リンポウアカデミア

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

大内氏161014

2016-10-14 04:59:08 | 日記

大内義弘の時代の天授5年/康暦元年(1379年)には高麗からの要請を受けて倭寇勢力と戦い、慶尚道までも追跡したものの、現地の高麗軍の非協力によって敗退し、高麗側より謝意の使者が送られている[6]。だが、室町幕府から派遣されていた九州探題今川了俊が大内氏ら諸大名と朝鮮間の直接通交に対して規制をかけていたためにその後の通交は途絶え、再開されたのは了俊が失脚した応永2年(1395年)以降であった。朝鮮側からは主に倭寇の禁圧を、大内氏側からは大蔵経などの請受を求められたと考えられている。室町幕府は大内氏を朝鮮との取次と位置づけて、その直接通交を黙認しており、それは応永の乱で足利義満に叛旗を翻した義弘が討たれ、続いて追討の対象になった大内盛見が実力で大内氏の家督と領国を勝ち取り、義満がそれを認めざるを得なくなった以降も変化はなかった。むしろ、それに歯止めをかけたのは大内氏と少弐氏の北九州及び博多を巡る武力抗争と、将軍足利義教時代の外交一元化策と大内氏ら守護への規制圧力であったと考えられている。大内氏からの使者は大内盛見時代の応永30年(1423年)に派遣されたのを最後に途絶し、永享12年(1440年)に次代の大内持世が秘かに朝鮮に遣使していた事実を、嘉吉の乱による持世の急死で後を継いだ大内教弘が知らなかったとされている。なお、大内持世は少弐氏とその同盟者である対馬の宗氏を滅ぼすために、朝鮮に対馬を割譲しての軍事同盟を意図していたものの、朝鮮側にそれを持ち出す前に突然の殺害によって具体化する前に立ち消えになったとされている[7]。過去の大内氏による直接通交の経緯も知らないまま家督を継いだ大内教弘が朝鮮側の要請によって直接通交を再開したのは嘉吉3年(1443年)の事であった(応永27年(1420年)生まれとされる大内教弘は大名が朝鮮と通交することは前例がないことだと考えていた[8])。その後、享徳2年(1453年)になって朝鮮から大内氏に特に通信符と呼ばれる印が与えられ、大内氏の使者に対する特権付与とともに偽使排除の役目を担った。当時の大内氏は教弘と実兄の教幸の家督を巡る対立があり、教幸側も博多商人や宗氏と結んで朝鮮との通交を探っていたからである。その問題が現実化するのは、教弘が急逝し、後を継いだ政弘が応仁の乱で西軍の一員として上洛し、東軍はこれに対抗して教幸を大内氏当主と認めて家中が分裂した時のことである。政弘の不在中、大内氏の偽使が横行し、乱の終結後文明11年(1479年)に朝鮮に派遣された政弘の使者は過去10年余りの使者は全て偽使であると否認[9]したが、実際には教幸側の派遣した「正使」も含んでいた可能性もある。文明以降は2年から4年おきに1回のペースで派遣され、また大内氏は本来は足利将軍だけが持つはずの牙符を入手して「日本国王使」を派遣できるようになるなど、三浦の乱・寧波の乱による対外的緊張を挟みながら進むことになる。16世紀になって、対馬の宗氏が通交の独占を図ろうとするものの、それを唯一阻むのは赤間関と博多を掌握した大内氏の存在であった。少弐氏の没落後、大内氏と宗氏は協調関係にあり、宗氏が大内氏の了承を得て大内氏の偽使を派遣した例もある。大内氏の滅亡後、宗氏は大内氏及び少弐氏の滅亡の事実(少弐氏は大内氏の2年後に滅亡)を豊臣政権による日本全国平定でその事実を隠せなくなるまで、朝鮮側には両氏滅亡の事実を隠して大内氏の偽使を派遣して通交の独占を図ることになった。室町期の大内氏に関して特筆すべき点として、対外関係に深く関わっていた点である。特に朝鮮との関係においては、「倭寇禁圧」という現実的な問題を抱えていた高麗や李朝は、あくまでも「日本国王」との通交しか認めて来なかった明とは異なって、北九州や瀬戸内海沿岸などの海上勢力及び彼らに影響力を及ぼせる有力武家との交渉にも力を注いでいた。特に「百済の子孫」を称していた大内氏はその親近感も相まって、その遣使は将軍による「日本国王使」に次ぐ「巨酋使」と位置づけられていた。「巨酋使」の待遇を受けていたのは他に三管領や少弐氏が挙げられるが、三管領が朝鮮に遣使する機会は限られ、日本国内においても大内氏の競合相手の1つであった少弐氏は大内氏によって没落させられると、大内氏は朝鮮側からは室町将軍に次ぐ政治権力とみなされ、対馬の宗氏と並んで重要視されるようになった。また、朝鮮から日本へ派遣される使節は必ず、大内氏領の赤間関(現在の下関市)を通過する事になっており、瀬戸内海の海賊勢力から使節を安全に護送するためにも大内氏の協力は不可欠なものであった。大内義弘の時代の天授5年/康暦元年(1379年)には高麗からの要請を受けて倭寇勢力と戦い、慶尚道までも追跡したものの、現地の高麗軍の非協力によって敗退し、高麗側より謝意の使者が送られている[6]。