B.T.T.B -Back To The Basic- 退職後,日常生活における知的生活とは?

50歳代,退職後の日常生活をいかに知的に過ごすか

ジェイムソン著『21世紀に,資本論をいかによむべきか?』(1)

2017-07-13 | 読書ノート


こんにちは。漸く梅雨らしくなってきました。大阪と比べて,この土地はいくぶん涼しく感じます。昼間は中庭を通ってくる風が心地よくて,ついついリビングの床で昼寝をしてしまいます。午前中に,「まいにちドイツ語」を聞き,朝食を頂き,その後ちょっとテレビを観て,リビングと部屋の掃除をして,夕食当番の時は図書館に行ってから買い出しをして帰ってきて,昼食を作ると,それなりに疲れます。その後の勉強の前に頭をリフレッシュするためにも昼寝は欠かせなくなっています。起きあがってから,ラジオ体操をして,「ニュースで英会話」と「まいにちドイツ語」の再放送を聞き,その後勉強となります。

これまで榎原さんの著作の理解のために他の本を読むのは控えておりました(資本論の理解と比べれば多少は楽ですが,榎原さんの著作の理解も相当大変です)。しかし,価値形態論の理解もそれなりに進んできましたので,この辺りから他の本を読んで,この理解をさらに支えてくれる言説が欲しいと思うようになりました。唯一この数ヵ月間で資本論関連以外の本で読んだのは,村上春樹さんの本でした。春樹さんの本は,価値形態論の理解を支えてくれます。経済の本と小説が一体どうしてリンクするのかをおわかり頂くためには,マルクスが資本論で文学において登場する文言を多用しているという事実を挙げれば良いでしょう。価値形態論のみならず,資本論全体は当然ですが現実を描写しております。ただし,それは通常の思惟に浮かぶ表面的なものから,思惟を駆使して,通常は感覚的には理解できない場面に到ります。文学においても同じような回路を経て事態を把握しています(いや,把握していると思います。でなければ,文学の科学性は存在しません)。ただ文学であれば何でもいいのかというとそういうわけではありません。理解を進めてくれるのかどうかは,現実とのリンクの強度次第であり,春樹さんの物語はまさにその強度が絶大なのです。春樹さんは,『村上ラジオ3』で書かれているように,専門的なことなんて知らないと言って済ますことができるのが小説家の特権である,という趣旨のことを言っておられますが,それでも他分野と正面から切り結ぶ世界を描き出すわけですから,凄い小説家です。

閑話休題。さて今回の読書ノートは,フレドリック・ジェイムソン著,野尻英一訳『21世紀に,資本論をいかによむべきか?』(original title: REPRESENTING CAPITAL A Reading of Volume One)です。ジェイムソンと言えば,「現代思想,そしてアメリカを代表する知識人」(奥付より)ですねえ。しかし,資本論の理解に関してはどうなのでしょうか??と大いに疑問をもってしまいました。

昔から思っていたのですが,どうして現代の思想家と言われる人々は,曖昧で対象が分かりづらい言説ばかり書いたり,発言したりするのでしょうか?指示対象が全くわからない時が多い。そしてその読者は自分の頭脳の不明さに失望して二度と思想にふれ合わないようにするという,本当に不幸な事態が常習化している。自身が述べていることのバックボーンとなっていることに関してほとんど説明をしない。具体から抽象に到るのではなく,いきなり抽象的な言辞で始まり,指示対象が不明確なまま言葉は宙を踊り,着地点は複数である。その結果,現実に還ったところで,何の成果もなく,ただ時間だけが過ぎていったという感覚だけしか残らない。たちが悪いのは,それが文学であるとも表明していないことです。カッコイイ言葉たち,いいじゃないか,それで。と思われる方もいらっしゃると思いますが,私はもう結構です。

