はせがわクリニック奮闘記

糖質制限、湿潤療法で奮闘中です。
パーキンソン病にはグルタチオン点滴を
癌には高濃度ビタミンC点滴も施行中です。

アルダーマン 塩分

2016年01月27日 | 医学
昔は ( 今でもそうですが ) " 塩分の摂りすぎは高血圧を招くのでダメだよ。 "
" 塩分は1日10g以下に抑えましょうね。 " と、医者も、看護婦も、栄養士も、みんなして減塩指導をしていた時代がありました。

それは、1960年にある学者が発表したグラフが出発点でした。



それ以後、塩分摂取と血圧の相関関係について、様々なスタディーが施行されました。
しかし、すんなりとは相関関係が実証されなかったのです。
そこで、" 塩分感受性 " という概念が導入されました。
つまり、体質的に血圧が塩分に影響される人と、そうでない人がいるという説です。
このことが、スタディーでの塩分摂取量と血圧の相関関係が単純に示されないことの要因の一つだとされました。
その後、日本人で塩分感受性を持っているのは30%以下であるだろうというデータも出てきました。
それなのに、日本人全体に高血圧を回避するための減塩を指導するのは、おかしな話ですよね。
塩分摂取量と血圧の相関関係について決着がつくことは無さそうですが有名なスタディーをアップしておきます。

1988年の国際共同調査であるインター・ソルト スタディーです。
32か国1万人について調査した結果、はっきりとした関係は認められませんでした。

さらに、アメリカで高血圧学会の最高賞と言われるチバ賞を受賞された故・青木久三博士は次のように警告しています。
ビタミンの欠乏は特定の病気を引き起こすだけだが、塩の欠乏は命を奪う。
日本人の高血圧症の98%以上は塩は関係ない。
腎臓やホルモン、血管、血液の問題だ。
大多数の日本人にとって減塩は意味がなく、危険のほうが大きい。


振り返ってみれば、高血圧の90%は本態性(原因不明のときに付ける業界用語です。) でした。
あとは、腎性高血圧、腫瘍が原因の高血圧などがありますが、塩分性高血圧なんて聞いたこともありませんよね。
高血圧の患者を発見した時に、真っ先に減塩指導だけで経過をみられる医者は存在するのでしょうか?
もしも存在したとして、成功を収めていられるのでしょうか?

さて、話は血圧から離れますが、20世紀の終盤にアメリカのアルダーマン博士が塩分悪者説に異議を唱えました。
20万人を対象として20年間も追跡したスタディーを英国の一流医学誌であるランセットに投稿したのです。
対象者を毎日の塩分摂取量により4つのグループに分類して死亡率を計算したのです。
結果は、負の相関関係でした。
すなわち、塩分摂取量が少ないほど早死にで、多いほど長生きするという結果だったのです。

この結果をもとにして、Emma Ros がレポートを発表しました。

(1) 20万人のアメリカ人を対象とした
20年間にわたる疫学調査の結果
減塩は死亡率の上昇をもたらした。
(2) 毎日の食塩摂取量を1g増量することが
死亡率を10%縮小させることに結びつけられた。
(3)調査は、血圧、コレステロール、年齢性別、微量ミネラルの欠損、
さらには、経済的な地位など、多元的な要因にわたって実施された。
(4) 以前の合衆国厚生省による調査は
塩の消費量の設定が、あまりにも不正確であった。
(5) アルダーマン博士は塩分摂取と心疾患の因果関係を血圧だけに焦点を絞れば失敗するだろうと言った。
(6) 減塩によって、血管を締め付けて心臓発作を引き起こすホルモンが増加する。
(7) 減塩はインシュリン抵抗と神経性ストレスを増やす。
(8) 合衆国政府は減塩運動を、しばらく見合わせるべきだ。


このレポートは欧米では広く報道され物議を醸したのですが
不思議なことに日本のマスコミは、足並みを揃えて、みごとにスルーしました。

興味がある方は、" アルダーマン 塩分 " でグーグル検索をかけて下さい。

アルダーマン博士の以下の言葉が耳に残りました。

" 先進諸国では日本人の塩分摂取量が最も多い。
しかし日本人の平均寿命は世界一長い。
このことを君たちは、どう解釈するのかね? "


私ですか? 減塩を実践したことも、指導したこともありません。
というか、私自身は毎日大量の塩分を摂取しています。
大酒飲みですので、細胞内脱水が毎朝繰り返されます。
水分補給をしてもナトリウムが無いと水分が細胞膜を突破できません。
いきおい、たっぷりと出汁と味噌を叩きこんだ味噌汁で一日をスタートさせます。
昼食のケンタッキー・フライド・チキンも塩分が多いらしく、一時間後に口渇が出現します。
夜は、毎日、たっぷりのわさび醤油で刺身を食べます。
ピーナツも、わざわざ塩をつけて食べることさえあります。

