平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

祝!石の上にも三年の3周年記念! おまけ編

2008年03月29日 | その他
親愛なるアッティクスへ

←昨日、たまたま入った店で昼飯の後に出てきたアフターコーヒーの画像がです。

なかなか個性的な器だな・・・と思って、撮影したのですが、少し、近づきすぎたでしょうか、パッと見は何かわからなくなってしまいましたね(笑)。

で、本日は、3周年記念が、訳あって中途半端に終わりましたので、今更ながらのおまけ編です。
過去二回の周年記念号においては、それぞれ、副題である「アッティクス」と私の名前のいわれについて述べましたので、今回の周年では、私自身のことについて述べてみたいと思います・・・と言いたいところですが、実は、本当は、ここで、別の・・・、もっと、しっかりした周年に相応しい内容を考えていました。
が、それはまた、次回の4周年(あるのか?(笑)。)のお楽しみに廻すとして、私にもっとも相応しくない、私のファッション観というものについて述べてみたいと思います。

かつて、司馬遼太郎をして、「日露戦争において、日本軍陸海両軍匹敵する働きをした」と賞賛しめた、筑前福岡藩出身の軍人、明石元次郎大将は、風采にまるで気を使わなかった人だそうで、人から、「もう少し、気を遣ったらどうだ?」と言われたとき、「身なりなどに気を煩わされないのが筑前武士というものだ」とか。
別にそれに触発されたわけではありませんが、私も、元々、ファッションなんてものにはあまり興味がありませんで、以前、友人にそう言ったら、「あまり・・・じゃなくて、マッタクだろうが」と言われました。
まあ、確かに・・・と(笑)。

ここで、私に好意を持ってくださっている数少ない女性の皆様のために(←ここ、笑うところです(笑)。)くれぐれも誤解のないように申しあげておきますが、ファッションに興味がないといっても、決して、不浄不潔という意味ではありませんよ。
むしろ、逆で、家人などからは、「ちょっと汗かいたからと言って、日に何度も着替えやがって!」と言って怒られてます(笑)。

で、その、ファッションという点では、私にはひとつの理想とする姿があります。
それが、ゴルゴ13です。
ゴルゴ13とは、言うまでもなく、国際社会暗躍するスナイパーを描いたさいとう・たかをロングラン漫画ですね。
(私が幼稚園くらいから連載されてますが、やつは一体、いくつなんだ・・・と(笑)。)

彼は、報酬として大金を得ていますから、決して、貧しいわけではない・・・どころか、大金持ちなんですよ。
しかし、労働者として潜入しなければならない場合には作業服を着るし、浮浪者に成りすまさねばならないときには浮浪者の格好もする・・・。
つまり、私は、おしゃれとしてのファッションについては興味が無く、衣服については、機能性のみしか考えておりませんで、色形などどうでも良く、従って、ブランドなどにはまったく興味がない・・・ということで、つまりは、衣服などというものは、そのときそのときで、必要なシュチエーションにだけ意を持ち得ればいい・・・と思っている次第です。

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ホームでの突き落とし殺人に思う鉄道会社の責任の是非

2008年03月27日 | 時事問題
親愛なるアッティクスへ

←最近、色々あって・・・、昨日は、珍しく独りで飲ってました。
隣はカップルでしょうか・・・。
私がいる間は、この上に物が並べられることはありませんでしたが・・・。

ところで、先日からの、相次ぐ少年の凶悪犯罪についてですが、今朝も「少年の心の闇」・・・などという、いかにもワイドショーが喜びそうな視点から、例によって張り切って採り上げられてましたが、ただ、私は、特にそのうちのJR岡山駅の事件については少し思うことがありました。
即ち、この事件に関しては、こういった「背景」以前に、鉄道会社の責任を云々する声があっても良いのではないかということです。
事実、岡山県警の調べによると、「少年は、当初、ナイフで事件を起こそうとしたが怖くてできず、結局、ホームから人を突き落とすことにした可能性がある」とのことで、だとすれば、もし、電車のホームが安易に突き落とせる構造になってなかったら・・・、もしくは、そこにいる人がこの状況の危険性を十二分に認識できるような啓蒙を受けていたら・・・、かなりの可能性で、この事件は防げたのではないかと思うのです。

まず、ナイフで人を殺す・・・ということですが、これは、実は、それほど簡単なことでもありません。
なぜなら、相手も抵抗する・・・というこの難しさもながら、刺した経験の無い人は、「さあ、刺せ」と言われても、「はい、そうですか」と刺せるものではない・・・ということがあります。
料理をしたことのない人が、「さあ、この鶏を捌きなさい」と言われても、なかなか出来ないくらいですから、ましてや、万物の霊長である人間は簡単には刺せないでしょう。
ところが、電車のホームというのは、例外的に、それが極めて簡単にできる状況にあるわけですから、本来、運営者側は、この点に十分に配慮する必要があったのではないでしょうか。
鉄道会社は、一刻も早く、これに対応しないと、この事件は、「安易に人が殺せる」方法があることを満天下に示したわけですから、次もある可能性もありますよ。

この点では、阪急の創始者・小林一三翁だったかが、最初に鉄道事業に乗り出したときに、経営の師匠であった北浜銀行岩下清周頭取だったかから、「駅のホームにはを付けるべきだ。そうでないと、上客は乗車を危険視して、その電鉄会社を敬遠するようになる」と強く要求されたことを思い出しました。
小林翁は、岩下頭取の要求にも頑として従わず、そのまま、開業したのですが、 それが、今日、電車のホームには柵がないことが一般的な形となったことで、これを翁の先見性だというような評価が為されている向きもあるようです。
ただ、このとき、翁が柵を設けなかった本当の理由は資金不足であり、そのときに口にしたのが、「欧米でも柵がないのが一般的だ」というものだったのですが、それを日本の電鉄会社は、安易に、「欧米でもそうなんだから・・・」という神話として受け入れすぎて来たのではないか・・・と思えるのです。
昭和の通勤ラッシュの時代など、よく、あれで責任が問われなかったものだな・・・という気もしますが、ちなみに、福岡市営地下鉄では、最近では、自動開閉式の柵が設けられています。

