葉山町インサイダー

のどかでゆったりとした毎日が過ぎてゆく。All has gone. 葉山の人のぬくもりが感じられる今日この頃です。

遠くなった昭和・思い出の歌 10曲

2016年10月12日 | MUSIC

昭和の時代を生きて 思い出の歌の数々   10曲    

古き懐かしき頃への郷愁だろうか。

数年前放送された「若者たち2014」の歌を唄う機会が年4、5回ある。

昭和の激動の時代に生き抜いてきたわれわれが、苦しかったけれど少しは希望をもてた時代であったことを思い出しながら 今 振り帰りつつ、ここまでこれたその感慨を味わいながらこれらの歌を聴いている。

2016年.

現在はといえば、周囲から見知って人たちはすこしづつ消えてゆく。

もうあの頃の時代には帰ることは叶わないのだと。

寂しいかぎりだ。

過ぎ去った人生の節目 節目に思い出の曲がある。

 

人にはうとまれてもいい、だが恨まれるな  の人生教訓を得る。

・アカシアの雨がやむとき 西田佐知子 昭和35

 

https://youtu.be/8ubAq1_jB6g


アカシアの雨にうたれて そのまま死んでしまいたい・・

今はタレント関口宏の妻となっている美人歌手西田佐知子がけだるく、物憂いげに歌う。

その投げやりな歌い方が安保闘争で疲れた若者たちの心をとらえた。

国会前のデモで機動隊に踏み殺された東大生樺美智子さんの父親である樺俊雄教授の「社会学」を大学で私は取っていた。自分の娘を蹴り殺されたその怒りを胸に秘めて、淡々と講義をする姿をみて、怒りが極限に達すると人は逆に寡黙になる、ということを目の当たりした。

その後の人生で人と討論する時 相手を完璧にやっつけるまで攻撃しないこと、逃げ道をつくってあげること、人を怒らせるまでやらないこと。など学んだ。人にうとまれてもいい、だが憎まれ、恨まれるまでその人を攻撃するな その時の教訓であった。

 

最も輝いていたアメリカ時代

・北の宿から 都はるみ

https://youtu.be/QKmma_bRdQE

俳句の様に七文字、五文字の繰り返し

作詞の阿久悠<故人>は、素晴らしい。

 昭和の50年代、米国へ 米国へと企業が流れていった時代。

米国西海岸のポートランド郊外の日本村へ飛ばされても、張り切っていた時代

壮行会で社長と『北の宿から』をデュエットで歌う。

まさかそれが最後の会となろうとは・・。

その社長 先年 勲章をもらい 翌年旅立った。

生涯で公私共に最もお世話になった人だった。

総務課長時代に 冠婚葬祭は欠かすな と厳しく教えられた。

奥様から簡単な手紙を頂いた。

病室に見舞った時の本当に嬉しそうな顔。

「人づてに君の活躍は知っていた、会えて本当に良かった」と。

心おきなく、見送れた。

 

 ・高橋真梨子 五番街のマリ-へ 昭和48年

https://youtu.be/kzL8D8EljXo

この唄の舞台はNYではなく横浜である。

別れた彼女を思いやり、幸せを願う唄である。

誰にでもある過ぎ去った思い出の中にちょっぴり感じる痛みを表現している名曲です。

横浜という異国情諸の土地で 歌詞もマリーというバタ臭い名前で「5番街は近いけれど・・

遠いところ・・」地理的には近いけれど 心理的には自分で様子を見に行く勇気がない という微妙な男心を表現している。

今が幸せでないひとには、この曲のよさはわかないかもしれない。

 