それでも、昨日血圧を測ってもらったところ、140の90でした。
学会のお偉方や、薬品メーカーから見れば、これでも高血圧なのかもしれませんが、相手にする気は、さらさらありません。



内田樹・ためらいの倫理学

2016年01月22日 | 読書


読み終えるのに10日間を費やしました。
読むというよりも勉強すると表現したほうがピッタリくるかも知れません。
なぜならば、知らない哲学用語やフランス語が満載だからです。
いちいちグーグル検索をかけながら読み進める必要に迫られました。
その一部を紹介します。

ドクサ : 根拠のない主観的な知識。思いイ故し。( 思いなしと読むようです。)
ルサンチマン : あらがいようの無い上司や権力者に対する、恨み、妬み、ひがみ。
アクロバシー : 英語のアクロバットのようです。
キャナライズ : 流れを~に導く。運河(キャナル)を造る。
テクストとコンテクスト : 文章と文脈。織物(テクスタイル)が語源です。
ディスクール : 言説。言われたこと、書かれたこと。
ジャルゴン : ある集団の内部でだけ通用する業界用語。
アポリア :行き詰まり.
エクリチュール : 哲学。
クリシェ : 濫用されて、目新しさが失われた常套句。

当然知っておくべき人物も、数多く登場します。
エマニュエル・レヴィナス、ジャック・ラカン : 有名な20世紀の哲学者です。
モーリス・ブランショ : 極右のジャーナリストだそうです。

悪戦苦闘の末ではありますが楽しく読み終えることができました。
そしてなんとなくではありますが内田樹のスタンスが見えてきました。
表題にもなっているためらいと、含羞 です。
ある意見を述べつつも、内心では、ためらいと含羞が行き来しているようです。

明日からも内田樹の2冊目にチャレンジしていきます。

さて、昨夜はホテル日航での勉強会の後にT君とスナックガウディで痛飲しました。
12時に引き上げたにもかかわらず、今朝は酔っぱらっていました。
久し振り (半年ぶり) にスタッフから、" 酒臭い! " と非難されました。
私でさえ、このざまでしたので、T君のことがとても心配です。

( 追加記事 )
今、冷蔵庫のジョニ黒を見て分かったのですが、昨夜は帰宅後に飲み直したようです。
そういえばスピーカーの向きからして、JAZZを聴きながら飲んだのでしょう.....
ということはT君は大丈夫か.....良かった。

じゃじゃ馬JACKAL

2016年01月14日 | ボウリング


昨年末ですが、10か月もボウリングボールに触らなかったせいで、親指の付け根のボウリングダコが柔らかくなって消えていました。
その状態で投げ込んだせいで、皮膚がズルリと剥げてしまいました。
湿潤療法で治療し、すぐに治癒したのですが、正月明けに投球を再開したところ、たったの4ゲームで、またまた剥離してしまいました。
そこで、今回は慎重に完治まで待って、指孔も調節して臨みました。

昨夜のレーンは、たまたまメンテナンス直後で、オイルがたっぷりと入れられたコンディションでした。
10枚目よりも外側のドライゾーンを使わないと、球は、そのままスリップして行き、ボウリングになりません。
結局は右足17.5枚目から8枚目を膨らますというラインでゲームを進めました。

球はJACKALを使用したのですが、相変わらずのじゃじゃ馬振りです。
ちょっとした指の掛り具合の差に敏感に反応して、伸びたり、切れすぎたりを繰り返します。
上がり3ゲームを見ても、スプリットが6個もあります。
最終ゲームでは4フレ、5フレと連続して割れてしまいました。
オイルが枯れてきたのです。
そこで、立つ位置や板目を変えずに、スピードボールで解決するという作戦を実行しました。
こいつが大成功で終盤の6連発を誘発し、AVEを押し上げてくれました。

ラウンドワン田崎店 13番、14番レーン 使用球 : JACKAL
上がり3ゲームは、220,193,245 TOTAL : 658 AVE : 219.3
ストライク率 : 60% でした。

今年の目標はタイミングで投げることです。
4歩目のトップで十分に右足体重をキープし、腕力ではなく振り子運動を腰で引っ張るようなイメージを目指します。
つまりは、野球のピッチャーのような一歩投げを目指すのです。( 軸足は右左逆ですが )

じゃじゃ馬JACKALを手なづける努力は、どこまで続くのでしょう.....
旧球のブラックウィドウ・レジェンドは10か月も放置されたせいか、全く切れなくなっているし.....
ブラックウィドウの新製品がスポラ九品寺に展示されています!