このジェイムソンの著作も上記の誹りを免れません。資本論の第一篇「商品と貨幣」を何度となく読んだ人でさえも,ジェイムソンがそのどの箇所について述べているか,判然としないと思われます。例えば,
「しかしわれわれは,いつもと同様,二元論から始めよう —— この『資本論』の冒頭部分では,商品と呼ばれる対象は,使用価値と交換価値のあいだを振動する」(p.33)
原文:But we start, as always, from dualities —— in these opening pages, the oscillation of those objects called commodities between use value and exchange value.
「使用価値と交換価値のあいだを振動する」って何?英文ではoscillation … between use value and exchange valueに相当する部分です。そこで引用先のペンギンブックスの資本論第1巻内で,oscillationという語が商品論で使用しされているかどうかを検索してみましたら,ありませんでした。oscillationは大抵oscillation in pricesなど「(価格等の)変動」という意味で使用されていました。よってoscillation of those objects called commodities between use value and exchange valueという文言はジェイムソンの言葉で,資本論の英訳文ではありません。そして言うまでもありませんが,商品は使用価値と交換価値のあいだを振動してはいません。商品にとっては交換価値だけが意味をもつものであり,使用価値は人間にとって意義をもっているだけです。言うまでもなく使用価値と交換価値の二つはどちらも同時に存在しているし,この二者は,この場面では,それ以外の第三者を想定することは出来ません。したがって二元論というレベルで語るべきものではありません(磁石にプラスとマイナスだけが存在し,それ以外が存在しないのと同じです。磁石を語る時に二元論という言葉を用いるでしょうか)。

ジェイムソンは自らの哲学的思考に災いされ,二元論との対照で資本論の内容を語ることを実に好んでいます。
「別の箇所でも指摘したことだが,じっさい,構造主義のムーブメントはもろもろの二項対立(その始まりは言語学的な二項対立だったが)を強調したことによって,弁証法的な思考の復活に火をつけたのである…。」(p.222)

弁証法自体が二項対立という視点で語られている。後にはこのように弁証法を位置づけています。
「弁証法とは,特異なものと一般的なものを独特の仕方で結びつけることを可能にし,さらには,一方から他方へとギアを切り替えてはまた戻し,それぞれが異なったままでありながら両者を同一化することを可能にする一つの思考の様式なのである。」(p.224)

どうもこの辺りの「特異なもの」というのは商品における使用価値のことであり,「一般的なもの」というのは商品の交換価値を指しているようなのですが,判然としません。しかし,「一方から他方へとギアを切り替えてはまた戻し」というのは先ほどの「振動」を思わせます。「それぞれが異なったままでありながら両者を同一化することを可能にする」というのは商品の使用価値が異なったままでありながら,価値方程式が成立し,そこに交換関係が存在し,同じ大いさをもつ或る共通者の社会的存在を認め,それが抽象的人間労働であるということを述べているのであれば素晴らしい表現だと思いますが,ここでは抽象的人間労働は出てこないので,使用価値と交換価値は異なっているが両者は同一化している,という意味になってしまっているように思えます。つまり,意味が分からないのです。

次には以下のように続きます。
「いずれにしても,すでにわれわれは,こうしたもろもろの二項対立が作用しているさまを見てきた。その始まりは,『資本論』のまさにはじめの頁に登場する質と量の対立である。そこでは,この特殊で抽象的な対立は使用価値と交換価値の形態を取っていた。後になってはじめて,この対立は物質と精神,具体的労働の物質的な本体と商品の心的もしくは精神的な性質の対立としてみずからを現していき,さらに空間と時間,絶対的なものと相対的なもの,その他諸処の類いの対立として現れてくる。いまこの一覧に含まれずに省略されているものこそが根本的なものであり,現代思想が執拗にわれわれを連れ戻すところのもの,すなわち同一性と差異性の対立なのである。」

図式的にまとめると以下のようになります。
質            —— 量
使用価値         —— 交換価値
物質           —— 精神
具体的労働の物質的な本体 —— 商品の心的もしくは精神的な性質
空間           —— 時間
絶対的なもの       —— 相対的なもの

ところがこれらに含まれていないものが根本的なものであり,それが「同一性と差異性の対立」ということになっています。上記の対立図式の成否は置いておいて,「同一性と差異性の対立」について考えてみましょう。

もちろん「同一性」と「差異性」は「対立」するものです。同じであるのと異なるものは逆の内容であるからです。しかし,マルクスは果たしてこんなことを言っていたのでしょうか?

