カンムリワシ、ワシは名ばかり、言うばかり

20年前探せばカンムリワシがいて、10年前そこにはカラスがいて、いま両方ともいません。よって最近ではそれ以外の話題に。

「自分」いろいろ〔03〕

2014年11月11日 08時04分20秒 | 生き方

 じんせい~ いろいろ~ 

他人はよく見えているのに、なぜか、一番近くにあるはずの自分が見えない・・・・・・。

では、今回も「自分」について語る賢者の話に耳を傾けてみましょう。

 

この世には、自分というのはひとりしかいないときめこんでいたけれども、自分というのは、少なくとも、自分を愛する自分と、自分に愛される自分が、ふたりいた。:P.73 富岡多恵子「厭芸術浮世草紙」中公文庫

いきなり哲学的テーマ、自分を愛する主体と、自分に愛される客体、なるものがが出てまいりました。。 

この場合、広い意味では主体も客体も同意語なのでしょうが、狭い意味で厳密に言うならば、別のものなのか。 ←いったいどっちなんぢゃ?

いずれにしても、

「愛されることを至上の喜びとし、だからこそ愛することに価値がある」

と考える「女性らしい見方」で、男性には思いつかない視点かも知れません。

世の中には、自分に絶望し、社会に絶望し、この地球上すべてに絶望してしまい孤独のどん底に落ちこむ人が見られますが、富岡の、

いくら孤独だと言っても

      • 自分を愛する自分
      • 自分に愛される自分

の2人がいる

という見方は、多くの人にとって、きっと新しい発見でしょう

まぁ、世の中には、自信過剰で「いやみたっぷり」なのに取るに足らない人が無数にみられますが、ささやかな自信なら、もっともっと「過剰」でもよさそう。

女性の哲学者や宗教学者にはなかなか出会えませんが、富岡多恵子はたいへん哲学的ですネ(笑)。

 

「自己と戦いを始めた者は、自分が価値ある人間だと証明したことになる。」これは英国の詩人ブラウニングのことばだが、・・・・:P.16 D.カーネギー「人を動かす」山口博訳 創元社

自分にいくらかの疑惑を感じた人には、次に進む道として自分との闘いが用意されています。イチロー(野球)も羽生(将棋)も、自分と戦っている一面があるのでしょう。

ただし超一流しか自分自身と戦わないか、といえば、それもちょっと違うように思います。

私たちのすべては、いつも自分と戦っているのですが、それに気付いていないだけではないか。

内なる自分に必ず相反する2人がいる、ということで、上の富岡多恵子のいう「自分を愛する自分と、自分に愛される自分」もそうですし、「苦労をしたくない自分と、楽をしたくない自分」もそれに違いありません。

 

ジェームス・ハーヴェーロビンソン教授の名著「精神の発達過程」より「私達は、あまり大した抵抗を感じないで自分の考えを変える場合がよくある。ところが、人から誤りを指摘されると、腹を立てて、意地をはる。実にいいかげんな動機から、いろいろな信念を持つようになる。だが、その信念を誰かが変えさせようとすると、われわれは、がむしゃらに反対する。:P.136 D.カーネギー「人を動かす」山口博訳 創元社 1986.8.25

これまたキビシイですね。自分では平気で誤った選択をしますが、人から誤りを指摘されると意地で反発する。

指摘されたことを認められる人は、きっと立派なのでしょう。 

 

わかりやすい例を一つ。インド人の女性が、立て膝をついたりあぐらをかいたりして食事をしていても、「ああ、そういう文化なんだな」と納得してそのまま受け容れられる。しかし韓国人の女性がそうしているのを見ると、「なんて行儀が悪いのか」と感じることになる。知識では知っていても、とても見るに耐えない、見苦しいのでなんとかやめて欲しいと感じる。私もかつて、何度そういわれたかわからないほどだ。 

日本人と韓国人の間では、感覚的な同質感が強く支配する。そのため、その同質感をはずれた言動を相手が示したとき、考えるよりも先にまず違和感がやって来ることが多い。これは裏を返せば、日本人ならそうしない、正座をするものだという「自分の発見」でもある。 

しかし韓国人からすれば、正座は上の者に叱られたり、罰を受けているときにとる姿勢だから、韓国人ならばそうしないのにと、やはり「自分の発見」につながってくる。同じように、感情のあり方から物事に対する価値観に至るまで、さまざまな「自分の発見」がある。 

そのように、日本と韓国は、お互いにまたとない映し合わせを可能にする関係にあるといえる。その点からいうと、今後、日本人にとっての韓流が、韓国人にとっての日流が、互いに中国流でもアメリカ流でもない、ことさらな魅力として定着していく可能性がある。:P.238-242 呉善花「韓流幻想」2008年8月10日第1刷文春文庫 

著者が「正座はにがて」「納豆はきらい」「くさや・鮒鮨は論外」という日本人がいることを知っているかどうかは別として、これは世界中のどの隣国にでも言えますが

同質感が強まると異質感も強まる

ようで、対立を深めてしまうのでしょう。だから

    • 「似ていることを喜びすぎない」のが、「ささやかな違いを深刻に受け止める事態を招かない秘訣」、なのかも。
    • 感性に頼りすぎていると、喜び(同一性)も大きい反面、亀裂(異質性)もまた深いのでした。

その意味では、日本との同質性ゆえか日本文化をパクリ続けてしかもパクリの事実を公表できない韓国の民族性に問題の根本があるように思いますが、では日本人に問題がないかといえば「他の国と比べて似ている点を嬉しく思う・思いすぎる」など、改善の余地は十分にあると思います。

これに関連しますが

    • 日本人には、勉強もしておらず、よって理解できない言葉が降り注ぐ異国で、ふと出くわした「得意とは言えない英語」に、妙な親近感をもつことがあるらしく、この瞬間が危ないとも言えますね。
    • 一方では、「親しさが強まると仲違いも多くなる」とも言えます。

これに似ているのかも(笑)。

私としては、日韓の問題の多くの原因が、韓国人が勝手に「強い反日」~「弱い反日」を繰り返す自作自演にありとしますが、上記が事の本質に迫る内容ともいえますか。

 

思慮のある人は苦しみながら探求する。自分の推論が多分正しいと言うだけでいつ他の考え方がそれに疑惑をもたらすかも知れないということをよく承知している。自分がどこへたどりつけるかは、決してはっきりと知ることがない。彼は「開いた」考え方を持っているのである。よそ目にはためらってばかりいる人に見えるかも知れないのである。: サルトル「ユダヤ人」岩波新書

「自信なさげ」と「自分」の関係を述べていますが、人によってはあり得ない話かも知れませんね。

いつ誰が自分の推論を否定するかわからないと「不安」をもつこと

が、真に開かれた考えをもった人の特徴だ、とサルトルは言っております。相当「自信」がなければ言えないことですね。

ある人から「ためらい・躊躇・まよい・軟弱」が垣間見えたとしても、その人の本質を見失ってはいけない、という戒めだと私はとらえています。


今回は第3回目の「自分」というテーマでしたが、

「自分」いろいろ〔01〕

「自分」いろいろ〔02〕

「自分」いろいろ〔03〕 いま御覧のここの記事です。

もどうぞ。




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