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祝!石の上にも三年の3周年記念! 後編

2008年03月21日 | 私小説
親愛なるアッティクスへ

一昨日、いつものように川沿いの歩道を歩いていると、目の前で1m大魚が釣り上げられるところに出くわしました。
何と今日の記事に相応しい目出度い画像かと・・・。
で、「これ、何という魚ですか?フナ?」と聞くと、「いや、ソウギョだ」とのこと。
・・・私はソウギョが何か知らないのですが、針を外すと、そのまま、おもむろに魚を川にドボン・・・。
「食べないんですか?」と聞くと「食べるとは聞かんな」と・・・。
何か、絶版になったにも関わらず、中古市場ではなぜか定価以上で売れている拙著、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]を象徴しているような・・・、目出度さ半分・・・といったところでしょうか(笑)。

で、気を取り直して、昨日の続きです。

その、自分では自信作ではあったものの、発表しようにも対象の賞が見あたらなかった最初の拙著ですが、その後、さて、どうしたものかな・・・と思っていたところ、「他に応募した作品でも可。字数も問わない」という自費出版系の出版社の賞が目に付きました。
まあ、これに応募すると言うことがどういうことかくらいはわかりましたが、他に選択肢もなく、やむなく応募したものの、こちらでも、字数の多さ(=本の厚さ=値段が高くなる=買い手が限られる。)敬遠されたとのことで、結果、落選・・・。
で、その出版社より声がかかったわけですが、もとより、こういう会社の営業トークを本気にすることはなく、一旦、これを断りました。
(もっとも、本音を言えば、自信があった作品だけに、こういう形でしか世に出せないことに対して忸怩たる物があったことが最大の要因でしたけどね。)

とはいえ、このまま、お蔵入りにするのも忍びなく、自分の中で、しばし、葛藤があった後、ある先輩の「私の取引先の社長は最近、乗っていたセスナ墜落して亡くなった。人間、悔いの無いように・・・」という言葉を聞き、また、出版社も、かなり値引きした金額を提示してくれたことで(後で、計算したところ、ほぼ、向こうも原価でしたね。)、さらに、通常は1000部しか刷らないところを、当初から、2000部刷る・・・という力の入れようを示してくれましたので、ようやく、重い腰を上げた次第でした。

が、結果は、無名の著者の本がすぐに売れるはずもなく、数ヶ月程度で店頭からも姿を消したわけですが、ここで、私は思いました。
田中角栄進歩党大麻唯男から、『君は何もしなくて良いから』と言われて初めて公認で選挙に出たとき、話と違って、誰も何もしてくれなかったので落選したことから、『よし!自分の力で通ってやる!』と思い直し、次の選挙で当選した」・・・と。
また、「歌手の松崎しげるさんは、名曲〔愛のメモリー〕をひっさげ、外国で賞を獲得して帰国したのに、何の話題にもならず、レコード化もされなかったので、自分でことあるごとにレコード会社へ売り込みをかけて、ようやく、世に出た」・・・と。

とはいえ、業界に何のコネも知識もない私にできる自助努力などあるはずもなく、そこで、まずは「自分の主張を知ってもらうこと」から始めようと、手を付けたのがブログでした。
ということで、「石の上にも三年」と言いますので、この3年間、休日以外は一日も欠かすことなくUPし続けてきましたが、ちょうど、先頃には、その、拙著、[傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯]2000部を売り尽くし、このたび、目出度く絶版になったこともあり、「もう、この辺で良いかなー」と思うようになってきましたね・・・。

ということで、とりあえず、お付き合いくださってお疲れ様でした・・・。

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祝!石の上にも三年の3周年記念! 前編

2008年03月19日 | 私小説
親愛なるアッティクスへ

おかげさまをもちまして、このブログも2005年の3月下旬(実は結構あやふやです(笑)。)より書き始めて以来、3周年を迎えることが出来ました。
この間、UPした記事は836本、訪問者数はメインのエキサイトと当初やっていたライブドア75,000名、これに、別館であるgooも加えれば、おそらく、延べ15万名以上の方にお越し頂いたものと思われまする。
(ちなみに、検索ワードランキングでは、その時々で色々と変動はあったものの、なぜか、「瀬島龍三」というワードが、絶えず上位にランクインされていたことが印象的でした。他にも、何でこれなんだ?・・・というのも、ちらほら・・・(笑)。)

これもひとえに、皆々様のご厚情あってのことと、厚く御礼申し上げます。



(←毎年恒例、特に関係ないけど周年が殺風景過ぎるのもいかがなものかという、ただ、それだけの理由での画像です。私のホームグラウンド・博多駅前の夜景ですね。そういえば、過去二回は「道」繋がりでしたが、今回も、まあ、道と言えば、道ですね(笑)。)

思えば、このブログを書き始めた三年前・・・、当時、私はそのちょうど1年前の平成16年3月に、処女作、「傾国の烙印―国を傾けた男毛利輝元の生涯」を出版していました。
実は、この作品は、自分的には、それなりに自信はあったのですが、ここが地方にいる身の哀しさで、書いたは良いが、それをどうやって世に出せばいいのかが皆目検討がつきませんで、やっと、手がかりを掴んだのが、当時、とっていたそっち関係のメルマガでした。
そこには、「持ち込みなんてのは、まず、見てももらえない。に応募するのが王道」と書いてありましたので、なるほど・・・と思い、賞に応募することとしました。

