リンポウアカデミア

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

人気記事張良の最期161029

2016-10-29 10:45:11 | 日記

人気記事張良の最期。韓信のために割く土地はさらに広大であった。陳(ちん)(河南省太康付近)から海にいたるまでのすべてである。この大陸におけるもっとも豊かで人口の多い地の多くが、この二人に与えられることになった。(両人は、喜んでこれを受け、兵力をこぞって項羽を撃つべく参戦するだろう)張良は、思った。ただ、張良は両人がこれを受けたことによって将来をほろぼすに至るであろうことまでひそかに予測した。主を凌(しの)ぐ功を立て、主をしのぐ封地を持てば、天下が落ち着いた後、主である劉邦がなおも寛容であるかとなると、疑問というほかない。後日のことになるが、張良の予感は的中した。劉邦はなお寛大であったが、その妻の呂后(りょごう)はこの両人を目のかたきにした。呂后だけでなく、群臣のなかには佞険(ねいけん)な性格の者も多く、両人の異数の褒賞(ほうしょう)を喜ばず、謀反(むほん)のうわさなどを立てて、結局は両人それぞれの運命をたどって殺され、その封土を取り上げられるにいたる。張良は、並はずれてこの種のことが見える男であった。同じく後日、劉邦が諸将の論功行賞を行ったとき、張良の功を特に重く評価し、三万戸という大封を与えようとしたが、張良は固く辞して受けなかった。それがしがはじめて陛下にまみえましたのは、留(りゅう)(江蘇省)の町の郊外でございました。あの町一つを頂戴(ちょうだい)できれば十分でございます。といい、ついにその通りになった。張良はその無欲のために漢帝国成立後の功臣や権臣の没落からまぬがれ、すべての人々から敬愛された。そういう留侯(りゅうこう)張良の家でさえ二代は続かなかった。張良の死後、その子、不疑(ふぎ)が不敬罪に問われ、封地を没収された。(「項羽と劉邦」司馬遼太郎著(下),p386,新潮文庫より)

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« カウントダウン161029 | トップ | 人気記事大往生161029 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。