熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

七月大歌舞伎・・・海老蔵の「加賀鳶」「連獅子」

2017年07月17日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   海老蔵にとって、最愛のベターハーフを失うと言う大変なご不幸直後の歌舞伎の舞台だったが、流石に、歌舞伎界最高峰の成田屋團十郎家の頭首で、押しも押されもしない堂々たる舞台を務めている。
   この日は、勸玄君が宙乗りで脚光を浴びている「通し狂言 駄右衛門花御所異聞」ではなく、昼の部に出かけた。
   「歌舞伎十八番の内 矢の根」、河竹黙阿弥の「盲長屋梅加賀鳶」「連獅子」であった。

   今回は、海老蔵の「盲長屋梅加賀鳶」の盲長屋の小悪人竹垣道玄を見たいと思った。
   この道玄については、菊五郎や幸四郎などの舞台を観ているのだが、7年前に見た團十郎の道玄が非常に印象的であったので、海老蔵だとどうなるのか、非常に興味を感じていた。

   團十郎の時の私の印象は、次の様なものであった。
   性格的にもまじめ一方と言うか、大きな目にモノを言わせた團十郎の道玄は、実に味がある。不思議にも凄みを全く感じさせない、しかし、俗に言われている小悪党と言う感じではないが、器用に世渡りをしながら泳いでいる倫理観道徳観全く欠如の欠陥人間を地で行くように巧みに演じている。このあたりの團十郎は、お家の芸である荒事の豪壮な世界を現出する團十郎ではなく、正に、等身大、しかし、人間の真実に迫ろうとする気迫と思い入れが脈打っていて感動的である。

   今回の海老蔵は、くりくりとした目が、独特な芸を見せてくれるのは同じだが、芸の質は全く違っていて、私は、セリフ回しなど、幸四郎の芝居を彷彿させるような雰囲気を感じて、びっくりして見ていた。
   それに、團十郎の場合には、既に、50歳を超えての道玄であったので、それなりの人生を経た灰汁のようなどこか人間臭い雰囲気を醸し出した芝居であったが、海老蔵の場合には、若さの所為もあろうか、芸そのものが直球勝負のストレートな演技で、悪の表現も、非常にモダンで、掛け値なしに飾りっけなしのシンプルなものであった。
   それがまた、独特な悪の世界を現出していて面白い。

   女按摩お兼(齊入)に入れあげて、女房おせつ(笑三郎)を邪険にして追い出そうとないがしろにしているのだが、この女房をベテランの女形の笑三郎が演じていて、その二人の醸し出す雰囲気が味があって実に良い。
   女按摩お兼を演じた齊入(右之助)は、團十郎の時には、この女房おせつを演じていて、今回は、一寸出世して女按摩のお兼であるから、知り尽くした舞台であり、実に上手く、海老蔵をサポートしている。
   道玄と渡り合う正義の味方の親分日陰町松蔵は、最近歌舞伎役者として益々存在感増してきた中車で、重量感のある芸を披露している。
   
   私が観たほかの舞台は、
   幸四郎の道玄、秀太郎のお兼、吉右衛門の松蔵 
   菊五郎の道玄、福助のお兼、東蔵の女房おせつ、仁左衛門の松蔵、
   これらの舞台に比べれば、海老蔵の今回の舞台は、一寸貫禄負けと言った感じであるが、海老蔵の清新な世話物の舞台を観ただけでも幸いであった。
   冒頭の「本郷木戸前勢揃いより」で、威勢の良い加賀鳶を命を張って追い返した天神町梅吉の雄姿は、海老蔵の本領発揮の胸のすくような晴れ舞台であったのは言うまでもない。

   ところで、これは、私の歌舞伎観だが、次のように書いたことがある。
   江戸歌舞伎には、悪人やアウトローが主役の芝居が結構多くて、悪の華などと言って、粋だ格好良いなどと言って囃す傾向があるのだが、なぜか、これにずっと抵抗を感じている。
   三津五郎が、「め組の喧嘩」とか、「加賀鳶の勢揃い」とか、別段深い意味はないけれど、ただただ、鳶頭がかっとしているだけで血が騒ぐような、喧嘩場の湯気が立つような場面はワクワクしました。そしてその場面に出ることが子供の頃からの憧れだった。この場面に出たかった。と言っていて、関東人は、やはり、江戸歌舞伎の任侠ものや荒事に共感しているのだと思った。
   私は、やはり、元関西人である所為か、どうしてもナンセンスなアウトローものや筋も何もない荒事のパーフォーマンスにはしっくりと来なくて、どちらかと言えば、シェイクスピアに近い近松ものや上方の世話物・和事の世界の方が、楽しめるような気がしている。

   そんな感じから言えば、今回の舞台は、「矢の根」や「加賀鳶」の序幕など、殆ど内容のないパフォーマンスやセリフで見せる舞台は、苦手である。

   さて、最後の「連獅子」だが、海老蔵と已之助の親仔獅子の舞台は素晴らしい。
   これは、能「石橋」を基にし、狂言「宗論」をアイ狂言に加えた歌舞伎の舞台だが、少し、趣が変わっていて、見せて魅せる舞台にしているのが歌舞伎の妙である。
   能舞台を模した松羽目の舞台に狂言師の右近、左近が登場して、獅子の子落とし伝説を再現し、父の思いを描く。次に、法華宗と浄土宗の僧が清涼山の麓で出くわして、南無妙法蓮華経VS南無阿弥陀仏の宗論。最後に、勇ましい親子の獅子の精が登場して、牡丹の枝を手に、芳しく咲く牡丹の花をバックにして、それに戯れる獅子の様子を演じて、最後に、親子の獅子が長い毛を豪快に振り続けて、獅子の座につく。

   親獅子の海老蔵の豪快さは勿論だが、仔獅子の日本舞踊坂東流の家元でもある已之助の舞も流石に目を見張るものがあり、正に、華麗な絵になる檜舞台であった。
   能「石橋」とは、多少、ニュアンスが違うが、非常に趣があって素晴らしい舞台であった。
   
   
   
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