ところが、調べてみたら、推理小説以外は、殆どの賞が「原稿用紙200枚以下」であり、中には、「50枚以内」というものさえある始末で、私のそれはと言えば、すでに、原稿用紙650枚になっていましたので、200枚以下では、少々、減らしたところで到底無理なわけで、やむなく、一つだけあった原稿用紙500枚以内の賞に応募しようと、様々なところをカットし、さらに、雑巾を絞るように、点や丸、さらには行を削除するなどして、ようやく、500枚ちょうどにしました。
ただ、その賞は、一応、「ジャンルは問わない」とは書いてあった物の、過去の入選作品を見てみると、明らか拙著とはにニーズが違うものばかりで、この点、そのメルマガにも、「賞には賞の求めている雰囲気のようなものがあるので、自分の作品が、それにあっているかもよく検討すること」とも書いてありましたが、そうは言われても、もとよりこちらには字数の問題で、賞に対しての選択肢などはないわけで・・・。
で、その結果は・・・というと、やはり予想通り、箸にも棒にもかからない・・・というものに終わったわけですが・・・。

後編へ続きます。

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話の種にモンゴル式住居ゲルに泊まった肥前路 その7

2008年03月18日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

先週の続きです。

この鷹島という島ですが、行ってみて思いましたが、大きさの割には船が入れられるの数が多いんですよね。



(←元軍来襲時に日本側本営跡より睨む眼下の港。おそらく、往事にはここに元の大船団がひしめいていたのでしょう。)

最寄りの港としては、現在でも3カ所もの港からフェリーが出ているようですし、それ以外の港も含めると、繋留可能港はかなり多いのではないでしょうか。



(←鷹島守備隊本営跡に置かれた日本側現地軍司令官・少弐経資の像。戦死した経資の像は今も港を睨む。)

また、大船団の繋留港としては、広さもながら、その深さというものも問題になってくるでしょうね。
この点まではわかりませんでしたが、見た目的には問題なかったように思いましたが・・・。



(←鷹島で食べたアジ丼。鉄火丼のように鯵の刺身が乗ってくるのか・・・と思いきや、フライにされた鯵が乗ってきたときには、結構、新鮮な驚きを覚えましたよ。味の方も、見かけに似合わず(?)、まずまず、美味しかったですし・・・。)
で、鷹島に置ける元軍の最期に触れておくと、弘安4年(1281)、平戸島において友軍との再編成を終えた元軍は、捲土重来、再度、博多湾に侵入すべく鷹島沖へ移動を完了・・・。
無論、日本側も手をこまねいてみていたわけではなく、軍船による執拗な夜襲を敢行し、元軍に少なからぬ損害を与えるも、大打撃を与えるには至らず、両軍共に、にらみ合いのまま、運命の7月30日夜半・・・を迎えたところ、この夜、つかの間の静寂に包まれる両軍に、突如、激しい暴風雨が襲いかかり、特に、海上にいた元軍大船団は大打撃を受けます。
辛うじて生き残った兵士らも、日本軍の掃討作戦にあい、「日本遠征に参加して帰還しなかった者は、元軍(蒙漢軍と蛮軍)十万有余人、高麓軍七千余人」と伝えらるほどの損害を出し、「元寇」はここに終結します。
いわゆる、「神風」というやつですね。
ちなみに、この暴風雨については、最近、真鍋大覚九州大学工学部助教授が、興味深い推論を発表されましたが、曰く、中国南部の泉州湾の海底から引き揚げられた南宋時代の軍船を、風と波に対する船の復原力を計算した「船舶安全基準」にあてはめ、これをもとに、この船を沈没させるに足る台風の規模を計算したところ、結果は、「最大瞬間風速54.57m、中心気圧938ミリバール、毎秒25m」という暴風圏を持つ超巨大台風となったとか・・・。
やはり、神風だったのでは・・・(汗!)。

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豊田泰光のチェンジアップ人生論に思う大部屋の効用

2008年03月17日 | 経済・マネジメント
親愛なるアッティクスへ

先日、球界の一言居士と言って良い元西鉄ライオンズの名選手、豊田泰光翁の著書を読み終えたと申しましたが、その中でいくつか考えさせられる話がありました。
まず、そのうちのひとつが、プロ野球選手遠征時宿泊についてでした。
曰く、『旅館からビジネスホテルへという宿泊形態の変化は日本の旅を大きく変えた。大部屋文化から個室文化へという「個人」重視の象徴的な現象だが、プロ野球選手にとっていいことばかりではない』・・・と前置きした上で、『昔は主力だって個室を与えられることはなかった。よくて二人部屋で、普通は三、四人』だったそうで、その面での不便は色々とあったようですが、翁が説くのはその効用の部分でした。

曰く、『野球選手などというものは結局は一人一人が個人営業の事業主で、すべての企業機密を公開したら商売にならないから、隠しておく部分も多いのだが、上達のヒントはお互いに交換する』・・・ということであり、その上で、『西の端の球団、西鉄は遠征も一番長く、博多−川崎−東京−大阪−博多といった具合に、二週間、三週間と続く。最初の一週間は花街に遊びに出ていた野武士たちも、最後は路銀が寂しくなり、宿舎でくすぶるようになってくる』・・・と。
すると、手持ちぶさたの数人が野球談義を始めると、ぞろぞろと集まってきて、『勉強会』となり、『みんな何かを吸収してやろうとギラギラしていた』・・・ということになったのだとか。

