夜の部の圧巻は、やはり、猿之助が、老女岩手実は安達原鬼女を演じた「黒塚」であろう。
能の「黒塚」、観世流では「安達原」と題するようだが、平兼盛の「陸奥の安達ヶ原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか」と言う歌と、安達ヶ原の鬼女伝説を基に舞台化されたと言う。
熊野那智大社の阿闍梨裕慶(團十郎)が山伏たち(門之助、右近)と托鉢修行行脚の途中、陸奥の安達ヶ原で日が暮れて、人里離れた野原の庵に辿り着き、一夜の宿を乞う。
人世に疲れた老女が住むあばら家で、寝付けない祐慶が、片隅の糸車を見つけて糸繰りを頼むと、老女は、糸を繰りながら仕事歌を歌い悲しく辛い境遇を嘆き、それを、祐慶が、慰め諭す。
寒いので、薪を取って来ると言って立ち上がり、戸口で引き返して、留守中に寝室を覗いてはならないと言い残す。
見るなと言われれば見たくなると、祐慶の制止を聞かず、同行の強力太郎吾(猿弥)が覗いてみると、そこには、人の死骸が山積み。
一方、安達ヶ原に薪取りに出た老女は、阿闍梨から仏の道を説かれ心の曇りが晴れたて嬉しくて、童女の頃を忍び無心に踊る。
しかし、そこへ動転して必死になって逃げて来た太郎吾を見て、祐慶たちの背信を知り、鬼と化して、急ぎ取って返す。
鬼気迫る井出達で食い殺そうと挑む鬼女を、踏み止まって五大尊王に祈って調伏しようとする裕慶たちとの息詰まるような戦いの果てに鬼女は力尽く。
この第二景の、舞台背景一面に階段状に植え込まれた薄と中空に輝く三日月をバックにして、舞台上手には長唄、三味線、琴、尺八、舞台下手には小鼓、大鼓、笛のお囃子連中が陣取り、四世杵屋佐吉作曲による素晴らしい音曲に合わせて、美しい舞台で踊る猿之助の老女の踊りの素晴らしさは格別で、これこそが舞踊劇の舞踊劇たる所以であって、能舞台との大きな違いと言うか、能の名曲に想を得た歌舞伎化によるアウトへ―ベンと言うべきケースであろうか。
歌舞伎美人で、「猿之助が太陽なら、亀治郎は月――。人にそう言われ、なるほどと思ったという亀治郎が、舞台で最も好きなのが『黒塚』の月。老女岩手から鬼女へ変わるところは、「無心になれと言われるが難しい。今回は何も考えず、"即興"ではないけれど、そういう気持ちでやろうと思っています。」と言っているのだが、初代猿翁が、ロシアン・バレーから想を得たと言う東西の美的要素を名曲に凝縮した実に素晴らしい舞踊劇を、緩急自在にメリハリを付けながら滔々と流れるように踊り続ける猿之助の至芸に感動であった。
ところで、第一景の舞台だが、丁度、能舞台の作り物を模してか、舞台中央に、同じようなボックス型の小さな庵が設えられていて、その正面の障子窓に、薄明かりに陰った岩手の姿が浮かんでいると言う設定で、シンプルだが、何となく後のストーリーを暗示しているようで面白い。
能では、後シテの鬼女は、般若の面をつけるようだが、猿之助の隈取も凄まじい。
しかし、やはり、能と同じで、猿之助の岩手も鬼女も、衣装は錦で実に美しく、鬼女の衣装の考案には金剛流が協力したと言う。
さて、この舞台では、閨の内を見るなと言われたのに見てしまったと言うところがポイントで、その裏切られたと言う背信行為に激怒して、岩手が鬼女に戻って本性を現して、祐慶たちを食い殺そうとするのだが、見方によっては、見られても見られなくても、岩手は、祐慶たちを食い殺そうとしたかどうかと言うことである。