またまた物欲がフツフツと湧いてきました。

1001グラム・ハカリしれない愛のこと

2016年01月12日 | 映画






昨日、電氣館で観たのですが、あまりの面白くなさに、" 時間ドロボー! " と叫びたくなりました。

ノルウェーの映画です。
あり得ないジャンルですが、皮肉を込めてネーミングすれば、" 移動モノ " でしょうか。
全編を通じて、延々とヒロインが移動するシーンが繰り返し流されます。
その中には、ヒロインが移動し終わって、建て物の中に入り、戸を閉めたにも関わらず、そのまま通行人を撮り続けるなんてシーンもありました。
フィルムの編集段階で、あまりにも内容がプアだったために、移動シーンを大量に残して尺を稼いだとしか思えません。
結果として、当然ではありますが、中身の薄い映画になってしまいました。

さて、そのプアなストーリーですが、各国に1個ずつ、" 1キログラム原器 " なる物があって、毎年パリで確認のために正確に測定されるイヴェントがあるそうなのです。
病に倒れた父親に代わって、ノルウェーからパリに派遣されたヒロインでしたが、持ち帰ったときに車の横転事故を起こしてしまい、原器のケースを破損させてしまいます。
あわててパリに戻って、修理を依頼するのですが、そこで世話してくれた同業者の男とくっつくというものです。

タイトルの1001グラムですが、ヒロインの父親が死ぬ前に、" 人間の魂の重さは21グラムだそうだ。 " と言うことが伏線となっています。
この21グラムという数字は私も知っていて、アメリカのある病院で、精密に重さを量れるベッドを使って、臨終前後の差異を測定したものでした。
ヒロインは父親の遺灰を研究所に持ち込み、精密なデジタル測定機に洗面器を乗せます。
そして、そこに遺灰をすべて投入します。
デジタルは一旦1022グラムで止まりますが、すぐに下がり始め、1001グラムで止まります。
つまり、投入した時点では、父親の魂は、まだ遺灰の中にあったが、すぐに消失したというわけなのです。
なぜならば、ピッタリ21グラム軽くなったからです。
ヒロインはその部屋の中に居るであろう父親の魂を探しますが叶いませんでした。

実際には死亡した瞬間に魂は本人から離れるはずですので、遺灰に魂が宿るという設定には無理があると思います。

最初のデジタル数字を1021グラムにして、ちょうど1000グラムで終わらせたほうが観客には分かりやすかったと思うのですが......
1001グラムとした理由を考えると、人生ってピッタリしたものではないんだよ......
ちょっぴり重たい荷物もあるんだよ.......てなことでしょうか。
穿ち過ぎかもしれませんが....

さて、いくつかのコジャレタセリフもあったのですが、一つだけアップします。( うろ覚えで不正確ですが )

人生って、大事なことを理解するのは、いつも手遅れになってからなんだ。

修猷館・中村天風

2016年01月11日 | 読書
前回アップした、"正直、親切、愉快に生きる " ですが、中村天風という人の言葉だそうです。
正確には、

今日一日を
怒らず、恐れず、悲しまず
正直、親切、愉快に生きる


でした。

内田樹の師匠は中村天風という人の弟子であったそうです。
そこで、内田樹は、自分のことを、中村天風の孫弟子と称することがあるそうです。

今日は中村天風を検索してみました。

ウィキペディアでの肩書は、日本の思想家、実業家、諜報員、日本初のヨーガ行者です。
諜報員ってスパイのことでしょうか?

天風は明治8年生まれですが、父親は旧柳川藩士でした。
6歳より、家伝である随変流という剣術と抜刀術の修行を始めます。
そして、なんと修猷館に入学したのです。
当時の修猷館は授業をオール英語で行っていたのですが、天風は幼少の頃より近所の英国人に接していたおかげで秀才となりました。
また柔道部の主将としても活躍する文武両道の館生でした。
ある年修猷館柔道部は熊本済々廣との対抗戦で圧倒的な勝利を収めます。
ところが惨敗した済々廣は包丁を持って、天風に闇討ちを仕掛けたのです。
天風は返りうちに仕留めるのですが、その際相手を刺殺してしまいました。
正当防衛が認められた天風でしたが、修猷館を退学となってしまいます。

その後、玄洋社の頭山満のもとに預けられますが、天風は、そこで頭角を現していきます。
気性の激しさから、" 玄洋社の豹 " と呼ばれたそうです。
16歳で帝国陸軍のスパイとなり満洲に赴き、大連から遼東半島に潜入し、錦州城、九連城の偵察を行います。
そして26歳で再び満州に潜入し、松花江の鉄橋を爆破します。
さらには青竜刀を手にして襲い掛かってくる馬賊達に仕込み杖で立ち向かい、" 人切り天風 " と呼ばれました。

