霜恋路日記

【しもこいじにっき】
ロマンチックな名前「恋路」という場所においての出来事です。これは正真正銘本当の地名です。

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障子岳の挙兵

2005-08-30 09:48:28 | 歴史/古文書
 障子岳という小さな山が、私のマンションの北側に迫ってたっているこの障子岳はいにしえ、大内氏が滅亡直後反毛利氏を掲げて叛乱を起こした中心的な砦の跡である。

 大内義長が弘治3年4月3日長府の長福寺にて内藤隆世の身代わり自刃にかかわらず味方の裏切りもあり自刃して大内氏の支配は毛利氏に取って代わられた。
 その後も大内氏の遺臣らは、大内氏再興を図るべく山口においても叛乱を起こしたが時の高嶺城を預かっていた市川経好に騒乱を抑えられていた。

 その後も大内氏の遺臣たちによる反毛利氏の動きは活発し弘治3年(1557)11月に大内氏の重臣、杉、内藤、問田氏などの義長の遺臣らが問田亀鶴を奉じて杉、草場、小原、河越氏などが障子岳に挙兵し毛利氏の支配を覆させようとしたが、これを内藤隆春、杉重良、勝間田、雑賀氏らが首35級をあげて鎮定した。11月11日のことである。

 問田亀鶴は内藤興盛の娘で大内義隆に嫁いで亀鶴を生んだといわれている。大内義隆の遺児であるが其のとき捕らえられ捕殺された。山口市大内御堀の問田という集落に住んでいて問田殿といわれていた。今はそこらには武家屋敷が残っており武家屋敷の風情と町割が見られる。

 杉、内藤、問田氏など一族で血を血で洗う骨肉の争いであった。

 障子岳には大きな土塁が連続して残されていて掘り切も大きなものが現在残っている、このマンションからは郭とその下の武者走りの段差がくっきりとよく見える位置にある。

 他にも山口市糸米、徳地・防府、富田・富海でも蜂起が起こり徳地・防府では2000人規模となった。富田・富海では抵抗が強く、吉田郡山城から隆元・元就親子が出兵し鎮圧したほどであった。

 その後も大内輝弘の乱が起きるなど、毛利氏が支配をするのに大内氏の遺臣たちの抵抗は強く残っていたといえよう。

05-07-23
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