熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立劇場9月文楽・・・「一谷嫩軍記」の「林住家の段」

2016年09月18日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   国立小劇場の「一谷嫩軍記」の第一部のハイライトは、薩摩守忠則の都落ちを脚色した二段目最後の「林住家の段」であろう。
   平家物語には、薩摩守忠は、「忠則都落ち」と「忠則最期」で、登場するのだが、歌人としても武人としても、平家きっての芸術に秀で武勇にも勇名を馳せた文武両道の達人であったことを忍ばせて、感動敵である。

   まず、平家物語だが、「忠度の都落ち」では、
   一度都落ちした忠則が、「わが身ともに七騎取つて返し、五条の三位俊成卿の宿所に」やって来て、勅撰和歌集の編纂者である師の俊成に、「生涯の面目に、一首なりとも御恩をかうぶつて、」と懇願して、「日ごろ詠みおかれたる歌どもの中に、秀歌とおぼしきを百余首書き集められたる巻き物を、今はとてうつ立たれけるとき、これを取つて持たれたりしが、鎧の引き合はせより取り出でて、俊成卿に奉る。」
   俊成は、「かかる忘れ形見を賜はりおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。御疑ひあるべからず」と涙を押さえて受け取り、
   忠則は、「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。浮き世に思ひおくこと候はず。さらばいとま申して。」 とて、馬にうち乗り甲の緒を締め、西をさいてぞ歩ませ給ふ。」
   「世静まつて千載集を撰ぜられけるに、・・・勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、「故郷の花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、「詠み人知らず」と入れられける。
   ”さざなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくらかな ”

   「忠度最期」だが、
   薩摩守忠度は一谷の西の手の大将軍にておはしけるがその日の装束には紺地の錦の直垂に黒糸威の鎧着て黒き馬の太う逞しきに鋳懸地の鞍置いて乗り給ひたりけるがその勢百騎ばかりが中にうち囲まれていと騒がず控へ控へ落ち給ふ処にここに武蔵国の住人岡部六弥太忠純よい敵と目を懸け鞭鐙を合はせて追つ駆け奉り
   あれはいかによき大将軍とこそ見参らせて候へ、正なうも敵に後ろを見せさせ給ふものかな、返させ給へ返させ給へ、これは御方ぞとて振り仰ぎ給ふ内甲を見入れたれば鉄漿黒なり
   あつぱれ御方に鉄漿付けたる者は無きものをいかさまにもこれは平家の君達にておはすらめとて押し並べてむずと組む
  「薩摩守は聞ゆる熊野育ち早技の大力にておはしければ六弥太を掴うで」組伏して、「首を馘かんとし給ふ処に六弥太が童後れ馳せに馳せ来て急ぎ馬より飛んで下り打刀を抜いて薩摩守の右の肘を臂の本よりふつと打ち落す」
   「薩摩守今はかうとや思はれけん、暫し退け最後の十念唱へんとて六弥太を掴んで弓杖ばかりをぞ投げ退けらる、その後西に向かひ、光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨と宣ひも果てねば六弥太後ろより寄せて薩摩守の首を取る
   よき大将軍討ち奉りたりとは思へども名をば誰とも知らざりけるが箙に結び付けられたる文を取つて見ければ、旅宿花といふ題にて歌をぞ一首詠まれたる
   ”行き暮れて木のしたかげを宿とせば花やこよひのあるじならまし 忠度”
   「この日比日本国に鬼神と聞えさせ給ひたる薩摩守殿をば武蔵国の住人猪俣党に岡部六弥太忠純が討ち奉つたるぞやと名乗つたりければ敵も御方もこれを聞いて、あないとほし、武芸にも歌道にも優れてよき大将軍にておはしつる人を、とて皆鎧の袖を濡らしける」

   忠則に従っていた雑兵は寄せ集めなので皆逃げてしまって、孤軍奮闘の忠則が、六弥太の首を掻こうとした時に、六弥太の家来に右肩を切り落とされてしまうのだが、このような最期の戦いに出ても、鉄漿を欠かさず、箙に和歌を結び付けると言う風流を忘れなかった平家の英雄薩摩守忠則の最期に、坂東武者たちが、涙したと言うのである。

   先の「敦盛の最期」を聞いた義経以下坂東武者たちも、その風雅に涙したと言うのだが、この忠則の最期にしろ、「平家物語」の語り部たちは、清盛や平家の横暴を「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」といなしながらも
、文化芸術の香りの素晴らしさを、平家への挽歌に託して謳い上げていたような気がして、いつも、しみじみとした感興を覚えながら、平家物語に感じ入っている。
   この文楽の「陣門の段」で、初陣の高名を立てるべく一番乗りした小次郎が、平家の陣所から、素晴らしい笛の音が流れてくるのを聞いて、都人の優雅さ優しさに感じ入るシーンがあるのだが、青葉の笛の導入部として、興味深い。

   さて、この平家物語を下敷きにして編み出された浄瑠璃の「一谷嫩軍記」の忠則(玉男)を主人公にした「林住家の段」だが、先に論じたように、平家への愛情過多の義経(幸助)の登場によって、大分、実話から、話がスキューしているのだが、それを差し引いても、この段の忠則は興味深い。
   忠則の「さざなみや」の歌は、俊成の推薦によって義経が勅撰和歌集に掲載することを決して、その伝言を、忠則最期で戦った六弥太(玉志)に命令することは、初段の冒頭で示されていて、この段では、六弥太が、林住家にやって来て、忠則に、義経から託された忠則の詠歌の短冊を結び付けた山桜の枝を渡して千載集に加えたことを伝える。
   忠則は、生涯の本望と喜び、六弥太の縄にかかろうとするのだが、六弥太は、今回の役目は討手ではなく、義経のメッセンジャーとして来たのであるから、戦場で見えようと言って、平家物語とはだいぶ違ったニュアンスながら、忠則最期のシーンを暗示させて面白い。

   この舞台で興味深いのは、俊成の娘・菊の前(簑助)が、忠則に恋い焦がれる恋人役として登場していることで、林住家で再会して、どうしてもどこまでもお供したいと忠則にかき口説くのだが、平家に加担したと俊成に咎が行くことを恐れ、討ち死に覚悟をした忠則は聞き入れず、悲しい別れのシーンが展開される。
   女性美の極致とも言うべき、健気で一途に思い詰めて愛に身を捧げるいじらしい簑助の遣う菊の前の人形を観るだけで、この文楽に行った甲斐がある。それほど、簑助の至芸の極致とも言うべき、凄い舞台なのである。
   それを受けて立つ忠則の玉男の人形も、大変な威厳と風格で、圧倒するようなオーラと迫力がある。
   松王丸などもそうだが、歌舞伎や文楽では、本来それ程重要人物でない人物が、大仰な芸をするのだが、薩摩守忠則は、名実ともに華のある最高峰の武人であり文人であるから、いくら、素晴らしい芸を見せても見せるほど絵になるのである。

   さて、この第一部は、他にも、「敦盛出陣の段」や、「陣門、須磨の浦、組討の段」など素晴らしい舞台が展開されていて、このような充実した通し狂言「一谷嫩軍記」を見せられると、その奥深いストーリー展開に感動するとともに、三業のコラボレーションによって生み出される文楽の魅力に圧倒される思いである。
   和生が遣う敦盛と小次郎をが、品があって爽やかな青年像を醸し出していて印象的である。
   また、和生は、乳母林も遣っており、これは、本来和生の得意中のキャラクターであるから、簑助の菊の前を庇う仕草など、優しくて温かく感動的である。

   能「忠則」との関係についても書きたかったが、蛇足であろうと思ってやめにした。
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