南禅寺管長を勤められた(故)柴山全慶老師の
『花語らず』です。
花は黙って咲き、黙って散って行く
そうして再び、枝に帰らない
けれども、その一時一処に、この世の全てを托している
一輪の花の声であり、一枝の花の真である
永遠にほろびぬ生命の喜びが、悔なくそこに輝いている
花は「人によく見せよう」とか「綺麗に思われたい」
と、思って咲いているのではなく、
花だから咲くだけのことです。
ただ、自らに与えられた生命を、一生懸命に生きています。
その一途な姿が、自然と周りの人の気持ちを惹きつけ
感動を与えていくのでしょう。
その反面、自分の環境に不平不満を言うのは、人間だけです。
仏教では、そういう見方をせずに、全てを受け止めます。
辛いことでも、何でも「ありがたい」と・・・
自分に与えられた人生を、きちんと頂きます。
幕末の志士 “雲井龍雄”は、斬首を前に
『散る桜、残る桜も、散る桜』という辞世の句を詠みました。
これは、首をはねられる自分は、今死ぬが
「はねる側の貴様も、やがて死ぬ運命ではないか」と
いう強烈な心の叫びで、心を打ちます。
今、生きている我々も、桜も、やがては散る運命です。
私たちは、一刻一刻、死に向かって生きているのです。
散った花はもとの枝に戻りませんが、
今、ここで、精一杯、花の生涯を生ききっています。
どんなに短い生涯であろうとも、
充実した人生を送れたら、何も悔いは残らない、
輝いた人生だということです。
ですので、人を計るモノサシなんてありません。
世間体、標準などという、あやふやな言葉に
迷ってはいけないと思います。
人の値打ちは、亡くなってから決まるのかもしれません。
葬式や法事の後には、必ず、
「あの人はこうだった」「こんないい人だった」と
皆さんが、故人を偲んで仰います。
一輪の花の生き方を見習って、頑張ろうと思います。
『花語らず』です。
花は黙って咲き、黙って散って行く
そうして再び、枝に帰らない
けれども、その一時一処に、この世の全てを托している
一輪の花の声であり、一枝の花の真である
永遠にほろびぬ生命の喜びが、悔なくそこに輝いている
花は「人によく見せよう」とか「綺麗に思われたい」
と、思って咲いているのではなく、
花だから咲くだけのことです。
ただ、自らに与えられた生命を、一生懸命に生きています。
その一途な姿が、自然と周りの人の気持ちを惹きつけ
感動を与えていくのでしょう。
その反面、自分の環境に不平不満を言うのは、人間だけです。
仏教では、そういう見方をせずに、全てを受け止めます。
辛いことでも、何でも「ありがたい」と・・・
自分に与えられた人生を、きちんと頂きます。
幕末の志士 “雲井龍雄”は、斬首を前に
『散る桜、残る桜も、散る桜』という辞世の句を詠みました。
これは、首をはねられる自分は、今死ぬが
「はねる側の貴様も、やがて死ぬ運命ではないか」と
いう強烈な心の叫びで、心を打ちます。
今、生きている我々も、桜も、やがては散る運命です。
私たちは、一刻一刻、死に向かって生きているのです。
散った花はもとの枝に戻りませんが、
今、ここで、精一杯、花の生涯を生ききっています。
どんなに短い生涯であろうとも、
充実した人生を送れたら、何も悔いは残らない、
輝いた人生だということです。
ですので、人を計るモノサシなんてありません。
世間体、標準などという、あやふやな言葉に
迷ってはいけないと思います。
人の値打ちは、亡くなってから決まるのかもしれません。
葬式や法事の後には、必ず、
「あの人はこうだった」「こんないい人だった」と
皆さんが、故人を偲んで仰います。
一輪の花の生き方を見習って、頑張ろうと思います。
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