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御朱印蒐集~米原市 伊富貴山 大原観音寺と石田三成の「三献茶」~

2016-09-18 21:00:00 | 御朱印蒐集
 「歴史は勝者によって語られる」とは世の常で、関ヶ原の合戦の敗者である石田三成は江戸時代以降の歴史の中で悪者とされてきました。
徳川幕府によって流布された“三成は冷酷で官僚的・陰謀家の賊将”とかつてはされていたように思います。

しかし、近年は三成の再評価が進んできて、かつての姦臣としてのイメージは払拭されてきています。
NHK大河ドラマ「真田丸」での繊細ながら有能で義に厚い忠臣としての絶妙の人物描写の人気もあって、三成の出身地の長浜市と米原市・彦根市では「MEET三成展」が開催される盛況ぶりです。



さて、石田三成の有名な逸話に「三杯の茶(三献茶)」がありますが、その話の舞台になったとされているのが米原市にある「伊富貴山 大原観音寺」とされています。
「三献茶」の話には2つの説があって、「三成の出生地の石田村近くにある大原観音寺説」と「三成の母親の出身地である伊香郡古橋村の三珠院説」があります。
いずれにしても、秀吉が鷹狩りで立ち寄った際に寺の小僧をしていた石田三成を「三碗の才」で見出したとの話に古文書などの明らかな確証はないそうです。


(惣門)

大原観音寺は元々は「伊吹山四大護国寺」と呼ばれて、伊吹山中にあった4つの寺の一つ(他は弥高寺・太平寺・長尾寺)だったようです。
伊吹山護国寺は、三修沙門(平安前期の僧)によって開基されたお寺で、寺伝によると1347年に現在の地に移されたとされています。
当初は、南都六宗の一つである法相宗の寺院でしたが、現在地に移設後に天台宗の寺院となったそうです。



山あいにある田圃の里山風景を見ながら寺院の惣門(重要文化財)をくぐると、参道の向こうに石段と本殿(重要文化財)が見えてきて、やや寂れた古寺の雰囲気に満ちています。
本堂は1715年に再建されたものということでしたが、築300年の風格のある建物です。






本尊は十一面千手観音で、像を囲むように四天王像が安置されていました。
住職さんに堂内へ入れていただきましたが、不動明王や秘仏 伝教大師像の須弥壇があり、見事な仏像が安置されていて驚くこととなりました。
本堂の正面で屋根を支えている仁王様?の姿もあります。



大原観音寺の境内には「三献茶」で三成が点じたお茶の水を汲んだとされる井戸が「石田三成 水汲みの井戸」として残されています。
石碑に彫られているのは「太閤ニ茶ヲ献スル時 石田三成 水汲ノ池」とあります。



石田三成はその後、秀吉の関白就任にともない“石田 治部省(少輔) 三成”として辣腕をふるいますが、秀吉の死後は豊臣家内の対立・徳川家康の台頭を経て、天下分け目の関ヶ原の合戦に敗れた後、伊吹山へ逃走。
最後は実母の出生地近くの古橋で捕まり、京都六条河原で斬首と非業の死を遂げてしまいます。

ところで、観音寺から少し足を伸ばすと、石田三成の出生地の長浜市石田町があり、三成の屋敷跡に立つ石田会館(石田屋敷跡)など三成ゆかりの場所が多く残されています。
石田会館前の石碑には「石田治部少輔出生地」と刻まれており、三成の銅像とともに出迎えてくれます。
ちなみに、この石田会館の住所はなんと「石田町治部***番地」。人物名と位がそのまま町名になっているところにこだわりが感じられますね。



会館内には1907年に京都大徳寺の三玄院で発掘された三成の頭蓋骨の写真や絵巻物のパネルが展示されていて、ガイドさんの熱心な説明を聞くことが出来ました。
運営は地元のボランティアの方のようでしたが、石田の方々の三成愛が強く伺われます。

 

寺院ではないので御朱印はありませんが、三成の旗印「大一大万大吉」と三成の花押の朱印がありました。
「大一大万大吉」の意味を教えてもらうと「一人が万人のため、万人が一人のために尽くせば、天下の人々は幸せ(大吉)になれる」という意味があるそうです。
石田三成は実際に、領民に大変慕われていた人物だったと伝えられています。


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