私なども、ホテルよりは旅館の方が好きな人間なので、羨ましいようにも感じますが、もとよりそれは、家族や友人など、気心が知れた者同士で行く旅の場合・・・。
職場まるごと出張・・・などという場合は、そうはいかないでしょう。
誰しも、気むずかしい上司との相部屋などはご遠慮蒙りたいでしょうから・・・。

ただ、この話を聞いて、どうしても想起してしまうのが、私が常日頃、企業人として敬愛する本田技研工業元副社長にして、事実上のホンダの創業者であった藤沢武夫氏の話です。
本田宗一郎氏に代わり、ホンダの経営を一手に担っていた氏は、ホンダの役員室をそれまでの個室から大部屋にしています。
本来、大企業の役員ともなると、個室をあてがわれるのが普通なのでしょうが、敢えて個室を取っ払って、全員、大部屋に入れてしまったわけですね。
まあ、この辺は、創業者でないとなかなか出来ないような思い切った措置なのでしょうが、大部屋なればこその効用は決して小さくないと思います。
(その最大の効用は何と言っても、風通しでしょう。縦割り組織の悪弊を一番上の部分で再び繋げてしまう・・・わけですから。また、お互いの目があるわけですから、背任行為の防止にも繋がるでしょうし。)

豊田氏も、その辺をこう結んでおられました。
『帰ったらすぐ個室に直行というホテルだとこうはいかない。若い選手の大部屋であり食堂、かつ、ミーティングの場でもあるという旅館の大広間あってこそ。遠征先やキャンプ地のホテルをのぞくと、ロビーのテレビゲームに興じている選手がたまにいるが、野球談義に興じている姿などみたことがない』・・・と。
こと、風通しという点では、個室にしてていいことは何もないですよ・・・。

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原則論を軽んじるがゆえの三権分立の現実!

2008年03月15日 | 政治システム
親愛なるアッティクスへ

(←佐賀県の鏡山山頂よりの夕景。なんか、日本の原風景残り香のようなものが・・・。)

今朝は3時に起きましたので、今ごろは白河夜船です。
眠くって、考えはさっぱりまとまりません。
で、適当にお茶を濁します(笑)。

以前、誰だったが、外交を専門にする学者の方の著書で、「原則があって外交上手というのはイギリスくらいで、アメリカを始め殆どの国が原則があって外交下手というものである。対して、原則が無くて外交上手というのはタイくらいで、原則が無くて外交下手というのは哀しいかな日本くらい」という記述を目にしたことがあります。
当時、この「原則」という意味が、イマイチ、わからず、しばらく考えた後に、「あ、哲学ということか」と思い当たったので、この話を、外務省OBである知己にしたところ、「いや、それは哲学とは少し違う。あくまで原則なんだよ」ということを言われました。
そこで、この話は私の中で課題として残っていたのですが、その後、しばらく時が流れ、ようやく、愚鈍な私にも、「哲学」と「原則」の違いについて思い至ることできました。
確かに、言われたとおり、ここで使われていた「原則」は、あくまで、「原則」であり、「哲学」というのとは、少し、違いましたね。
身の不明が慚愧に堪えませんでした。

で、それからまた、長ーい年月が流れ、その違いは・・・忘れました(笑)。
ただ、「哲学」と「原則」が違うものだということだけ、形骸的に頭に残っております。

その上で・・・、そもそも、この国の政治家全般には原理原則というものが無さ過ぎると思います。
以前、東京都の石原慎太郎都知事が、「都内のホテル・旅館などの宿泊施設に課税する。イヤなら東京に来るな!」と言ったことがありましたが、旅行者から都民の為の税金を取ろうなどと言い出すこと自体、見識を疑います。
それでは、都民には負担は少なく、都知事としては万々歳でしょうが、こういうのは、たとえ、役人からそういう意見が出ても、都知事が「いや、都の財政が厳しいのはよくわかっているが、都民税金は都民が負担するべきだよ。旅行者から都の税金をもらうわけにはいかない。」と言って、原則論で歯止めをかけなければならないものだと思います。
石原都知事としては、とりあえず、自分の実績さえ上がればいいという考えでしょうが、大体が原理原則論を持たないという点では、日本の政治家一般に当てはまることのようです。

年金国債宗教・・・etc。
み〜んな入口の段階で原則論を盾にストップをかけておけば容易だったものを、時の政権が自分たちの今現在に有利だから・・・と、安易に導入した結果、今となってはもう、誰も止められない・・・そう言うものが多すぎるようにも思えます。
今や現代の真の三権分立の三権とは、行政・立法・司法ではなく、マスコミ官僚宗教では・・・と。

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山本浩二選手と広島カープの昭和50年 その3

2008年03月14日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

遅くなりましたが、先週の続きです。

判定に抗議して、退場処分となった後もホームベース上に座り込んだ広島カープの指揮官・ルーツ監督ですが、これは、ルーツ監督にすれば、単なるパフォーマンスだったといいます。
しかし、当時は、なにせ、外人監督との接触自体が殆どなかった時代です。
従って、こういうアメリカ型のパフォーマンスに慣れていない日本の審判団は大いに困惑し、広島の球団代表に説得を要請したことから、ルーツ監督は一旦はそれに従いグランドをから出たものの、「グランド内でのことは監督に一任する」・・・という姿勢が出来ているアメリカでの常識からすれば、フロントが介入してくるという越権行為がどうしても許せなかったようで、ダブルヘッダーの第2試合を前に、「監督としての権限を冒された」として、選手たちに「今後、広島の指揮は執らない」と宣言。
球団からの慰留にもかかわらず、そのまま、帰国してしまう・・・という事態になってしまいます。
で、後任には古葉竹識コーチが昇格し、指揮を執り始めたわけですが、これには、当時、「やはり、広島は広島か・・・」と思った方も少なくなかったのではないでしょうか。