マルクスは簡単な価値形態,すなわち,20エレのリンネル=1着の上着,という価値方程式では,全く異なる商品であるリンネルと上着が等しいものとされています。現実的にこんなことは本当は存在しないはずです。異なる物が同じだなんて。ここに我々は真底驚くべきなのです。つまりここには我々が通常の思考では把握できない事態が現実に存在しているという事実に驚愕すべきです。その後マルクスは,ここには「一つの同等なもの」,すなわち「同じ大いさをもつ或る共通者」,「第三者」が存在している,それが「同等な人間的労働」,「抽象的人間労働」であり,「価値の実体」であるとして,交換価値で表示されている労働の社会的性格を分析します。つまりジェイムソンの言葉に戻れば,ここでは同一性と差異性が対立しているのではなく,つまり,同等な人間的労働と異なった使用価値をもった商品が対立しているのではなく,簡単な価値形態においては,異なった使用価値をもった2つの商品であるが故に,そこに同等な人間的労働が存在している,すなわち差異性が存在しているが故に同一性が存在している,差異性を前提とした同一性が存在しているのです。これは通常の人間の思惟では理解できません(この事態は榎原均さんは「了解するしかない」と書かれておられます 雑誌『情況』1991年9月号)。マルクスは商品の内部の思考を辿ることでこの価値方程式の秘密を理解しました。ジェイムソンはそれができていません。「商品の心的もしくは精神的な性質」という,価値形態の把握にとって非常に重要な局面に接しておきながら,これを商品自身の性質と捉えず,交換価値の性質として理解し,物質的な使用価値と異なる対立的なものとしてしまったが故に,この把握に到らなかったのだと思われます(小林秀雄さんも商品の精神性には気づいていました。当時そのような解釈ができた人は日本ではいなかったと思われます)。

話はちょっと飛びますが,この本を読んで一番奇異に思えたのは,ジェイムソンが意外にも資本論の中に人間を読み出そうとしている姿勢でした。冒頭にこんな言葉があります。
「『資本論』は,政治についての本ではないし,労働についての本ですらない。『資本論』は失業についての本なのである。(p.5)
For as I will show, Capital —— and from now on I omit the “Volume One” —— is not a book about politics, and not even a book about labor: it is a book about unemployment,

これは間違っていません。この本の後に触れられる産業予備軍の形成などはまさにそうです(ジェイムソンはそれを非常に強調していますが,マル経になじんだ者にとっては今更感がぬぐえませんが)。そして失業とは人間の経済的存在様式です。ジェイムソンが人間を資本論の中に捜すという点は,「アルチュセールとちがって私は,『資本論』においても疎外論は強く機能し枠組を形成する力を発揮していると考える…」(p.2)という言葉にも表れています。資本論において疎外論を読み込むという姿勢は廣松さんの基本姿勢にも通底する点で,非常に危ういものです(正直言って私は英書でこの本を読み始め,この内容が出てきた時に,ちょっとこればやばいなと思って,その後放っておいたのです)。つまり,どうしても人間主体の話になってしまう。しかし,資本論はまさに人間主体にしないことによって成立するものであり,これこそ経哲草稿やドイツ・イデオロギーからの飛翔を示すものです。物象による人格の支配,これこそが商品論で読まれるべき内容であり,人格は支配される側なのです。その辺りをジェイムソンは理解しておらず,例えば「貨幣が登場していない段階では,マルクスの言う相対的価値と等価物との差異は,たんに恣意の問題であるかのように思われる。私は1着の上着の価値をどれだけの長さのリンネルで測るのかを決めることができるし,またリンネルの価値を何着の上着で測るのかを選ぶことができる。決定は,私がそのときにたまたまどのような物を持っていて,どのような物を手に入れたいのかに依存している。」(p.46〜)ジェイムソンはリンネルと上着が価値関係の内部にあることをすっかり見落としており,交換関係の主体は商品所有者であると考えている。つまり宇野弘蔵式の把握である。マルクスは私的労働による労働生産物がどのように商品という社会的形態をとっているか,その秘密の解明をしようとしているのですから,社会に平均する価値法則によって,交換される商品の比率は決定されています。つまり個人の意志はここでは既に意味を持たないのです。なぜなら個人的なものではない社会的存在たる商品でなければ,自身の労働生産物の価値の実現は不可能だからです。ジェイムソンは個人対個人で行う物々交換の場面を想定しているようなのです。

このように現実に肉体を備えた人間とその情況を想定しながら資本論を読むという作業によって,ジェイムソンは価値形態論における抽象的人間労働の把握も出来なくなってくるわけですが,ちょっと長くなりすぎましたので,近々第2篇として続きを書きます(もう早く終えて,次の勉強に取り掛かりたかったのに…)。
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