葉山町インサイダー

のどかでゆったりとした毎日が過ぎてゆく。All has gone. 葉山の人のぬくもりが感じられる今日この頃です。

文明の衰亡と覇権国家の行方 1

2017年06月19日 | 文明の衰亡を肌で感じる旅

 

 

 

文明の衰亡と

 

覇権国家の行方    

 

 

 

                                                                                   目次

 

                                                                      古代遺跡めぐり の動機    2

アテネより200年前地中海で栄えたミレトス  3

ミレトス滅亡の原因  3

短命 ギリシャ文明の衰退  7

地中海の覇者カルタゴの滅亡  8

ローマ帝国 滅亡の原因  10

覇権国家とは  12

近現代の覇権国家  13

覇権国アメリカがローマから継承したもの  14

トゥキュディデスの罠  15

 

 

 

 

                                           

逗葉白門会総会29年6月17日

逗子 松汀園

庄武 和敏

古代遺跡巡りの動機

古代遺跡めぐりを始めたのは50代後半から 1992年からです。当時は

バブルがはじけるちょっと前です。その時は好景気でしたので旅行ができたのです。

 最初 古代遺跡をみたのは1992年、娘がトルコの国立アンカラ大学にいたので、トルコのイスタンブール経由でエーゲ海沿岸 地中海沿岸に10日ほど自由旅行にゆきました。ここらあたりはギリシャ文明の中心地をアテネとするならば、その周辺に位置します。はげ山だらけの風景はショックでした。森に囲まれた日本人には想像外のことでした。

そして何故か? と考えたのです。

その考えは大学時代 法学概論で「常に何故か 何故か」を問いなさい。それが法律の勉強の基本です。何度も言われていたからです。それが耳に残っていたのです。

何故はげ山だらけなのか? そこからいろいろ調べてゆくうちに古代地中海文明がなぜ崩壊したのかが分かり始めたのです。

結論からいうと、木材 森林の乱獲が重要な原因だったのです。

それがなぜ文明の崩壊につながったのか、後ほど説明します。

訪問した地中海沿岸の国はスペイン イタリア クロアチア ギリシャ

トルコ、エジプトなどです。トルコは6回行っています。

 トルコは遺跡の宝庫です。ギリシャ、ローマを凌ぎます。古代遺跡をみて驚くのはそのスケールの大きさです。それがすべて大理石、石灰岩できています。周辺、海岸はみなはげ山です。アポロ神殿の石柱です。トルコのミレトスの周辺都市デデイマにあります。

<今回 紹介する4つの覇権国家の所在地>

古代アテネより200年前に栄えたミレトス 

このアポロ神殿が象徴する都市国家ミレトスの栄華と滅亡をご紹介します。

皆さんというより日本人の殆どが知らない紀元前6世紀に栄えた町です。

ミレトスが当時の地中海世界でどのような位置をしめていたか、

BC8世紀ギリシャ人の入植地として発展した町です。高校の教科書ではギリシャ文明のカテゴリーで扱われ その名前は出てきません。

ミレトスはBC6世紀黒海周辺に多くの植民地(50~60都市)を建設していた。

歴史上最初に通貨を国際決済につかったポリスです、一番目は隣国のリデイア<今のトルコ・アナトリア>ですが、隣国との交易に通貨を採用したのはミレトスが初めてです。文字の使用に匹敵する人類史の大きなターニングポイントです。通貨を物々交換の代わりに使うということは経済を支配できることです。当時人口3万人の覇権国家です。

2 高度な文化が栄えたことです

・1年は365日 ・羅針盤 ・日食など ここで発見され使われ始めたことです。

哲学・ミレトス学派の発祥地。高校の教科書にでてくる

 ○「水は万物の源である」といったターレス(BC640~546)。

 〇「万物の起源は空気である」とその弟子アナクシマンドロス(BC610~547)

アテネのソクラテス(BC469~399)、プラトン(BC427~347)アリストテレス(BC384~327)より200年前です。

=ミレトス滅亡の原因 ⓵ ペルシャ戦争で壊滅する=

歴史の父ヘロドトスの「歴史」(上中巻)がミレトスの繁栄と滅亡を唯一紹介する史書。

 当時イオニア地方には12都市(エフエソス、プルニエ)があり、その連合体の盟主にミ レトスがなっていたのです。リキヤ連盟(Lycian League)と呼ばれています、

アメリカ合衆国憲法の採用する「連邦制」はリキヤ連盟がその原型になっていることを日本人はしらない。米国議会報告書(2006・5.26)ニューヨークタイムの記事があります。