池上線 西島三重子 昭和51年

https://youtu.be/EtbamP3Ve-U

い電車のドアのそば

 二人は黙って立っていた

 話す言葉をさがしながら

 すきま風に震えて

爆発的なヒットではなく、長い間徐々に歌われ続けた曲だ。

池上線は蒲田駅始発 五反田駅までのまさに東京の城南を走る電車である。久が原の高級住宅街を抜けてがたがたと音をたてながら 踏切ばかりある。

大学に入りたてのころ 自分は蒲田に下宿していた。

東口には映画街があり、唯一の娯楽である映画館に町工場で働く地方出の若者が多く詰め掛けていた。半世紀たった今もその街並みが残っている。西口は富士通がビルを建て、日本工学院が学校を作り、下宿していた牛乳屋はビルになっていた、ポン女に通う女子大生がいて池上線経由で目白へ行っていたのを思い出す。バイトに明けくれる自分には遠い世界の人だった、記憶がある。「池上線」を聴くと何故か、”条件反射”の様に目がうるみ 胸がくるしくなってしまいます

当時 バイトに明けくれていた学生だった私はコッペパンを買ってアパートへ帰る日々がつづいていました。

蒲田を電車で通る時 必ずこの曲を思い出します。不思議とあの古い東急電車をおもいだすのです。。

 

 ・惜別の歌 中央大学学生歌 昭和36年

https://youtu.be/CYl9nlD4hDk

 

 【作詞】島崎藤村【作曲】藤江英輔. 東京板橋の陸軍造兵廠第三工場に学徒勤労動員中、戦地に赴く学友を送る歌として昭和20年、中央大学予科生の藤江英輔(ふじええいすけ)氏が作曲した。

   遠き別れに 耐えかねて

   この高楼(たかどの)に のぼるかな

   悲しむなかれ 我が友よ

   旅の衣を ととのえよ

歌には、生きたくても生きられなかった時代の、若者たちの想いが込められている。

小林旭の唄でヒット、大学の唄がこんなにも多く親しまれたのは、大学の名前をあえて宣伝しなかったからである。

動画出品数17万件という空前の静かなるヒット曲となっている。

 親しき友と別れる時、別れ難き心情に駆られた時、この歌がうたわれる。

 

旅の終わりに 冠二郎 昭和52

https://youtu.be/hHwcuTAjGgI

 

流れ 流れて さすらう旅は・・今日は函館 明日は釧路・・

行方が定まらない人生、このままでいいのか 不安な将来を感じながらも毎日が過ぎて行く。

すでに子どももいて 転職もままならない。その男の心理が見事に歌われており共感を呼ぶ。

五木寛之は自分が最も好む作家である。彼の原作のドラマ「海峡物語」の主題歌。

東京に来て転居すること7回。最初は川崎競輪場 蒲田で下宿 鹿島田ではアパート> そして高津区平では市営住宅 多摩区中之島でマンション、麻生区新百合で戸建てに移り そして川崎市におさらばをして 葉山を終の棲家と。目まぐるしい引っ越しである。地方での若者がたどる典型的な絵にかいたような人生行路である。

 

津軽のふるさと 美空ひばり  昭和28

https://youtu.be/gWC5VRPXoPc

津軽のふるさとは雪国の果て. ああ津軽の海よ山よ

いつの日もなつかし津軽のふるさと .

うらうらと山肌に抱かれて夢を見たあの頃の想い出」

これだけ情景を表現出来る歌手はいません 美しい情景が想い浮かぶ、

電機会社にいたころ 津軽の五所河原出身の新卒がいた。

五所河原は太宰治の故郷で、太宰の著書を愛読していた。

神経のデリケートの彼は人間関係に悩み ある時から会社へ来なくなった。

総務課長の私は津軽から父を呼び 探したが遂に見つからなかった。

「百姓 ○○○○」という名刺をまだ捨てきれないで持っている。

この歌を聴くたびに思い出す。雪国育ちの若者を失った悲しい事件を。

 

