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【京都発幕間旅情】千葉城,下総国亥鼻城址模造天守閣は中世千葉荘より受継ぐ近代城郭の夢

2017-10-18 20:07:39 | 旅行記
■千葉城,市立郷土博物館天守閣
 千葉城、千葉市中心部の小山は頂上に在り、城址公園として威容を示し、市立郷土博物館という公共建築物として整備されている。

 千葉亥鼻城、千葉県庁に程近い天守閣です。模造天守閣ではありまして、この城郭そのものを再現したものでは無く歴史公園としての整備である為、その歴史的価値については城郭としては無く、どちらかといえば戦後模造天守閣建築史との視点から意味があります。

 千葉常重、千葉城を造営したのは平安時代後期に下総国を治めた武将千葉常重により造営されたものです。千葉常重は叔父にあたる相馬常晴より下総国相馬郡郡司と荘園として千葉荘を譲り受け、武家館を上総国山辺郡大椎館から移駐、千葉山に城郭を造営しました。

 千葉常胤は千葉常重の千葉荘を受け継ぐと共に千葉妙見宮を造営し門前町を広げます、ここが現在の千葉神社となりました。そしてこの門前町を街道として整備し、中央とを結ぶ東海道へと広げてゆき、ここに今日の政令指定都市、千葉市の原型が形成されてゆきます。

 鎌倉時代に入り、千葉荘と千葉妙見宮の門前町は鎌倉幕府の置かれた鎌倉を東方から防衛する要衝という位置づけとなりました。鎌倉幕府を開府した源頼朝は東国武士として千葉氏と盟友関係にあり、千葉常胤は保元の乱へ源義朝へと参陣したという所縁もありました。

 源頼朝と千葉常胤は、頼朝挙兵に呼号すると共に緒戦の石橋山の戦いに頼朝が敗走した際、安房国へ転進した頼朝を迎え入れたのも千葉常胤であり、千葉荘へ鎮圧に向かう平家軍を遭遇戦の形で迎撃する結城浜の戦いに勝利し、常胤は300騎を率い頼朝参加へ参陣します。

 勲功以て頼朝へ与力として迎え入れられた常胤は富士川の戦いで攻勢を確たるものとし、併せて上洛を急ぐ頼朝へ盤石な策源地構築と兵站を重視するよう助言を重ねる事で強靭な戦闘力を維持させた。続き一ノ谷の戦、奥州藤原氏討伐へと参陣、頼朝の信頼を固めます。

 千葉荘と千葉妙見宮の門前町は現在の千葉市の原型を構成しましたが、常胤の都市計画はそのまま頼朝の鎌倉造営に際し重要な都市計画図を供する事となりました。鎌倉は鶴岡八幡宮を中心に都市計画が進められましたが、一説には千葉市の都市計画が応用されたとも。

 鶴岡八幡宮を中心に都市計画が進められ、関東の麗しの古都という情景を今に伝えます。さて、亥鼻城とその周辺の造営は、こうして都市計画が関東地方の都市圏形成へ大きな影響を与えました。千葉発祥の地、ということで千葉亥鼻城にはこれを記す石碑もあります。

 しかし、残念ながら現在の千葉亥鼻城は当時の遺構をほぼ残していません。特に千葉亥鼻城が造営された時代は日本城郭建築において天守閣構造を冠する前の時代であり、亥鼻公園は歴史公園として一般に歴史を感じる事が出来る模造天守閣を冠したに過ぎないのです。

 千葉市立郷土博物館は千葉亥鼻城模造天守閣の中に在りまして、元々の名称を千葉市郷土館といいます。天守閣は鉄骨鉄筋コンクリート造、1967年に建築されましたが、更に周辺の文化施設や散策路を整備しまして、1988年に歴史公園亥鼻公園として整備されました。

 城郭というよりも武家屋敷であったこの地には、江戸時代に徳川家康が鷹狩りを行う練兵場という位置づけとなり、船橋や御茶屋と東金に御殿を造営、御成街道も整備される事で反映します。しかし江戸に近く防衛上、旗本領や天領として細分化し、衛星都市化される。

 千葉の歴史を考えますと、敢えて天守閣を歴史公園に冠した背景には、鎌倉造営への歴史的関与と共に江戸時代の不遇といえる衛星圏内への併呑という歴史を踏まえ、敢えて時期こそ遅れたものの天守閣を千葉始まりの地の城址へ造営したいとの思いが見えるようです。

北大路機関:はるな くらま
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