ミレトスは東方のペルシヤ帝国と協定を結んでいた。

ペルシャの脅威がなかったので、文化、経済活動に専念できたのです。

そのミレトスは哲学者ターレスが死後50年経って、ペルシャ帝国<今のイラン>の王ダレイオスが領土拡大を始めイオニアの豊富な富を目に付はじめ干渉しはじめた。

それに反発してミレトスを首謀者として「イオニアの反乱」(BC500~493)が起きた

トルコ・エーゲ海沿岸12か国の反乱は7年でおわった。ミレトスがその経済的な裕福さと人口の多さからペルシャはミレトスの殲滅を計画する。

ミレトスはエーゲ海の向こうにある アテネに援軍を頼んだ。

アテネは20艘の軍船をイオニアに派遣した。これがペルシャ戦争の始まりです。

イオニア連合軍はミレトス80艘、プリエネ12艘、ら艦船の数は353艘。

 ペルシャ軍の船数は600艘 

3次まで続き、BC449年、ギリシャがサラミスの海戦で勝ち古代地中海の覇権をかけた大戦はギリシャ側の勝利に終わった。ギリシャの未曾有の発展がはじまります。

しかしミレトスはその首謀者ゆえ第1次戦役でペルシャに徹底的に破壊されています。

・「引き網式」掃討作戦、ペルシャの兵士が一人づつ手をつないで住民を狩り出す戦術。

 オニア諸都市を制圧、各都市に火を放ち聖城もろとも焼き払ったのである。

ミレトスの住民は奴隷になり 売られた。

しかし今日 町そのものも残っていない。何故か?

==滅亡の原因② 禿山から流失した土砂で港が埋まり町は15キロ後退し、港の機能が失われた=

気候が文明を変える」(岩波科学ライブラリー1) 著者は環境考古学という学問を創設した安田喜憲氏。ギリシャ トルコで「花粉分析」という手法で気候 と文明の関係を実証的に検証した日本人では数少ない文明史の研究家です。

=========花粉分析とは?=========

花粉は おしべの先端の葯に中で作られる。大きさは10~15ミクロン。

肉眼では見えない。花粉はスポロポレニンといばれる科学物質できた非常に強い膜をもっ ている。その花粉が湖底や湿原のように酸素の影響を受けない場所に落下すると何万年 も破壊されずに残る。

土地の上層から下層へ連続的に花粉化石を採取し、どんな種類の花粉が どれくらい含まれているか、顕微鏡で確認する。そして森の様子を復元する。森の分布や種類は気候や土地の条件により強く支配される。従って、森の様子を復元することで、過去の気候の状態も知ることができる。

 

 

地中海文明は森林の破壊が滅亡をまねいた。その理由。

エーゲ海 地中海の国は例外なく この現象で衰退 滅亡していた。

ミレトスは近くの大メンデレス川が毎年氾濫し、上流からの土砂が、徐々に堆積し、埋まり、海が遠ざかっていった。そして港は機能しなくなってしまったのである。トルコのエーゲ海沿岸、地中海沿岸は、奥地での森林伐採で山が裸になり、保水能力を失ってしまったのだ。

雨が降ると水を地面に吸い込む力がないために、表土を削って行き、ついには山からの水の流れが勢いを増し、氾濫するようにまでなったのである。メンデル川が上流から運んでくる土砂は、大きな湾を埋め尽くしたが、完全な陸地になってしまったわけではなく、沼地となっている。うっすらとした水溜りが周辺にみられるのは、このためである、

私たちが観光で訪ねたところはエーゲ海から15キロも離れたところであった。

野外劇場の側にはイネ科の雑草が見渡す限り生えており、その少し先には水たまりがアチコチにあり、往時の港であったことがわかる。

海から離れてしまったためにかって古代ギリシャ世界で最も栄えていた港湾通商都市が完全に死んだ町になってしまったのである。<写真参照>

トルコ政府発行のガイド本」「トルコの旅」のミレトスの項はこう書いている、

 当初ミレトスには2つの港、商業用と軍事用があった。メンデル川が押し流す土砂で埋め立てられ、今では海岸線は遠のいてしまった。ミレトスを滅ぼした最大の敵はこの川の流れだったといえよう

古代地中海文明は森の資源に強く依存した文明だったのである

軍船 青銅器、陶器の生産、毎日の薪の消費などで森を乱獲し、山羊や羊の放牧で木の芽まで食 べつくし、草の根っこまでも食べてしまった。この農耕と牧畜の活動が森の再生を困難にして、森は一方的に破壊されていった。人口が急増し、人々は家を建築し、調理のために薪を取るために森林を伐採し た。