だが、室町幕府から派遣されていた九州探題今川了俊が大内氏ら諸大名と朝鮮間の直接通交に対して規制をかけていたためにその後の通交は途絶え、再開されたのは了俊が失脚した応永2年(1395年)以降であった。朝鮮側からは主に倭寇の禁圧を、大内氏側からは大蔵経などの請受を求められたと考えられている。室町幕府は大内氏を朝鮮との取次と位置づけて、その直接通交を黙認しており、それは応永の乱で足利義満に叛旗を翻した義弘が討たれ、続いて追討の対象になった大内盛見が実力で大内氏の家督と領国を勝ち取り、義満がそれを認めざるを得なくなった以降も変化はなかった。むしろ、それに歯止めをかけたのは大内氏と少弐氏の北九州及び博多を巡る武力抗争と、将軍足利義教時代の外交一元化策と大内氏ら守護への規制圧力であったと考えられている。大内氏からの使者は大内盛見時代の応永30年(1423年)に派遣されたのを最後に途絶し、永享12年(1440年)に次代の大内持世が秘かに朝鮮に遣使していた事実を、嘉吉の乱による持世の急死で後を継いだ大内教弘が知らなかったとされている。なお、大内持世は少弐氏とその同盟者である対馬の宗氏を滅ぼすために、朝鮮に対馬を割譲しての軍事同盟を意図していたものの、朝鮮側にそれを持ち出す前に突然の殺害によって具体化する前に立ち消えになったとされている[7]。過去の大内氏による直接通交の経緯も知らないまま家督を継いだ大内教弘が朝鮮側の要請によって直接通交を再開したのは嘉吉3年(1443年)の事であった(応永27年(1420年)生まれとされる大内教弘は大名が朝鮮と通交することは前例がないことだと考えていた[8])。その後、享徳2年(1453年)になって朝鮮から大内氏に特に通信符と呼ばれる印が与えられ、大内氏の使者に対する特権付与とともに偽使排除の役目を担った。当時の大内氏は教弘と実兄の教幸の家督を巡る対立があり、教幸側も博多商人や宗氏と結んで朝鮮との通交を探っていたからである。その問題が現実化するのは、教弘が急逝し、後を継いだ政弘が応仁の乱で西軍の一員として上洛し、東軍はこれに対抗して教幸を大内氏当主と認めて家中が分裂した時のことである。政弘の不在中、大内氏の偽使が横行し、乱の終結後文明11年(1479年)に朝鮮に派遣された政弘の使者は過去10年余りの使者は全て偽使であると否認[9]したが、実際には教幸側の派遣した「正使」も含んでいた可能性もある。文明以降は2年から4年おきに1回のペースで派遣され、また大内氏は本来は足利将軍だけが持つはずの牙符を入手して「日本国王使」を派遣できるようになるなど、三浦の乱・寧波の乱による対外的緊張を挟みながら進むことになる。16世紀になって、対馬の宗氏が通交の独占を図ろうとするものの、それを唯一阻むのは赤間関と博多を掌握した大内氏の存在であった。少弐氏の没落後、大内氏と宗氏は協調関係にあり、宗氏が大内氏の了承を得て大内氏の偽使を派遣した例もある。大内氏の滅亡後、宗氏は大内氏及び少弐氏の滅亡の事実(少弐氏は大内氏の2年後に滅亡)を豊臣政権による日本全国平定でその事実を隠せなくなるまで、朝鮮側には両氏滅亡の事実を隠して大内氏の偽使を派遣して通交の独占を図ることになった。応仁の乱から戦国時代。大内政弘は、応仁元年(1467年)から始まる応仁の乱で西軍の山名宗全に属して勇名を馳せ、宗全の没後に山名氏が戦線を離脱すると、西軍における事実上の総大将になった。乱の終結後は、九州での復権を目論んで挙兵した少弐氏・大友氏を再び屈服させた。それだけに留まらず室町幕府にも影響力を及ぼす守護大名としての地位を保持し続けた。また、分国法である「大内家壁書」を制定し、守護代ら重臣の台頭を抑えようとした。戦国時代、政弘の後を継いだ大内義興は、少弐氏を一時滅亡に追いやるなど北九州、中国地方の覇権を確立し、その勢力基盤を確固たるものとした。そして京都を追われた放浪将軍足利義稙を保護した。永正5年(1508年)に細川高国と協力し、足利義稙を擁して中国・九州勢を率いて上洛を果たした。上洛後は管領代として室町幕政を執行し、表面上は一大勢力を築き上げた。しかし長期の在京は大内氏にとっても、その傘下の国人や豪族にとっても大きな負担となり、先に帰国した安芸武田氏の武田元繁や出雲の尼子経久らが大内領を侵略し、足元を脅かす存在となった。その対応に苦慮した義興は京都を引き払い帰国して、尼子氏や安芸武田氏と戦った。享禄元年(1528年)に義興が死去すると、嫡子の大内義隆が家督を継いだ。この時代には周防をはじめ、長門、石見、安芸、備後、豊前、筑前を領するなど、名実共に西国随一の戦国大名となり、大内家は全盛期を迎えた。さらには細川氏とも争って明との交易を独占し、義隆が学問・芸術に熱心でキリスト教布教を許し、公家や宣教師を積極的に保護したことから、大内領内には独特の山口文化(大内文化)が生まれ、文化的にも全盛期を迎えた。

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« こころ161014-2 | トップ | 人気記事161014 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。