その後、広島は、古葉新監督の下、快進撃を続け、この年、悲願の初優勝を達成するわけですが、その原動力となったのが、3割30本を打って首位打者のタイトルを獲得した山本浩二選手だったわけですね。
で、先日も述べましたように、元々、それほどの選手ではなかった山本選手が、この年を境に突然、打ち始め、さらにリーグを代表するような本塁打王になったのには、おそらく、このルーツ監督との出会いが大きかったように思います。
(あるいは、ルーツ監督がアメリカから持ち込んできた何か・・・、たとえば、サイン盗みのようなものがあったのかもしれません。つまり、相手のサインを知ったことで、もともと、ヤマ張り打者だった山本選手の洞察力に磨きがかかった・・・と。この辺は、ここ数年の外人監督の躍進とだぶって見えるような・・・。)
本人は「払うような感じでバットを振ることを覚えた」と言っておられましたが、確かに、それもあるのでしょう。
しかし、私には、「なぜ、勝利を目指すのか」という根拠を与えられたことが何より大きかったように思えますが・・・。

ちなみに、新チームの改革を推し進め、チームに新風を吹き込んでいたルーツ監督が突然、辞めて帰ってしまうというアクシデントに、「やはり」という感があったという話については、奇しくも、昭和35年のときの大洋ホエールズも、開幕戦の試合前の練習中に、対戦相手である中日の杉下 茂コーチのすっぽ抜けたノックバットが、大洋のエース・秋山 登投手の頭部を直撃し、病院送りになってしまう・・・という前代未聞のアクシデントが発生したことで、動揺した大洋は開幕戦を落としたばかりか、中日との開幕3連戦に全敗し、さらに、チームはその影響で開幕から7連敗という苦しいスタートを切ることになったたとか・・・。

このことは、中日側にしても、自軍のコーチが相手のエースに怪我をさせての開幕ダッシュというものには、相当、心苦しいものがあったようで、シーズン終盤、ほぼ、優勝争いが、巨人と大洋に絞られ始めた時期での大洋との3連戦では見事に3連敗して借り(?)を返しています(笑)。

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日銀総裁不在の可能性にみる危機管理の欠如

2008年03月13日 | 政治システム
親愛なるアッティクスへ

混迷の様相を深める日銀次期総裁選びですが、昨日、政府が提示した元財務相事務次官で現日銀副総裁の武藤敏郎氏の総裁昇格に対し、民主党を中心とする野党による反対多数不同意となったと聞きました。
折から、米連邦準備制度理事会(FRB)や欧州中央銀行(ECB)など欧米の中央銀行では、「サブプライムローン問題による混乱を抑える目的で短期金融市場への協調資金供給実施」・・・という発表をしたばかりであるだけに、日本の不手際だけが余計に目に付く格好になったようですね。
ていうか、日本の方は、不手際どころか、このままでは、前代未聞日銀総裁不在などという状態も想定されるわけで・・・。

この点では、党利党略のみで国益を考えようとしない民主党にも「いい加減にしろ!」と言いたい気もするのですが、ただ、「財政と金融の分離」を唱え、財務次官経験者の昇格を否定する民主党の言い分もわからないでもないような気もします。
もっとも、そうは言っても、そんなの、「今更」という観もなきにしもあらずですし、何より、「同意権だけがあるんだから、『誰が良い』ということを言う必要はない」と言い、かといって、「党首会談を」求める福田首相には応じようとしない小沢一郎民主党党首の姿勢には、やはり、党利党略優先という臭いを強く感じざるを得ません。
物価の番人と言われる日銀の総裁を不在にするという、国民生活へも直結するような話を「人質」として、「政争の具」にしている野党の姿勢には、どうしても、首を傾げざるを得ないところです。
「今回は、緊急のことであるから、一応、認めるけど、あくまで財務行政経験者は日銀総裁にはなることができないということを明文化する」ということを合意事項とでもしておけばいいのではないでしょうか。

それよりもむしろ、そもそも、「次の日銀総裁が国会の同意が得られない場合、日銀総裁の職が空席になってしまう」・・・ということが問題なんですよ。
アメリカのFRBなどでは、「総裁人事について、議会の同意が得られない場合、前任者がそのまま業務を行う」となっているそうですね。
何で、こんな大事なこと・・・、いや、当然のことが決まってないのでしょうか?

思えば、平成12年(2000年)4月2日、当時の小渕恵三総理が現職のまま急死したときも、意識を失う前に、病室で青木幹雄内閣官房長官(当時)を首相臨時代理に指名していたとされましたが、このときも、本当に総理にそんなことを言う余力があったのか・・・ということが、随分、追求されましたよね。
このときは、おそらく、当時の自民党の有力議員らが密室で談合して、そいう話にしたのでしょうが、そもそも、一国の総理大臣が任期中に執務不能になった場合に「誰が引き継ぐのかが法制化されていない」というのが驚きでしたよ。
(おそらく、今でも決まってないでしょ?聞いたこと無いし・・・。)
であれば、総理大臣には副総理という職制をきちんと整備し、日銀総裁など、国会の同意が必要な職責に関しては、同意が得られない場合の法整備をこそ、急ぐべきだと思うのですが・・・。

