湯豆腐や言葉のいらぬ二人かな
昨夜は若夫婦と孫達は、ママの友達の家族との食事会とかで出かけたので、。私共夫婦二人だけの夕飯となった。何時も孫中心の食事の我が家、こんな時とばかりに、簡単に、二人が好物の「湯どうふ」がメインとなった。我が家の湯豆腐は私の好物の「えのき」と「しんぎく」が欠かさない。えのきの歯ごたえと、しんぎくの香りが何ともいえない味覚である。
宮坂主宰の「昭和を詠う」俳句集の中に「久保田万太郎」のこんな湯豆腐の句「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」があった。この句の主宰の句評はこう記している。「奈良や京都の仏像を拝むたびび、「いのちのはてのうすあかり」と呟いていた。この思いが 身の内にしっかりと胸に捉えるには、私はあまりにも生ぐさい。身ががさがさと乾き過ぎている。空極の一句なのであろう。昭和の俳句の範疇を超えている。が、いのちをこのように慈しんだ俳人がいた。万太郎への思い出は昭和に繋がる。「晩年に杖とも頼んで同棲した三隅一子が脳溢血で急逝したあと、妻子にも先立たれ一人取り残された作者の心境を浮上させた句である」久保田万太郎の身近にいた成瀬櫻桃子の解説がよく状況を描いている。久保田万太郎は昭和三十八年に逝去している。私も「久保田万太郎」のやさしい句に好感を持っている。こんな句が良い。「もち古りし夫婦の箸や冷奴」「なにがうそでなにがほんとの寒さかな 」「ふりしきる雨はかなむや桜もち」などがある。