日露戦争の直前には、コサック兵に囚われて銃殺目前となりますが、辛くも部下に救出されます。
天風は、その後も危険を乗り越えながら目的地である大連に到達します。
この作戦で派遣された帝国陸軍のスパイは113名でしたが、生きて大連に辿り着いたのは僅か9名であったそうです。

日露戦争後は帝国陸軍で高等通訳官を務めていましたが、肺結核を発症します。
その当時、アメリカのオリソン・マーデンが書いた、" Pushing to The Front " という成功哲学の本が世界中でベストセラーになっていました。
それを読んで感動した天風はアメリカ行きを決断します。
しかし肺結核が原因で渡航許可は下りませんでした。
そこで親交のあった孫文の親戚になりすまして密航します。

アメリカでオリソンに会うことはできましたが、あまり相手にされなかったようです。
そこでコロンビア大学に入学しますが、ここでも英語力が物を言ったのでしょう。

その後、英国、フランス、ドイツと廻り、35歳で帰国の途につきます。
ところが経由地であったアレキサンドリアでインドのヨーガの聖人であるカリアッパ師と出会います。
天風はそのまま弟子入りしてヒマラヤ山麓の村で2年半もヨーガの修行に打ち込みます。
その修行を通じて、天風は肺結核を完治させ、悟りを得ます。
37歳でインドを立ち、日本に帰ろうとした天風でしたが、その途上で孫文の引き起こした第二次辛亥革命に巻き込まれます。
そのまま中華民国最高顧問として孫文に協力しました。
革命は挫折したものの、その謝礼として財を得ます。

帰国後は東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任し実業界で活躍します。
しかし、44歳の時に突然感じるところがあり、頭山満に相談したうえで、一週間で一切の社会的身分と財産を処分して、" 統一哲医学会 " を創設します。
その後、統一哲医学会は発展し、昭和15年に、" 天風会 " と名称を変え、昭和37年に国の認可により、" 財団法人天風会 " となります。

そして、天風は昭和43年に92歳でこの世を去りました。

まあ、なんというか、すざましい人生ですよね。
このまま映画化できそうなスペクタルストーリーです。

さて中村天風をアマゾンで検索したところ、200件以上もの著書、CD、テープなどがヒットしました。
これほどメジャーな修猷館の先輩を、これまで知らなかったのは不思議です。

ウィキペディアには天風に影響を受けた人物が列記されています。

東郷平八郎、宇野千代、双葉山、尾崎行雄、稲盛和夫、広岡達朗、大佛次郎、堀越二郎、園田直、重宗雄三、松岡修造などです。

松岡修造ですか? 調べてみると松岡修造が1歳の誕生日を迎えた直後に天風は死亡しています。
そこで、" 松岡修造と中村天風 " でグーグル検索をかけたところ、次のような記事がヒットしました。

彼のメンタルを強めるのに一役買ったのは心身統一法を広めた思想家・中村天風だった。
天風に出会ってから、ほぼすべての著書を読み、講演テープも聴いたという。
なかでも強く実践しているのは、" 絶対積極 " というもの。
たとえば、病も気から、痛みも気の持ちようで感じなくなるんじゃないかと思った松岡は、
歯の治療を麻酔なしでやってみたという。
( 週刊現代 2015年2月7日号 )


なんとなく天風先輩の気質が想像できるように思えました。

内田樹 ・ 意地悪化する日本

2016年01月05日 | コメント


福島みずほとの対談本で、中身は安倍政権の戦争法案への批判です。

この意地悪化する日本というタイトルに共感して購入したのですが、思わぬ拾い物でした。
なぜならば、内田樹という人物に感動してしまったからです。

1950年に東京で生まれて、当時、東大合格者数ナンバーワンであった日比谷高校に入学しますが、成績はビリだったそうです。
あげくの果てには、高校2年生の時に素行不良で、退学となってしまいます。
大学入学資格検定に合格しますが、京都大学の入試に失敗しています。
京都大学を選んだのは、その年の東大入試が学園紛争で中止されたからでしょう。
一浪して東大の文Ⅲに入学し、仏文科を卒業します。

さて、ウィキペディアで調べてみると、肩書は神戸女学院名誉教授、京都精華大学客員教授なのですが、
続いて、哲学研究者、思想家、倫理学者と紹介されています。
思想家ですか...... 凄いですよね。他に誰がいるのでしょう? チョット思い浮かびません。

とにかく日本語がしっかりしているし、目のつけどころや切り口が斬新なので、快感さえ覚えます。

ブログサイトも持っておられるし、多数の著書を執筆されています。
とりあえずは 3冊ほどオーダーしました。
当分は内田樹 ( うちだ・たつる ) で楽しめそうです。