ。さすがオランダ、ガリバーの国の民だなと感心していると、スキンヘッドマンはわたしの席の横で立ち止まった。腰を曲げて、青い瞳でわたしの黒い瞳を覗きこみ名前を確認した。自分の後に付いてくるように英語で語りかけた。わたしは指示に従ってエコノミークラスの通路に立ち上がった。ぐぜる幼児をあやしていた白人夫婦がわたしを見上げている。何があったのか? そんな顔をしていた。エコノミークラス通路側の乗客たちの怪訝な視線―こいつ、何か問題でも起こしたのか?―を浴びながら、スキンヘッドマンの後を付いて前方に移動していく。
機体後部から中央部を経て、前方部分のビジネスクラスに案内された。そう、なんの問題もない。エコノミークラスからビジネスクラスへ。なぜ、こんなことができたのか。それは詳述しない。スキンヘッドマンは最前列の通路側の席まで案内し、役目を終えると笑顔を見せて立ち去った。窓側には白人青年が座っていた。隣が空席で実質的に2つの席を独占的に使えることで優雅な気分に浸っていた真っ最中に、突如見知らぬアジア人風の男がやって来て座り込んだのである。座席を後ろにやや倒し、足を座席前方の棚―膝掛けの毛布が畳んである―に両足を突っ込んでいた。態度がでかく、だらしない奴だと思ったものの、わたしは気さくな感じでハーイ! と声を掛けた。青年は微かに会釈した。こいつは何者だろうか? お互いがそう思っている気配が漂った。
最前列席そばのカーテンが開いて、歌手のクリス・ハートみたいなアテンダントが現れた。夕食に先だって飲み物を載せたワゴンが目の前で止まった。クリスがわたしに英語で尋ねる。
何をお飲みになりますか?
何があるのかな?
いろいろございます。ビール、ジュース、ワイン……と挙げていく。
それじゃ、赤ワインをいただこうかな。どこの産なの?
えー、南アフリカ産でございます。
いいねえ。
クリス・ハートは小瓶の赤ワインとプラスチックの透明なコップを手渡してくれた。隣の白人青年は缶ビールを受け取っていた。赤ワインのキャップを捻って開け、コップにそそぐ。紫に近いような色合いを愛で、口に含んで味わいを確かめ、お初の南アフリカ産の赤ワインをごくりと呑み干した。目を閉じて、いかにも悦に入ったような表情をした。まあ、味は可でも不可でもない、まったくの並みだったのだが。ワインをじっくりと味わう姿。やり様によっては気障で、お高く止まって、嫌味な人格を醸し出してしまう場合もあるが、一方で品格の良さや、深みと渋みのある人格を漂わせることもある。酒の好味と呑み方は、金の稼ぎ方と使い方と同様に、その人柄、人品を映し出すものがある。赤ワインで肩の力が抜けたところで、隣の青年とコミュニケーションを図ってみることにした。なにせ10時間以上も相席となる仲だから。
わたしの方から名前を語り、握手の手を差し延べる。青年もビールを1缶開けて少しはほぐれた気分になっていたのだろう。名前をジョン・コーエンと言った。わたしの口からこんな言葉がすかさず出てきた。
ああ、ジョンならもう1人知ってるのがいるよ。
青年が?という顔をして、わたしを見た。茶色の瞳がわたしの黒い瞳を見つめた。
彼の名はジョン・レノン!
そう言って、わたしは笑った。青年もつられて笑って、即座に応じた。
ぼくは彼みたいに有名じゃないよ。
ここで、わたしは畳みかける。
いやいや、将来、彼みたいに有名になるかもしれないさ。
青年は英国人だった。ここでコミュニケーションのギアを上げる。
きみは大学教授なのかな?
よく見れば知的な顔つきなので、ちょっと思いついての問い掛けだった。
青年は、そんなーといった表情に変わっていった。めっそうもないといった風でもある。
うーんと、オックスフォードとか?
見知らぬ人から、いきなりオックスフォードの大学教授なのか? そう言われて悪い気がしないというよりは、そんな有名な大学出てないですよと言って、自分が出た大学名を出した。大学教授ではないようだ。年の頃は20代後半から30代前半ぐらいだろうか。わたしのコミュニケーションのギアはどんどん上がっていく。
英国人か。何かスポーツをやってるのかな。そうだな、英国ならサッカーだろう?
いや、違いますよ。
サッカーじゃない。それじゃテニスなのか?
それでもないですよ。
サッカー、テニスでもない。クリケットか?
違いますねえ。
英国人なのに、テニスもサッカーもやってないなんて。なにやってるんだい?
バスケットボールをやってますよ。
ふーん、英国人でもバスケットボールやってるのかあ。
今度は英国青年がコミュニケーションのギアを上げ反転攻勢の問い掛けである。
あなたは何のスポーツをやっているのか?
スポーツじゃないが、マーシャルアーツ(武術)だよ。
英国青年はちょっと驚いた顔になった。まあ、バスケットボールとはまるっきり違うし、やわなスポーツではまったくないことは分かっているようだ。
どらどら、拳をつくってみろよ。
拳のワークショップの始まりだ。英国青年は拳を握ってみる。トイレットペーパーでも握っているような、締りのない拳である。もっと言えば、拳にまったくなっていない。武術に素人だからしょうがないのだが。
拳法で言うところの拳のつくり方を教示する。
まずは親指以外の4指を掌の内側に握り込む。そうして握り込んだ人差し指と中指の上に親指を軽く乗せる。構えているときは指に力を入れず、いざ打撃という瞬間に親指と小指に力を入れて石の塊のような拳をつくり上げるんだよ。ただし指の関節を打撃面にすると指そのものを痛めるから、手の甲で打つ裏拳や、掌底といって指以外の掌部分で打つのが本当は怪我をしないのさ。目を指で突くときはこう。その目突きを防ぐ方法はこう。
拳のつくり方から、指や掌、手の甲などが護身につながる世界となることを知った青年は驚くばかりである。初対面のときの、ふてぶてしい態度はすっかり消えて、自らのことを語り始めた。青年が福岡行きの飛行機に乗った理由は熊本に行くためである。なぜかと言えば、そこに妻が住んでいるからだ。日本人女性だった。根ほり葉ほり聞くのがコミュニケーションの目的ではない。愉しい時間を過ごすためのおしゃべりで十分だ。わたしたちは武術と日本人妻とスポーツ、コンピュータの話で盛り上がった。そして相並んだ席でそれぞれ食事をし、眠り、起き、手洗いに行って戻った。長かった飛行も、まもなく福岡空港に到着する時間となった。眠るときに使った掛け毛布をわたしがきちんと畳んで座席前の棚に丁寧に入れると、英国青年もわたしと同じようにきちんと毛布を畳み、丁寧に棚の中に仕舞い込んだ。
福岡空港に着き、隣り合う席の時間が終わった。わたしは立ち上がり青年に声を掛けた。
SEE YOU SOMETIME SOMEWHERE! GOOD LUCK!
青年は満面の笑みを浮かべて応えた。
SURE! I ENJOYED NICE TIME!
そうして青年は立ち上がった。2m近い長身だった。あらためて思い知った。確かにバスケットボールをやってたんだな。英国人なのにサッカーやテニスじゃないんだ。