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御朱印蒐集~京都東山 蓮華王院 三十三間堂~

2017-05-10 20:36:36 | 御朱印蒐集
 京都には全国的に有名な寺院が数多くありますが、三十三間堂もその中の一つの寺院になると思います。
特に三十三間堂は仏像の素晴らしさを目当てに訪れる観光客の方や海外からの来訪者が多く、TVでもよく取り上げられているため実際には行ってなくても少し様子を知っている寺院ということになるのかもしれません。

当方も京都へ行って際に三十三間堂の近くを通ったりすることはありましたが、これまで縁がなく初めて参拝することが出来ました。
到着してみると、さすがに有名寺院とあって次々と観光バスが入ってきますし、外国人の方もお国を問わず姿が多く、国際的にも人気の高い寺院であることが分かります。



三十三間堂は後白河上皇が離宮としていた法住寺殿内に建立した堂宇の一つであったとされています。
1165年に上皇が平清盛に建立させたのが始まりで、その後焼失してしまいますが、1266年に後嵯峨天皇により現在の本堂だけが再建されたといいます。

焼失前には五重塔や不動堂などが建てられていたといいますから、かつては堂宇が立ち並ぶ大寺院だったようであり、法住寺殿の復元図を見ると阿弥陀峰から鴨川の河原まで続く広大な寺院だったことが分かります。
現在も三十三間堂には周囲を5本筋塀に囲まれた広い境内には東西南北に門があり、長大な本堂と共にその名残は充分にとどめています。



各門からの出入りは出来ないようになっていたため、上の西門は門をくぐった先にある小さなスペースから入門の気分だけを感じることになりました。
門には“三十三間堂”の看板と一緒に“洛陽古跡 通し矢射場”の看板が掲げられていて、有名な通し矢を示す看板となっています。

重要文化財に指定されている南大門は、1600年に豊臣秀頼によって建立されたとされている八脚門の造りになっています。
元々この門は、豊臣秀吉が東大寺を模して建立した大仏殿方広寺の南門だったそうです。
三十三間堂にはこの南大門の他にも西大門があったのですが、西大門は1895年の平安遷都1100年の記念として「東寺の南大門」へ移築されたそうで、この話は全く知りませんでした。



秀吉は大仏殿 方広寺の境内に三十三間堂を取り込んだと伝わり、その際に整備したとされる築地塀(太閤塀)が現在も残っていて、重要文化財の指定を受けています。
「太閤塀」の石碑には“天正14年 豊臣秀吉築造”と彫られていましたが、秀吉にとっての1586年は、全国統一をほぼ果たし、関白・太政大臣となって朝廷から「豊臣姓」を賜った頃ですから秀吉にとっては“我が世の春”の時代になりますね。





境内で本堂以外に目を引かれるのは朱色が鮮やかな「東大門と北門」でしょうか。
大きな東大門から北門には28m続く回廊がありましたが、東大門は1961年に後白河法皇770回忌に新造されたものだそうです。





ところで三十三間堂を建てさせたという後白河上皇の時代を紐解くと...。

保元の乱(1156年)では天皇の地位を巡って争い、摂関家藤原氏・源氏・平家がそれぞれ一族分裂して戦う。(勝利側)
平治の乱(1159年)で源氏と平家が争い、平清盛が源義朝(頼朝・義経の父)に勝利。(勝利側)
平清盛の台頭による対立があり、清盛を追放・討とうとするが失敗に終わる。
源頼朝が兵をあげ清盛死去(1181年)。
1185年の壇ノ浦の戦いで平家が滅亡し、頼朝は法皇に征夷大将軍を望むが、権力を頼朝に握られることに反対して与えず。
法皇死去後に頼朝は征夷大将軍となり、時代は鎌倉時代へと変わる。

摂関家・藤原氏、平家、源氏が群雄した時代に政治の権力をしっかりと握り続けて、院政を敷いた方だったようです。



それでは本堂の話になりますが、この堂は三十三間というだけあって長大な建物で全長は約120mあるといいます。
そのとてつもない長さに驚いてしまいますが、正面から見たのでは人間の視野では全景が見えないのではないかと思えてしまうような長大な建物です。





内部は画像などでは知っているとはいえ、あっと息を呑むような仏像群が並びます。
須弥壇にはまず国宝の雷神像(鎌倉期)が安置されていますが、絵での風神:雷神はともかく像としては初めて見ることになり、その迫力を下から横からと眺めることとなりました。


パンフレットより

あの有名な1001躰の「木造千手観音立像」(重要文化財)は想像していた以上の姿で、何段にも折り重なる姿には恐れ入るしかありません。
1001躰の観音像のうち、124躰は平安期のものとされ、他の800余躰は鎌倉期のものだそうですが、数が多いので1躰1躰をじっくり見比べるのは不可能です。


パンフレットより

むしろ「木造二十八部衆立像」(国宝)の方をじっくり見てしまうことになりますが、それぞれ155~165cmくらいの高さの個性豊かな仏像に見とれてしまいます。
インド起源の神々が多いと書かれていましたが、確かにゾロアスター教起源やバラモン教起源の像が見られます。
鎌倉期の仏像とされ、よく言われる鎌倉期の仏像の“写実的で力感のある”という表現がうまく当てはまるのかと思います。


パンフレットより

正面の仏像ばかり見て進んでいったので突然見えてきた「千手観音坐像」には思わず声を上げてしまいそうになります。
333cmと大きな千手観音で、堂のちょうど中央(仏像群の中央)に配置されているため、この厳粛な空間にこの仏像。線香をあげて何度も見返してしまいました。



パンフレットより

須弥壇には千手観音坐像を挟んで、残りの二十八部衆像と風神・千体千住観音像が並び、鎌倉仏の力強さとリアルさを堪能出来ました。
後陣は資料を中心に展示されていましたが、「不動明王(+眷属2)」・「地蔵菩薩」・「役行者」などが安置されていて、本尊・千手観音坐像のちょうど裏側にももう1躰の「千手観音」が祀られていました。
これだけの仏像を見ていると極楽へ来てしまったような気持ちになりますが、堂内の天井の垂木には極彩色の模様が残っていますから堂全体として極楽浄土をイメージしたものとなっているのかと思います。

さて、三十三間堂には他にも有名な「通し矢」の射場があります。
江戸時代に始まったとされる行事で、現在は新成人になった男女が毎年1月に60m(かつては約112m)先の大的を射って腕を競われているようです。



江戸時代には「大矢数」(一昼夜にどれだけ射通したか)などの種目があり、膨大な数の矢を射ていたこともあってか、射損じることあって堂を矢から保護するために鉄板を貼り付けたようです。
確かに矢の飛んでくる方向にだけ鉄板が貼られていますね。



これも有名な話ですが、堂の垂木の部分には射損じた矢が1本突き刺さっています。
随分昔のものかと思っていたのですが、実は昭和の時代に刺さった矢なんだそうですよ。



三十三間堂はいろいろと見所の多い寺院ではありますが、やはりこの寺院の仏像群には圧倒されてしまいます。
やや暗めの堂内に浮かび上がるかのような仏像群の空間に身を置いていると時間が経つのを忘れてしまいそうになります。時間を置いてもう一度行くべき寺院なのかもしれません。


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