「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

哲学と神秘学

2014-02-19 19:42:30 | 読書ノート

「シュタイナー哲学入門 」高橋巌 著 メモ

《 哲学と神秘学》

共通点

宇宙、あるいは世界と人間の問題を、その根底まで突き進んで把握しようとする

違い

☻哲学

認識したことを概念化、論理化

獲得された認識内容を一般に通用する形で表現しようとする

☻神秘学

理論上の可能性として、認識の限界を設けない

どこまでも体験を深めようとする


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哲学と神秘学は、同じものの二つの側面を表す二つの言葉

・宇宙あるいは世界の問題と人間の問題
・外部の問題と内部の問題
との関わりにおいて、

哲学は顕教的(エクソテリック)
神秘学は秘教的(エソテリック)

哲学は、神秘学の対社会的な側面

神秘学は、哲学と共有する内容の内的な側面

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hasutamaイメージ

「自由の哲学」との関連で


意識があって、観察と思考が対立項としてあるとすると、(この対立項こそ、あらゆる対立項の中で重要、根源的とシュタイナーは「自由の哲学」の中で述べている)

自分の意識が外側の世界を観察し、
その観察内容を、意識の内側で思考することで、認識内容を得る

意識の内側の思考の体験を、さらに内側の地点にたどれば神秘学になる

観察した対象があった世界の側に、認識内容を差し出す時には哲学の形をとる

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追記

世界と人間 と考えるとき、内側と外側の話になる のは、自意識の存在形式のためであるとすると、

もし自意識の存在形式が変化するなら、世界と人間、内側と外側のあり方も変化する

そういう方法論の中に実験的に存在してみようとする場合、自意識が人間の全存在を含めるなら、その実験を「生きる」ということになる






対象と思考/対象と感情

2014-02-17 16:55:55 | 第3章 世界認識に仕える思考
理解のためのメモ

☻思考と対象

自分自身の活動地点1において

観察1は、対象1が私の体験の場に現れると同時に行なわれる

思考1は、対象1が現れ、観察1されたのちに行なわれる

この思考1を観察2する場合、対象1の観察1、思考1と同時には行うことは出来ない

思考1を観察2、思考2する場合は、私はまず、自分自身の活動の外側の地点2に、自分を置き移さなくてはならない

☻快楽の感情と対象

快楽は、それを引き起こす対象と同じように与えられている

それは対象によって産み出されたもので、私の意識的な活動によって形成されたものではない

したがって、観察に対して、思考と感情を同列に置くことは論外である






観察対象としての、感情と思考の違い

2014-02-16 10:15:43 | 第3章 世界認識に仕える思考
観察対象として、思考は特殊なものである

観察対象として、感情と思考では全く違う

と、シュタイナー氏は言う

でもその説明が、私にはよくわからない

思考以外の精神的活動を観察することは、思考を観察するときと比べてどうなのか

わかった気もするのだが、まだピンとこないのである

(エーテルの国で、くっきりとした輪郭を描くほどには…)

生産後の思考を観照する側の意識

2014-02-14 14:42:19 | 第3章 世界認識に仕える思考
(↓シュタイナーbotさんより引用させていただきます)

@R_Steiner_jp:

思考についての思考が、思考の精神的観照に変化すると、普段自分の前に外的な感覚的対象があるように、思考が自分の前に存在します。

人間は外的な感覚的対象を、目と耳で知覚します。

思考は精神的に観照する魂によって知覚されます。

-ゲーテ・精神世界の先駆者-


久しぶりにTwitterをのぞいてみたら、シュタイナーbotさんのTweetに上記のものがあった

シュタイナー氏の力説する、思考を思考する場合の特殊性が理解出来なくて、次の章に進むことがためらわれる私としては有難いTweetである

なになに?
思考についての思考が、思考の精神的観照に変化する
精神的観照て?
webで調べると
観照=
主観をまじえずに、物事を冷静に観察し、その意味を明らかに知ること


主観を交えずに、冷静に、対象としての思考を、精神的に観察する
すると、

普段自分の前に外的な感覚的対象があるように、思考が自分の前に存在します


「思考を思考するとき、自分が移動する」というのがピンと来なかったのだが、これはヒントになりそう

意識は、対象を自分の外側に発見する

意識には、そういう性質があるのだ

だから、その対象が自分の生み出した思考内容であるときには、不思議な、しかし意識の性質からすれば当然とも言える現象が起きる

あー、だからシュタイナーは二章で、意識の性質をはっきりさせる必要があったのかもしれない

意識は、見た対象の世界と見る側の世界を二分する

だから、対象が自分の内世界の側に存在する思考であれば、内世界は観察する意識の側と観察される側に二分されることになる

思考を思考するにあたっても、やはり前に強調されていた「観察→思考」の手順を踏むのだから


思考を観察する側の意識は、内世界の中で、外の世界を肉体的器官で観察した内容を思考した場よりも、一段奥の間に移動することになる

思考は精神的に観照する魂によって知覚されます。

その、奥の間の意識、「思考を観照する側の意識」を、シュタイナーは「観照する魂」と名付けている

奥の間の意識=魂

というわけ

うーむ、なんとなくイメージ出来てきた感じ(^-^)





世界観が欲しい

2014-02-03 08:34:56 | 第2章 学問への基本的欲求
人間が自分の行動の理由をはっきりわかっているときには、その理由にはその人なりな考えが反映している

その考えとは、自分が生きている世界をどう捉えているか、その人が生きて、感じて、観察して、学んで、その結果の総体の世界観ということだろう

世界観はどのように形成されるのか?
という問いを持つのは、確かに非常に重要なことだ

「このような世界観を持たせよう」と、あらゆるメディアを通じて、学校さえも、個人の考えに浸透したがっているものたちが溢れている場合には特に

持たせられる世界観から逃れることが自由だというわけではなく、自分の世界観を意識的に作る過程を大事にする、あるいは楽しむ、すでにある世界観を吟味する、ということが生き方であるような、そのような人がいたら、持たせられた世界観に気がつかずに生きる人に比べ、より自由であるだろうと思う

二章では、人には、自分の考え、行動のもととなる世界観を持ちたい、世界について知りたいという基本的な欲求、衝動があり、それはなぜなのかと問う

(それがあるから、人は不安でもある
わからない世界で自分を意識することは恐ろしいことであるから、だからとりあえず世界観を与えられて安心したい)

人間の意識は、世界を外側にあるもの、自分を内側にあるものとして認識するように構造としてある

だから人間は存在を意識した時点から、というか「意識」は存在しはじめると同時に、内世界と外世界を二つの別々なものと認識するようにできている

しかしそれは落ち着かない状況なので、世界を知りたいと思う

この意識、人間存在の自覚そのものが、まるごと欲求しているのが、世界観なのである

そして三章、世界観の獲得に奉仕してくれる思考へとつながるのは、人間存在まるごとが必要としている流れなのである

また、内世界と外世界の調和、統合をはかりたいと願う人間の意識の在り方があり

これらの欲求、意識の存在をかけた願いから、学問も芸術も宗教も科学も生まれた