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美人演歌歌手に見る表現者として麻痺してはいけない資質

2008年03月12日 | 文学芸術
親愛なるアッティクスへ

ここ数日の福岡県地方はすっかり、春の陽気です。
昨日は、昼飯に、今年初めての冷や素麺を食べました。
もっとも、このまま一直線に暖かくはなることはないでしょうけどね(笑)。
ところで、この冬、我が家のストーブはえらく(スス)を出すようになっておりました。
私は、てっきり、年代物のストーブが壊れたか・・・と思っていたのですが、(またこれが、ススというのは手に着いたりすると簡単にはとれないんですよ。やかんからタオルからススで真っ黒に・・・。)先日、残っていた去年の灯油を入れたところ、まったく、ススが出ない・・・。
間違いなく、原油高騰に苦しむガソリンスタンドは、灯油の中に何か入れて薄めてたんですね・・・。

で、本日の本題です。
以前、平太郎独白録 : 「絶版宣言」と、文字に見る表現者としての資質にて「表現者」という観点で述べたことがありますが覚えておられますでしょうか?
この、「表現者」という点で、少し印象に残っていることがあります。
以前、当時、私が所属していた組合の懇親会があった折りのこと、懇親会には事前に、「美人演歌歌手が来ます」という触れ込みがありました。
ただ、懇親会と言っても、20〜30人が集まる程度の、しかも、中華料理屋の二階の座敷でのことですから、半信半疑で出席したわけですが、宴たけなわの頃、触れ込み通り、美人演歌歌手とやらがやって参りました。
聞けば、一応、CDデビューはしているとのことらしく、その場で、1〜2曲カラオケで歌い、CDを売って帰って行ったのですが、その折り、一通り、参加者の席を廻って挨拶にきました。
で、私の席へも来ましたので、私が、「昔は、小林幸子さんも大橋駅祭り(ローカルな商店街の祭りです。)に来てありましたよ。貴女も頑張ってくださいね」と声を掛けたところ、その女性は、事務的に「ああ、はいはい」とだけ答え、しらけきった顔でさっさと次の席へ移っていきました。
この瞬間に、私は、「あ、この人はだめだな・・・」と思いましたね。

CDデビューはしているとはいえ、実際には、こんな活動ばかりなのでしょうから、「やってらんないよ」で、麻痺してしまう・・・というのはわかるのですが、やはり、自分の追求しようとしているものを表現していく活動の中でのことですから、いくら、うんざりしていても、麻痺するようでは・・・と思うんですよ。
特別なことは言えなくても、「そうですねぇ。私もそうなれたら良いですねぇ」とにっこり笑って、次の席に行く・・・くらいのことはできないと・・・と。
まあ、ある意味、私も同じような境遇にいるからこそ、そう思ったのかもしれませんがね(笑)。
この点では、大橋駅祭りで見た、当時、25歳くらいの小林幸子さんは、決して、しらけてはいませんでしたね。
もっとも、あそこまでの大物になるとは思いませんでしたが・・・。

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革命は自らの欲望という名の熱で変質してしまうことがある

2008年03月11日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

「世間の、意外に利口なことにハッとするときがある」

・・・これは、私が師と仰ぐ兵法研究家・大橋武夫さんの言葉です。
抹香臭い説教と違い、生で会社経営されてこられた方の言葉だけに、大変、身近に感じ、まさに、生きた言葉だと思います。
この言葉のとおり、世間とは、それほど、愚かなものでもないと思います。
黒澤 明が、その名作「隠し砦の三悪人」の中で描いた百姓二人は、臆病強欲などうしようもない連中でしたが、三船敏郎演ずる侍大将の目を盗んで、ちゃっかりとの居場所を密告しに走ったところなどは、まさしく、その好例だったでしょうか。
マキャベリも言っています。
「大衆は抽象的なことにはまるで判断能力を有さないが、具体的なことになると、かなり的確な判断を下す」と。

ただ、私に言わせると、その利口な世間というやつは、同時に、必ずしも人格者ではないようです。
考えてみれば、人間の集まりから出来ているのが世間ですから、極めて人間臭いものをもっているのも当然なのでしょう。
世間というやつは、人と同じように、驚き、怒り、そして、嫉妬する。
(もっとも、当然ながら世間という奴は、いろんな要素をもっている以上、人間と一緒で、「いい奴」「悪い奴」で、簡単に線分けしてしまえるものではないようですが・・・。)

この点で、思い起こすのが、フランス革命における革命指導者の一人で「ジロンド派の女王」と呼ばれたロラン夫人です。
幼い頃から美貌才知に恵まれていたこの女性は、長じてよりはルソーの思想をよく理解し、熱烈な民主主義者となり、やがては議会の多数を占めるジロンド派黒幕的存在として、「ジロンド派の女王」と呼ばれるまでになります。
これにより、フランス革命勃発時には、その理論的指導者の一人として、これに参画しますが、やがて、革命の「熱気」「狂気」の様相を帯び始め、夫人の「理想と理論」「権力闘争」へと変質してしまい、ついには、夫人自身も「フランス人に自由を与えるのは早すぎた」という言葉と共に獄中の人となります。
そして、やがて、ギロチン台に上ることになった夫人は、今度は、「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」との言葉を遺して刑場の露と消えるわけですが、これこそ、革命という物の持つ特質の一端がわかるように思います。