農民は新たな農耕地を求めて更に奥地の森林を伐採し 開墾する必要があった。

森なくしては輸出用の青銅製品 陶器、船も家も薪ももつくることが出来ない。

 森林資源の枯渇で、交易により 木材資源を求めてトルコの西海岸 トロイへ手をのばした。これがトロイ戦争の遠因である。

 はげ山だらけの風景は古代地中海文明がなぜ崩壊したのかを、長い間 われわれに問いか けてきた。人間の歴史は、戦争や階級闘争と言った、人間対人間の争いの中で動いていたわけではなかったのだ。の花粉分析の手法を駆使した環境考古学の成果は人間中心主義の歴史観のみでは、人間の歴史を解明できないことを示し、山がはげ山になったことが古代地中海文明の崩壊につながったことを明らかにしたのである。

日本の科学者はすごいことをやっていたのである。彼は今京都大の名誉教授。

紀元前1500年ごろ レバノン杉は引っ張りだこであったが、今はわずかこれしか残っていない。

 ◎文明の崩壊のプロセス

1 文明の発展

 

2人口の増大 日々の生活の薪、陶器、船、宮殿建設用に木材が必要

 

3森の破壊木が生えても羊が芽の段階で食べつくす。山肌が荒れ、地中海性気候特有の冬の雨で表層の土が削り取られ、上流から港に土が堆積する

4気候の悪化→寒冷化 麦の生産が落ちる。BC1000頃気候変動・小氷河期。

 

5食→麦の生産が落ちる

 

6疫病の蔓 延→マラリアの蔓延

 

7人口の激減

 

8民族の大移動

 

9文明の崩壊へ

 

 ギリシャ文明は意外に 短命 その衰亡

紀元前10世紀ころ今のアテネに文明らしきものが発生した。

紀元前492年 アテネ・スパルタ連合軍対ペルシャ 巨大戦争。

14年間費やし 連合軍がペルシャ帝国を破る。地中海世界とオリエント世界のかってない大規模の戦争。デロス同盟を作る。

ヘロドトスの「歴史」はペルシャ戦争の本である。サラミスの海戦で破る。

ペルシャ戦の大勝利でアテネ スパルタは繁栄の時期を迎える。ギリシャ文明の黄金期は紀元前450年から350年期わずか100年間です。ペリクレース時代が最高でした。。

・パルテノン神殿 巨大建築物はこの時代作られた。

ソクラテス(BC469~399)、プラトン(BC427~347)

アリストテレス(BC384~327)が輩出した。

建築 艦船建造 金属器 陶磁器の製造に、日常生活の薪にも木材が必要   

そのため 森林が破壊され はげ山となる

今日 地中海沿岸諸国ギリシャをはじめ スペイン フランス  イタリア シチリアクロアチア レバノン イスラエル ヨルダン エジプト リビア チュニス、モロッコ などすべてはげ山です。

古代最も人気のあったレバノン杉は今日僅か20本しか残っていない。

・ギリシャの衰退

ペルシャ戦争でサラミスの海戦(BC480)で巨大帝国ペルシャを破ったアテネ・スパルタ連合軍は3年後アテネ主導の「デロス同盟」(BC477)を結成、200の都市国家を集めた。それに反発したスパルタがアテネから離反し 「ペロポネソス同盟」(BC468)を結成しそれが原因で「ペロポネソス戦争」〔434~404〕が起きた。

後世 歴史家「トゥキディデイスの罠」という名言葉を残した都市国家同士の戦争だ。

27年間続いたがアテネはスパルタに敗れ、衰退が始まる

BC338年マケドニアとの「カイロネアの戦い」でアテネは敗れた。

この2つの敗戦でアテネは古代世界から消え始め、衰退を始めた。

アテネの到達した高い文明 議会制 民主主義は今日も生き残っています

 

 

