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“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~長浜市 竹生島 「宝厳寺」「都久夫須麻神社」

2017-01-03 13:35:35 | 御朱印蒐集
 正月の初詣(初参り)は昨年と同じく「神の棲む島」竹生島から始めました。
長浜港から出航のフェリーの最終往復便で揺られること約30分、竹生島が近づくにつれて長浜港の曇り空から一転して竹生島は快晴の天気となり、縁起のよい年明けとなりました。

竹生島信仰の始まりは奈良時代の724年に聖武天皇が天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)の夢枕でのお告げを受けて、行基を勅使としてつかわせて堂塔を開基したのが始まりとされています。
戦国時代の小谷城主・浅井家や太閤・豊臣秀吉、秀頼との関係も深く、「(神を)斎く島」として信仰の方や観光の方が訪れる島となっています。



この日は元旦とあって貸切チャーター便や正月増発便で波止場には船を待つ多くの方が列を作っていましたが、何とか2階席を確保して島へ渡っていきました。
船は長浜港沖のエリを迂回しながら、南浜大橋・山本山・葛籠尾崎を横目に運航していき、いよいよ竹生島へ上陸することになります。
陸地は曇ったままでしたが、山本山にかかる虹を過ぎた辺りから急に晴れ間が広がってきたのが嬉しい。





竹生島は周囲2㌔の無人島で琵琶湖では有人島の沖島に次ぐ大きさの島ですが、面積は0.14㎡の小さな島にも関わらず標高は197mあることから傾斜が強く、参拝は急な石段を登っていくことになります。
年齢層の高い方が多かったため石段の歩みは全体にゆっくりで、人によっては石段の前で参拝を諦めた方もおられました。





竹生島には西国三十三所の30番札所の「宝厳寺」と「都久夫須麻神社」の2ヵ所に参拝することになりますが、まずは「宝厳寺」へ向かうことにしました。
本堂(弁才天堂)の手前には不動明王と眷属の矜羯羅(こんがら)、制多迦(せいたか)の大きな像が安置されています。
密教系の寺院となっているのは平安時代の前期に比叡山延暦寺の影響があったことが影響しているのかもしれません。



「宝厳寺」は現在は、真言宗豊山派の寺院で山号を「巌金山」とし、本尊は弁才天(日本三大弁才天)を祀っています。
「宝厳寺」の創建は奈良時代とされていますが、何度かの大火に見舞われたことから現在の本堂(弁才天堂)は1942年築と新しいものの、風格のある建物となっていて参拝の列が続いていました。



本堂の外陣では振る舞いのお神酒(樽酒)が頂けますので正月気分が盛り上がりますが、気になるのは両隅に安置された弁才天です。
蓮の花台の上に2躰の弁才天坐像が祀られていて、これは御本尊の大弁才天ではありませんが特徴のある仏像でした。



どうにも気になるので寺社境内にある宝物殿という寺宝の収蔵庫へ入館して受け付けの方に竹生島の弁才天について詳しい話を聞いてみたら、なかなか興味深い話が聞けました。

竹生島の弁才天信仰には特殊な伝統があるそうで、「蓮華会」という伝統行事により中世以降から会の頭人(代表者)になった人が毎年新しい弁天像を造像して奉納していた行事があったそうです。
蓮華会の始まりは平安時代の977年とされ、かつての頭人は湖北の豪族や大名・庄屋・名主などが務め、戦国時代の小谷城の浅井家も頭人を務めたそうです。
現在は新しい弁才天の奉納はなくなったものの、頭人が弁才天を自宅でお祀りしてお盆に宝厳寺へ返す形で継続されているというのは驚きでした。



また竹生島の弁才天は少し変わった仏像になっているとおっしゃってましたが、確かに宝厳寺の弁才天は八臂の坐像で頭上には鳥居ととぐろを巻いた蛇の上に乗った顔が乗っています。
ヒンドゥーの女神(サラスヴァティー神)を起源とする弁才天は竹生島信仰の中で随分と変容した姿となったようです。
内陣にはいくつかの弁才天が残されているとおっしゃってましたので、湖北地方の独特の弁才天信仰が竹生島にはあったということになりそうです。



宝物殿には「弁才天」が2躰あり、他にも「不動明王坐像」や「巨大な玉を背に乗せた怪獣系の亀の像(名称不明)」もあって、亀の像を見て不思議がっていると係の人の人がやって来て“彦根藩の井伊家から寄贈されたもの”と教えて下さいました。
この像には元々は金箔が貼られていたそうですが、現在は一部に金が見えるのみ。彦根城は別名「金亀城(こんきじょう)」と呼ばれていますから、その辺りからのつながりなのかとも思います。

さて、宝物殿の寺宝を見て堪能して出てくると、次は宝物殿の隣にある三重塔へ向かいました。
約350年前の江戸時代に焼失した塔で2000年に再興された新しいものではありますが、新しい建築物ゆえに色彩が綺麗で見応えのある塔でした。



三重塔・宝物殿をさらに進んでいくと「国宝」唐門と「重文」観音堂があります。(観音堂は平成29年3月、唐門は平成31年3月まで修復工事)
観音堂には「千手千眼観世音菩薩」が祀られているようですが、次回の御開帳は2037年ですので見られないかもしれない仏像となります。

国宝の唐門は秀吉を祀った豊国廟の極楽門を豊臣秀頼の命により片桐且元が移築したとされていますので、時代としては大坂の陣の少し前くらいになるのでしょうか。
また都久夫須麻神社へ向かう渡り廊下は「船廊下」として重要文化財に指定されていますが、何故か「国宝」の看板と「重文」の看板が並んである妙な光景になっています。



廊下の下は絶壁ですので建物は「懸造(がけづくり)」になっており、廊下に使われている資材は朝鮮出兵のおりに造られた日本丸の船櫓を利用したとされています。
こうしてみると豊臣家には竹生島信仰もあったということになりますね。



順路の最後にあるのは「都久夫須麻神社」で御祭神は「弁才天・宇賀福神・浅井比売命・龍神」の4柱。
「宇賀神」とは人頭蛇身でとぐろを巻く蛇の神のことで、これが弁才天と合体したものが宝厳寺の大弁才天ということで話が継がります。



本殿は秀吉が寄進した伏見桃山城の束力使殿(天皇の使者殿)を移転したもので国宝に指定されていますが、ここにも豊臣家の痕跡が残されていました。
ところで、竹生島へ一度でも行かれた方なら竹生島といえば“かわらけ投げ”を連想されると思いますが、竜神拝所へ向かって願いを込めた土器(かわらけ)を投げたものの、かすりもせず、届きもせず、力なく落下していってしまいました。



竹生島での上陸時間は80分ほどあったものの、ゆっくり見て回るには少し時間が足りません。
予定の最終船を逃すと帰れなくなってしまうので慌てて船に駆け込みましたが、船中から見る夕暮れの迫ってきた竹生島は何となく寂しい姿に見えてしまいます。



この日、宝厳寺の御朱印は頂けましたが、竹生島神社の御朱印は船の出航時間が間近になっていたので頂くことが出来ませんでした。
これは“もう一度おいで!”ということなのでしょうね。


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