それゆけ!ぶんぶん一家☆ミ

不器用な3人家族と、ゆかいな仲間たちのブログです。

有馬・西宮・京伏見街道の交通拠点だった宿場町にて☆兵庫県宝塚市♪

2017-10-05 05:18:44 | おでかけ

毫攝寺(ごうしょうじ)を中心として発展した小浜のまち。

これまで、宝塚といえば、『宝塚歌劇団』もしくは、『宝塚ファミリーランド』だったのだが。

江戸時代には宝塚市域で唯一栄えていたのは、ここ、小浜だったのだ。

小さな町であったのに、江戸時代に宿場町として栄えたのは。

3つの街道が通っていたから。言わば乗り換え駅。大阪で言うなら梅田みたいなとこかしら。

大阪方面から有馬温泉へ、かの豊臣秀吉(with千利休)も向かうのに利用したのが有馬街道。

小浜から武庫川を渡って、そして西宮へと向かう西宮街道。

京都の伏見に向かうのは京伏見街道。

そんな宿場町の町並みは、ちょっとレトロ感のある風情で・・・・。

神社があった。

って、こんなの見るとお参りしたくなるよ。

信号の向こうに、とっても周囲の家々の間に、しれっと納まってる感じの神社。

しかも、誰もいない。さっき行った、小浜の中心・毫攝寺も誰もいなくって寂しかったのだ

空間は多い。傍らに、だんじりの格納庫が有りました。

そういえば、売布神社で『宝塚のだんじりは凄い!!』って言ってた方がいましたが。

いつするのかしら?祭りっこじゃないので、そんなに興味は無いのだけど、

ネットで動画とか出てくるかしら?帰ったらパソコンで検索してみるべ・・・って思いながら、まだ見てない。

・・・・・って。え!?

油断してた。何なんだ!?この巨大な木!!この巨大なムクの木は、宝塚市の保護樹木らしい。

さて、たまたま立ち寄った皇大神社は、嘉吉元年(1441年)の創建と伝えられているそうな。

天照皇大神と天児屋根命を御祭神としています。

こちらの本殿は江戸時代後期に建てられたもの。

切妻造の本瓦葺。兵庫県の登録有形文化財に登録されているそうですよ。

産業振興や寿命長久の神様として知られる、有り難~~~い神社だったのだ。

神社を出て・・・・うん。あっちに違いない。って自分の方向感覚に泣きそうになりながら、

(地図で見たらそうそう離れていないはずなのに)やっとたどり着いた。

ほんとは、ここからスタートしたかったの。

これが国府橋。

まるでお城のお堀の様に、大堀川に囲まれるように位置する小浜宿。

大堀川を渡る国府橋は、小浜宿の北の玄関に続いてるところ。

豊臣秀吉は・・・・・渡っていない。この橋が架けられたのは明治8年で1875年。

豊臣秀吉が渡ったのはこっち。

橋の横に、ちゃんと舗装はされているけれど、坂道がある。

国府橋が出来るまでは、この”いわし坂”を通って、有馬街道に出た模様。

その頃は、この付近まで内海で、鰯を荷揚げしていたことから、いわし坂と呼ばれてる。

そのいわし坂の横、国府橋の横。愛宕宮北門跡。

小浜の町の出入り口は、ここ、北と、南と東、3ヶ所に町門が設けられてて、

町の防備を固める三ヶ所の町門で、火難を除く火伏せのための愛宕さんが小祠に置かれています。

その北門跡から、まっすぐまっすぐ行ったなら、おお。南門跡を見つけましたよ。

さっきの北門跡からは有馬街道へ。

この南門は西宮街道の南の入り口で、西宮街道は西宮から小林を経て、武庫川を渡って小浜に入ります。

その街道は、馬街道とも呼ばれていて、お酒やお米を運んだ道らしい。

そうなったら、もう一つの入り口、東門跡にも行かなくてはね・・・・。

なんて、真っ直ぐじゃないからね、どっかで曲がらなあかん。

実は、あまり人の気配を感じなかった小浜のまち歩きなのだけど、ここで・・・・散髪屋さんのおっちゃんが、

『小浜の町はどお?』って声かけてきた。迷子姿を見てたのだそう。そうね、何回も通った気がする。

そこから、少し歩いたら、またおばちゃんが、そしてまた・・・って、カメラと地図持った余所者に

いっぱい声を掛けてきてくれて、江戸時代に栄えたセピア色の昔町が、

いきなり活気を帯びてきたような、そんな妄想に囚われる。

あった。東門跡。この東門は京伏見街道に通じているのだけど、

当時は小浜は、小浜大工の町として名を馳せていたそうで、

この東門を通って、京都御所の蛤御門の再建にも関わったっていう事です。

歴史的に、とっても重要な町だったのではないの?

いままで、全く知らなかった・・・・。もっと有名になっても良いんじゃないの?町おこししてほしいな。

この指標は南門跡のとなりに有るよ。

 



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