ハーベスト・タイム『収穫の時』

毎月発行の月刊紙『収穫のとき』掲載の聖書のお話など。

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「失敗学」の法則

2005-10-19 | 魅力的な人になるためのレシピ
◆10月号◆魅力的な人になるためのレシピ(その6)

「失敗学」の法則 -- 中川健一



定義

 まず、『失敗学』という言葉(学問)を定義しておきましょう。「過去の失敗の例をデータベース化し、それを社会の発展のために利用する方策を研究するのが、『失敗学』である」

 ここで大切なことは、データベース化された情報が、社会全体の共有財産となるということです。『失敗学』という名称は、評論家の立花隆氏が命名者であると言われています。

 『失敗学』の日本での先駆者は、畑村洋太郎氏(工学院大学教授、東京大学名誉教授、工学博士)です。畑村氏は、2001年に畑村創造工学研究所を個人開設し、『失敗学』の研究に取り組む決意を表明しています。ちなみに、畑村氏を中心としたNPO団体「失敗学会」が、2001年12月に設立されています。

 畑村氏の主張を要約すると、次のようになります。

 「失敗には、未知との遭遇による『いい失敗』と、『人間の怠慢による悪い失敗』の二つがある。重要なのは、不可避である『いい失敗』から物事の新しい側面を発見し、仮想失敗体験をすることで『悪い失敗』を最小限に抑えることである。失敗や事故が隠蔽され、教訓として生かされないまま同じことが繰り返されるなら、社会的な損失は計り知れない」

 実に示唆に富んだ発言です。

 
聖書は『失敗学』の教科書


 驚くべきことに、聖書は「いい失敗」と「悪い失敗」の両方の例を記録しています。つまり、聖書はデータベース化された『失敗学』の教科書だということです。聖書の登場人物たちの失敗例を通して、仮想失敗体験をすることによって、「悪い失敗」を最小限に抑えることこそ、私たちがなすべきことです。

 誰もが悩むのが、人間関係です。『失敗学』は、社会的大事件にのみ適用される学問ではなく、日常生活の些細なことにも有効に働く学問です(「箴言」を、失敗学の教科書として読むと、面白いかもしれません。「箴言」は、生活の知恵の書ですから)。

 私たち日本人には、人間関係でつまずくと、自分の殻に引きこもり、関係を断絶させることで問題解決を図る傾向があると思います。あなたはいかがですか。一見問題が解決したようであっても、これでは、何も解決していません。そこで、失敗学の観点から、いくつかの教訓を学んでみたいと思います。


一、感情的に反応しない。

 これは難しいことですが、非常に大切な点です。感情的に反応すると、すべての関係が瞬時に終わってしまいます。後には、嫌な思い出以外、何も残りません。

 
二、原因を明らかにする。

 原因究明が困難な理由は、責任追及と原因究明とを混同するからです。日本人の感覚では、「まあまあ、そこまで言わなくても」と、つい言いたくなります。その結果、本当は何が問題であったのかが明確にならないまま、一件落着になってしまいます。この段階で感情的になるなら、それはまさに責任追及と原因究明とを混同していることになり、そこから教訓を導き出すことは不可能になります。冷静な目が必要です。


三、将来、同じ過ちを犯さない方策を考える。

 原因が明らかになれば、では今後どうすればよいかが明確になります。その過程で、自らの自己中心性が示される場合もあるでしょう。その場合は、自己反省、あるいは悔い改めが必要となります。人間関係が上手な人は、過去の失敗例を自分の中でデータベース化し、それを意図的に利用している人でしょう。人間関係は、学ぶことによって初めて身に付くものです。

 
四、自分を赦すことを学ぶ。

 一度失敗すると、いつまでも立ち直れないで苦しむ人がいます。反省(悔い改め)をしたなら、その後は自分を赦して立ち上がることが大切です。信仰の父と呼ばれるアブラハムも、大変な失敗を犯したことがありました。彼は、約束の地を離れてエジプトに下り、そこで自分の妻サラを妹として紹介したことがありました。その結果、サラはファラオの後宮に連れ去られることになりました。しかし、危機一髪のところで神の介入があり、アブラハムは妻を取り戻すことができました(創世記12章)。

 アブラハムはこの失敗から、次のような教訓を学ぶことができました。

*自分が置かれた場所から離れることは、危険なことである。
*小さなウソでも、大きな被害をもたらすことになる。
*神の愛と守りは変わらない。
*悔い改めるなら、もう一度やり直すことができる。

 
挫折があるのが人生

 アブラハム以外にも、失敗し、挫折した信仰の偉人は多くいます。出エジプトのリーダーとなったモーセも、四十歳の時に挫折を経験しています。ダビデも姦淫を犯して挫折し、預言者エリヤもカルメル山で勝利した後、挫折して落ち込みました。新約聖書では、使徒パウロも挫折から立ち上がった人でした。彼らは皆、挫折体験を積極的な方向に生かし、後世に偉大な業績を残すようになりました。一度も挫折体験がない人生など、あり得ません。


 最後に一言付け加えます。

 時として、何を悔い改めているのかを明確にしないまま、一生懸命悔い改めの祈りをしている人を見かけることがあります。熱心なのはいいのですが、それでは本当の悔い改めになっていません。本来、悔い改めと罪の赦しとは、熟した柿が落ちるように、瞬時に起こることです。それを、くだくだ、長々と祈るというのは、「業による救い」のようであり、また、「肉の熱心」であるようにも思えます。信仰深そうに見えながら、実は、聖書のことばに対する信頼がないのです。

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(ダビデの祈り、詩篇51・17)
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