つまり、革命という物は、往々にして、「自ら発する欲望という名のにより、当初の理想理念などとはほど遠い物に変質してしまうことがある」ということです。
(革命が熱を帯びるのは、革命という物の本質が持たざる者持つ者に取って代わるという階級闘争である以上、やむを得ない話であると思います。即ち、「持たざる者」とは「持ったことがない者」であるとも言え、一旦、そういう人が持てる立場となったときには、「この機会に出来るだけ・・・」と考えがちなことから、その欲望際限なく膨張してしまうものだからです。)
古くは、始皇帝以後の項羽劉邦の覇権戦争・・・、近いところでは、日本の明治維新、また、ロシア革命におけるスターリン体制確立毛沢東文化大革命なども、この範疇に入るでしょうか。

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話の種にモンゴル式住居ゲルに泊まった肥前路 その6

2008年03月10日 | 歴史的教訓
親愛なるアッティクスへ

先週の続きです。

先週、「モンゴル村に行くところだ」・・・と先週申し上げましたが、この点では、福島県いわき市にあるスパリゾート・ハワイアンズ(かつての常磐ハワイアンセンター)も一緒みたいですね。
ここは、以前、平太郎独白録 : いわきの土産屋にみるまじめに働いても報われないの理でも申し上げましたように、私も、昨年の夏に子供連れで行ったのですが、このときは、ハード面に限ったならば、随分、充実しているし、近ければ何度でも来て良いんだろうけどな・・・という感を持ちましたが、聞けば、こちらも、はやはり相当寒いようで、プールはさすがに温水なのでしょうが、プールに浸かっていない部分は結構、凍えてしまうし、ましてや、「プールからプールへ移動するときは、殆ど罰ゲーム状態」だとか・・・。
私が行ったときは、真夏でしたので、良い部分しか見えてませんでした・・・。

で、そのモンゴル村を出た後、周辺の観光に行ったのですが、ここ、鷹島という島は、モンゴル村があることでもわかるように、もともと、かつての元寇の激戦地なんですね。
1274年文永の役では元軍の来襲を受け、島民2人が生き残ったのみという惨禍を受け、逆に、1281年弘安の役の折には、博多方面撃退された元軍が大陸から来る友軍と合流して体制を立て直そうとして、そのまま台風に巻き込まれ壊滅したと言われているところです。)
まあ、名護屋城倭寇の最後の親分みたいなものなら、こちらは元寇の終焉の地というところですかね。



元寇の遺跡自体は福岡にも、たくさんありますから別に珍しくはないのですが、行ってみたついでに廻ってみようという気になりました。
ただ私には、元軍がなぜ、そんなにこの島にこだわったのかがわかりませんでした。
まず、考えられるのが、体制立て直しために、元軍が、「この島を補給基地として確保する意図があった」・・・ということですが、こんな小さな島を占領したところで、到底、大軍を養うに足るだけの補給が確保できるとは思えません。
それに、食料はまだしも、航海で忘れてはならないのは、むしろ、水の確保だと思います。



この点は、現在もこの島には、「入江をせきとめて、中に溜まっている海水を、上から降ってくる雨水との比重差を利用して外に押し出して出来た日本初の淡水湖ダムである鷹島海中ダム」というものがあることからも、元々、安定した水源がない島・・・だったことが推察されます。
(もっとも、このダムは、「農業用水の確保」が主目的で作られたそうですが、いずれにしても、大軍を養うに足ほどの水の確保には疑問があります。)

また、来週辺りに続きます。

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元帝国陸軍参謀が見た中国人は異質の民族

2008年03月08日 | 国際問題
親愛なるアッティクスへ

博多駅です。現在、こういう状態になっております。

で、本題です。
北京オリンピックへのツアーは食への不信問題などに関わらず、売れ行き好調だそうですね。
でも、サッカーなどでの、「日本側サポーター警備を受けないと退出も出来ない」という映像を見ていると、大丈夫なのかなーと思ってしまいますけどね。
中国は、いい加減に、行きすぎた反日教育というものに歯止めを掛けるべきですよ。
元々、国内をまとめるために利用してきたのでしょうが、このままだと・・・。

この点で、私が学生時代からその著作に親しんできた兵法研究の第一人者で、戦前、陸軍参謀として中国駐在経験をお持ちでもありました、故大橋武夫さんが、ある著書の前書きで中国について述べておられるものがあります。

少し長いのですが、引用しますと、
「中国人とは、一体、どんな人間なのであろう。中国人との交渉が頻繁かつ密接になるにつれて、誰もが考えるのはこのことで、彼らは我々と同じようであり、全く違っているようでもあって、当惑することがある。
中国人と日本人とはよく似ており、同文同種の民族といわれている。
事実、長期間ヨーロッパを歩きまわった後に、中国領にたどりつくと、日本人の誰もが故国に帰ったような気分になる。中国人と欧米人とは、我々にとってはそのくらいの違いがあり、ふと錯覚に襲われて、日本語で話しかけたりすることがある。
ところが、日本人と中国人は決して同文同種ではなく、中国人の心や生活は、日本人よりもヨーロッパ人の方によほど近いのである。同文というが、それは漢字を使っているということだけで、中国語の配列は日本語とは違い、むしろ英語に近い。
たとえは「我は海へ行く」ではなく「我は行く、海へ」なのである。
住居も欧米式の椅子と卓であり、着物も上衣とズボン。
食物も、日本食よりもずーっと洋食的である。
思想も、我々よりも個人主義に徹している。
中国人と我々は決して同文同種ではない。
中国人を知るには、中国の古典を研究するのがいちはんよい。彼らの脳裡にはその古典の思想が強く染み込んでいるものらしい・・・。」

・・・我々は、もしや、無意識のうちに、中国人を自分たちと同じ部類民族だと思い違いしていたのではないでしょうか?
彼らが、肌の色も見てくれも違う、アフリカか何かの民族だったら、我々は、あるいは違う対応をしたと言えなくないでしょうか?
頭ではわかっていても、心の中では「話せばわかる・・・」と、どこか親戚のような意識があったとは言えないか・・・と。