 地中海の覇者 カルタゴの滅亡

紀元前700年間続いた貿易による古代通商大国 海の民はローマに滅ぼされる。

ポエニ戦争 紀元前264年に始まった241年、23年間。

第2次ポエニ戦争 218年始まり202年まで16年間続く。

ハンニバル戦争といわれる。カルタゴはローマに敗れる、カルタゴが最も得意とする海戦で敗れる、ローマ人の死者10万人。ローマ人にハンニバルの恐怖浸透。

ローマはマケドニア シリアを制圧し、エジプトは友好国、属国となっていた。

ローマはローマ連合を結成、海軍を強化 カルタゴを破る

カラスと呼ばれる 船首に鉄のカギを持った鉄の棒をマストにたて、相手の船に落とす。そのマストを伝わった兵隊が相手の船にのり白兵戦を行う。

第2次戦ポエニ戦争後 ローマとカルタゴの講和条件

・カルタゴの自主独立を認める

・スペイン、シチリア、サルデーニアの領土を放棄する。

・軍船を20艘のみ保有。残りは引き渡す

・交戦権は放棄する

・賠償金を5千ターラント<50億円> 20年の分割払い

第2次大戦後の日・米の講和条約

・日本の自治権は認める<憲法 天皇>

・南樺太 朝鮮 満州を放棄 

・空母 飛行機の生産施設廃棄 

・交戦権は認めない。

・賠償金の代替に 駐留費用の負担。

現代の日本とアメリカの関係に似ていると思いませんか?

・農園経営で抜群に優れ、ザクロ<カルタゴの意味>などの農産の生産性は高く、賠償金も5年で支払ってしまった

名将の末路 カルタゴの司令官ハンニバルとローマの司令官スキピオ ともに戦争中の乱費を国で追及され、国外に逃げる、

BC183年スキピオ52歳死去、ハンニバル64歳自殺、

第三次ポエニ戦争 カルタゴ滅亡に至る道

BC149年~146年。3年間続いた。

同じ被保護国(クリエンテス)であった隣国のヌムビアの度々の領土侵犯をローマへ訴えるがローマは放置した。耐えかねてカルタゴは傭兵6万人を集めヌミビアを攻め首都まで攻略した。これが「講和条約を破った」ことになった。

カルタゴの経済力に恐怖を感じたローマは「カルタゴは滅ぼされるべし」となる。

カルタゴは戦争に自国民を出さず 金で傭兵を集め、戦争し、領土を獲得してきた。

自ら血を流さず、その果実だけをものにしてきた。

ローマはすべて自国民で兵は構成し、自らの血を命を懸け、戦ってきた、

その精神性の違いが背後にあったのである。

 塩野七生 著「ローマ人の物語2 ハンニバル戦争」にその模様が詳しい。

市民6万 戦える人 2万人 傭兵6万人。6日間の決戦。

カルタゴの家 家財 公共建物 すべて焼かれ、その土地に塩をまかれ、草も木も

生えないように 徹底的に壊滅された。

この破壊状況は歴史上類を見ないほど 徹底的であった。

カルタゴは都合 140年間 ローマと戦っていたのである。ローマの戦死者はその間、30万人は下らない。カルタゴの戦将ハンニバルの恐怖にローマ人はおびえていたのである。ローマは地中海の覇者カルタゴを破り制海権を握り地中海を「テレニア海」 われらが海 と命名したのである。

カルタゴの遺跡

 

文明の興亡 ハッチントンの「文明の衝突」による。

文明の定義

・人々の生活様式が同じである。

・言語・価値観・規範・社会制度・何世代にもわたる重要な思考様式。

滅亡した文明

・エジプト文明〔BC5000~50〕  

・メソポタニア文明〔BC4300~2000〕 

・シュメール ・ウルク ・アッカド ・バビロニア

・クレタ文明<BC2000~BC1400>      

・ミケーネ文明〔BC1550~BC1200〕

・古代ギリシャ リキヤ文明 (BC800~BC450) ・アテネ文明(BC600~Bc323) 

・ローマ文明(BC142~AC476>

・ビザンチン文明〔AC395~1453>

・中央アメリカ文明<<BC50~AC1500)・アンデス文明(インカ1200~1533)

・インダス文明<BC2500~1500)モヘンジョダロ

ローマ帝国滅亡の原因

 

 