舟歌  八代亜紀 昭和54

https://youtu.be/C1GATyFEcqQ

酒はぬるめの燗がいい、肴はあぶったイカがいい・・」

客がまばらなカウンターで一人孤独に酒を飲む男の姿が目に浮かぶ。妙に共感する。

いまはなくなったトリスバーの風景がノスタルジックに回想される。

金はないのにボトルをキープし、恰好をつけてしまって・・

様々な人生が重なり合い 泣けてしまう。

 

 

千曲川 五木ひろし 昭和50年。

https://youtu.be/G5hO2Xntqws

銀座のママ山口洋子さん作詞&作曲猪俣公章さんの2人は「千曲川」という名曲を残して旅立った。

千曲川は日本一長い信濃川の上流で長野県を流れる部分をいう。

自分にとって千曲川とは、島崎藤村の「千曲川旅情の歌」を丸暗記させられた思い出が深い。

栄枯の夢の消え残る谷に下りて、川浪のいざよう波をみれば・・昨日もかくてありけり、今日もかくてありなん、この命何をあくせく、明日をのみ思い煩う」

と孤独感を漂わせる。

この五木の歌は全く島崎藤村の詩とは関係ないのだが、

生まれ故郷の3軒隣の幼友達が千曲川縁に最新鋭の果汁エキス工場を建てた。年間500億円を超える会社になっている。

その彼 神社に多額の寄付をし、まだ生きているのに石碑が立つた、

私など及びもつかぬ出世し、多額の金をつかんだ。

かれはこうして生きた証を後世に残した。

自分は何を残せるだろうか・・

 

 

津軽海峡冬景色 石川さゆり 昭和51年

https://youtu.be/ZBGeecgjinM

上野発の夜行列車 おりた時から 

青森駅は雪の中

北へ帰る人の群れは誰も無口で 

海鳴りだけをきいている

私もひとり 連絡船に乗り 

こごえそうな鴎見つめ泣いていました

ああ津軽海峡 冬景色

石川さゆりの切ない歌声は、うめき声のような海鳴りと重なって聴き手に迫ってくる。

最初からロックの形で作られた演歌なのである。と今は亡き評論家の中村とうようはいっていた。そういえばロックビートの曲である。

また彼女をよく番組に起用した久世光彦は

日本人は北へ北へと目指す。「北」というと方角のことを思い浮かべるが、実は「北」には【逃げる】という意味がある。「北」という漢字は、左と右の人間が背を向けて立っている様子を表している。そこには【背を向ける・そむく】という意があり、【背を向けて逃げる】という意味にもつながる。例えば『敗北』は【負けて逃げる】という意味だ。

そう考えると、歌の中の孤独な主人公がなぜ北を目指すのか、かなり理解できるのではないだろうか。

北へいくほど風景は寂しくなり、行きあう人は少なくなる。

だから、北へ行こうとするのかもしれない。

肩をすくめ、心を凍らせて、歌の中の男や女は、独りうずくまる。

それが、わが国のロマンティシズムである。

 

 

 若者たち ブロードサイドフオー 昭和41年

 

https://youtu.be/vW0-sRt0RYw


君の行く道は

果てしなく遠い

だのに 何故

何を探して 君は行くのか

そんないしてまで


今の若者たちはそのような経験をもう味わえないかもしれない

「若者たち」というドラマはいろんなシーンに自分を重ね合わせることが出来たドラマだった。昭和という時代は苦労ばかり多かった時代だが、それが甘酸っさと微笑と、少しばかりの自慢で振り返りができるのもの、長生きしたおかげかもしれない。

 1970年代 今から40数年前 日本が最も活気あふれていた時代。

川崎の工場で油まみれになりながらも、密かに希望を持って働いていた時代。

総務課に配置されためにやむなく労使交渉で同僚や先輩と対決させられていた時代。

がむしゃらになって働き、やっとマンションが買えた時代。

 毎年の温泉大旅行が一番記憶に残つている。

やがて米国へ飛ばされ、工場を建て200人の米国人を雇った時代。

想えば がむしゃらに頑張ってきた。

 

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