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山本浩二選手と広島カープの昭和50年 その2

2008年03月07日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

過去、前年最下位のチームが翌年、一転、「初優勝」を飾ったというのは、昭和35年の智将・三原 脩監督に率いられた大洋ホエールズと、この昭和50年広島カープしかないと記憶しているのですが、いつの時代でも、万年下位チームを初優勝させる為に、指揮官が一番に手を付けなければならないのは負け犬根性の一掃と、勝つことへの執念を植え付けることだと言われています。

この点で、昭和50年の広島を任されることになったルーツという人は、「集団は確固たる指導方針を持った強烈なリーダーによって変わる」という信念を持っており、まず、最初のミーティングで選手らに対し、「君たち一人一人には、勝つことによって広島という地域社会を活性化させる社会的使命がある!」と喝破したといいます。
これは一見、見過ごされがちなことですが、「なぜ、勝利しなければならないのか?」・・・ということの根拠を明示する・・・ということは集団を率いる上では、外してはいけない大事なポイントだと思います。
つまり、「自分たちはなぜ、この商品を売るのか?」・・・ということですね。
「金さえ儲かればいい」ということでは人は納得jしない・・・と。
(かつて、松下幸之助翁は、「松下製品を世界中に行き渡らせることで生活を便利にし貧困をなくす」というようなことを掲げましたし、どこだったかの金融会社は「我々は、お客様にお金を貸すことによって生活に夢を与えている」ということを掲げたことで、それまで、「サラ金」と蔑まれていた自分の仕事に対して誇りを持つことが出来るようになったというような話と同じだと思います。)

その上で、三原 脩監督が、大洋のおとなしいチームカラーに喝を入れるべく、それまでの大洋にはいなかった、職人肌でありながらあくの強い個性を持つ鈴木 武遊撃手をシーズン半ばで近鉄から獲得し、「超二流選手」というフレーズを与えて活用したように、ルーツ監督も、シーズン前、日本ハムから、激しい気性の大下剛史二塁手を獲得し、主将を任せ、新チームの精神的な支柱とします。
そして、その象徴として、帽子の色をそれまでの紺色から燃える闘志を表す赤色に変更・・・。
当然、選手には全力を出し切ったプレーを求め、消極的なプレーをしている選手に対しては容赦なく罵声を浴びせたし、さらにコーチ陣に対する要求にも厳しいものがあったとか。

ところが、そのルーツ監督が、開幕から間もない4月27日、ボールの判定に激高し暴行を働いたとして審判より退場処分を命じられたものの、それに従わず、ホームベース上に居座ってしまうという事件を起こします。

来週にでも続きます。

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山本浩二選手と広島カープの昭和50年 その1

2008年03月06日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

先日、元広島カープ監督で、「ミスター赤ヘル」と呼ばれた山本浩二氏が野球殿堂入りしてましたよね。
この人については、西武との日本シリーズで、9回2死から東尾 修投手の外角低めの難しいスライダーをライトスタンドに同点ホームランしたことが印象に残ってます。
99%負け試合だったわけですから、まさしく、「起死回生」のホームランだったわけで・・・。
でも、私の記憶では、野球殿堂入りなどというのは、私が生まれる前に活躍した大昔の人がもらうもの・・・というイメージがあったのですが、いつのまにやら、時代がそこまできてたんですね・・・。

で、この山本浩二氏ですが、この人については昭和43年のドラフトでは、田淵幸一、富田勝両氏と並んで法政三羽ガラスの一人としてドラフト1位で鳴り物入りで広島に入団したものの、私の子供の頃の記憶ではあまり、パッとした選手ではありませんでした。
実際のところ、この人が突然、花開いたのは昭和50年からで、それ以前は、本塁打は20本前後、打率は.250程度の普通の打者でしたね。
(当時は、広島の「山本」と言えば、山本浩二選手ではなく、左の強打者で四番打者だった山本一義氏でした。)

それが、昭和50年(1975年)に4番に就くと、この年のオールスターゲーム第1戦で、セ・リーグの3番打者として登場するや、6番に入った同僚の衣笠祥雄選手とともに2打席連続アベックホームランを放ち、その勢いに乗りこの年、自身初打率3割30本塁打を記録し、首位打者MVPのタイトルを獲得。
山本選手は一躍、「ミスター赤ヘル」と呼ばれるチームの顔になりました。
もっとも、この年を見た限りでも、元々、足は速く、守備も上手かったので、今後は、それなりに打率は残す打者になるだろうな・・・とは思いましたが、まさか、5年連続40本塁打(この記録を持つのは山本選手の他には王 貞治氏のみ)を記録し、4度の本塁打王、3度の打点王を獲得するほどの大打者になるとは夢にも思いませんでしたね。
(実際、通算536本塁打の大卒日本最多本塁打記録を持っているものの、その半数以上が30歳を越えてからのものだとか。)

で、この昭和50年という年に、一体、何があったか・・・ですが、実はこの年は、大変な変化があった年でした。
即ち、この年、チームが初優勝したのです。
もっとも、ここまでの広島は三年連続最下位であり、開幕前に広島が初優勝するなどと予想した人は皆無だったわけで、さらに、間の悪いことに、この年、球団初の外国人監督として、ジョー・ルーツ氏が就任したものの、同監督は日米の文化の違いから開幕してわずか15試合で退団・・・。
急遽、古葉竹識ヘッド・コーチを昇格させて監督としたものの、古葉監督の手腕は未知数・・・。
何とも、期待薄な船出だったわけです。

明日に続きます。

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