・建国期〔BC753~BC509〕 王政

・興隆期・〔BC509~BC31〕共和政 3頭制 イタリア統一

・最盛期〔BC31~AC235> パックスロマーナ〔ローマによる平和の時代〕

・衰退期〔AC235~476〕世紀の危機、混乱の時代 軍人皇帝の時代

  西ローマ帝国<395~ 滅亡476> 

==ここまでをローマ帝国と呼ぶ====

東ローマ帝国<395~滅亡1453> 首都をコンスタンチノポリス<現イスタンブール> 1000年続いたために、イスタンブールを「千年の都」という

別名ビザンツ帝国と呼ばれる。1453年イスラム教のオスマントルコに敗れ滅亡

滅亡の原因 1 ギボン「ローマ帝国衰亡史」に網羅されている。

・人類が最も幸福であった5賢帝時代200年以上続いた。アウグストス・ 

・キリスト教の浸透 国教。 国家の祭事に参加を拒否した。

・375年、ゲルマン族の侵入。ヨーロッパ全土が玉突き現象。

・410年ローマ市略奪 阻止する軍事力はなかった。

・キリスト教の弊害

 ・忍耐を説く。戦闘精神が失われた。

 ・財政が修道院建設に向けられた。1800の修道院。

 ・軍事が貧弱になった。

 ・381年 国教となる。

 ・ヨーロッパ全体に広がり、1つの文明圏を作り上げた。

・ゲルマン族の大移動

 3世紀から徐々にゲルマン族はローマにあこがれ定住を始めた。

・476年西ローマ帝国 滅亡 建国から滅亡まで1000年。

帝国の繁栄をもたらした異民族の同化政策が、そのまま帝国の滅亡を呼んだことがわかる。ローマは異質な民族や領土を排除せず、帝国内に受け入れた。

その重みにより 帝国は耐えられなかった。

ローマ滅亡の原因 2 高坂京大教授「文明が衰亡するとき」より

領土拡大ローマの辺境2万キロに達し帝国が広がりすぎた。東はメソポタニア<イラン>北はブリテン<英国> 西はスペインまで。

軍事面 財政面を圧迫した。

・高額の増税による特例措置の悪循環 税の複雑さは税逃れをうながす。

官僚制の肥大化は担税能力を超えてしまった。例秘密情報官が3千人もいた。

パックスロマーナ<ローマによる平和>時代 精神性の劣化。

「パンとサーカス」による福祉国家。食料の受給者30万人。円形劇場 見世物 無料で130日行う。人は生活が保証されると享楽的なものにしか関心がなくなる。パンとは小麦のことBC123年小麦法が制定され無償配布がはじまる。

 よってローマでは、市民が入浴やサーカスなど娯楽にふけながら生活することが、当り前となった。➡労働意欲の減退、貧富の格差を生む。 

領土拡大政策の廃止で奴隷の供給が止まり生産の労働力が減少。

・奴隷は40万人➡奴隷の不足。奴隷の子供、捨て子を奴隷とする。

軍人の質と量の低下。蛮族の騎兵にローマの重装歩兵は勝てなくなった。皇帝直属兵力50万人から末には20万人に減った。

・ハンニバル戦争では10万人の兵を失いながら戦争を続けられた。

兵が志願制となり、志願する市民は減り 傭兵が多くなった

・ローマ市民以外の蛮族出身の兵は規律に欠け、困難な戦闘ができなくなった。

・傭兵は辺境では将軍の「私兵」となった。

・兵の増大で給料が増え 市民に重税が課さられた。

すべての道はローマに通じる、街道の整備。膨大な財政負担

東ローマ帝国が1000年も続いた理由。西暦395~滅亡1453

・東部国境にはササン朝ペルシャがいたが友好状況がつづいた。

・首都コンスタンチノポリスの鉄壁な城壁が難航不落であった。

「 テオドシウスの大城壁」は何度も攻撃を受けたが 失敗した。

高さ外壁8M 幅3Mの石の城壁 内壁高さ12M 幅2M周囲5キロ 地下水路。

・気候は温暖で食糧が帝国内は豊富、

滅亡 オスマントルコにより敗れる

・イスラム勢力の台頭。イスラムは7世紀から15世紀まで北アフリカ→スペイン→フランス→ギリシャ→イタリア→バルカン半島へ侵攻。 中世はイスラムの世界となった。西側世界では「暗黒の中世」と言われた。1453年イスラム教のオスマントルコに敗れ滅亡

西洋のルネッサンはイスラムの学問の保存があったからこそである。帝都の図書館には12万冊の写本があった。それが帝と陥落により焼失した。

 

関連写真

ミレトスの巨大石柱

 

道にごろりと転ぶメヂューサ像

 

かっては港にあったミレトスの街並み 今は内陸15キロのところにある

 

森林の伐採で禿山となり 雨で地肌が削り取られている。

 

 ローマ市民の享楽的生活を促進したコロッセオの内部

地下は競技の選手 動物がここに集まる。

 

 

 

東ローマ帝国が1000年続き、現在「千年の都」と呼ばれるイスタンブール

と東ローマ帝国1000年の防衛を果たした大脳壁の残滓。

周囲5キロにわたり、イスタンブール旧市街の周囲を防衛していた。

 

西暦1600年代のイスタンブールのアヤソフイヤ

 

 

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