岩波講座の能鑑賞には、鬼女の心に共存している人間性と鬼性とどちらの方を強く表現するのかによって微妙な違いが出てくる。中入りの際に、退場する時、閨を覗くなと言って橋掛かりで立ち止まる演技は、本当に約束を守ってくれるだろうかと言う不安の表現にも、うまく罠にはまってくれるよう願う気持ちの表現にもなり得ると書いてある。
ところが、三宅晶子教授などは、鬼女は、寒いのに夜中に芝を取りに裏山へ出かけようとするほどだから親切な女で、祐慶たちを食おうと思ったわけではなく、悟りを得て成仏したいと言う気持ちは本心らしく、裏切られたから本性を現したのだ。と言う。尤も、女の正体は、人を食う鬼であり、自分の運命に苦しむ鬼、鬼の人間性、その類が垣間見えて、人間の心に潜む悪の部分に鬼と言う形を与えて、この能は面白い迫り方で人間の本性をついて突き付けているとも言う。
私は、この歌舞伎の場合には、第二景の場で、阿闍梨から仏の道を説かれ心の曇りが晴れた岩手が、童女の頃を忍び月に戯れて無心に踊ると言う素晴らしい舞踊の舞台を挿入することによって、はっきりと、人間に立ち返って平安を願おうとする岩手の心が表出されており、裏切られたから故に鬼女にかえってしまったのだと言うストーリー展開を明確にしたと思っている。
それ故に、自分勝手な生き様と言えばそうなのだが、闇路にのめり込んだ人生を清算しようともがいていたその苦悩の果ての展開であるから、実に悲しくて切ないのだが、所詮、鬼とは、人間が作り出した虚構にしか過ぎないと言うことであろう。
第一景での、人世に疲れて苦悩する沈んだ老女の姿、第二景の、溌剌として喜びを現しながら表情豊かに踊る姿、第三景の、凄い形相と迫力で祐景たちに対峙する鬼女の姿、夫々の老女岩手と鬼女の中に複雑な人間性の揺れ動きをうまく表現しながら猿之助は、泳ぐように流れるように舞台を務めていて、何の違和感もなく舞台に引き込み心地よい感動を与えてくれた。
この舞台は、何を置いても、人間の宿業の深さと儚くて悲しい人間の性を鬼女に託して演じ切った猿之助の舞台であるが、祐慶に、團十郎と言う重鎮を迎え、門之助と右近と言う猿翁が手塩にかけて育てた盟友が脇を固め、性格俳優として貴重な存在の軽妙洒脱な猿弥が、器用に狂言回しを演じるなど、素晴らしい助演陣に助けられて、正に、襲名記念として最高の舞台を作り上げたと思っている。
能の「黒塚」、観世流では「安達原」と題するようだが、平兼盛の「陸奥の安達ヶ原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか」と言う歌と、安達ヶ原の鬼女伝説を基に舞台化されたと言う。
熊野那智大社の阿闍梨裕慶(團十郎)が山伏たち(門之助、右近)と托鉢修行行脚の途中、陸奥の安達ヶ原で日が暮れて、人里離れた野原の庵に辿り着き、一夜の宿を乞う。
人世に疲れた老女が住むあばら家で、寝付けない祐慶が、片隅の糸車を見つけて糸繰りを頼むと、老女は、糸を繰りながら仕事歌を歌い悲しく辛い境遇を嘆き、それを、祐慶が、慰め諭す。
寒いので、薪を取って来ると言って立ち上がり、戸口で引き返して、留守中に寝室を覗いてはならないと言い残す。
見るなと言われれば見たくなると、祐慶の制止を聞かず、同行の強力太郎吾(猿弥)が覗いてみると、そこには、人の死骸が山積み。
一方、安達ヶ原に薪取りに出た老女は、阿闍梨から仏の道を説かれ心の曇りが晴れたて嬉しくて、童女の頃を忍び無心に踊る。
しかし、そこへ動転して必死になって逃げて来た太郎吾を見て、祐慶たちの背信を知り、鬼と化して、急ぎ取って返す。
鬼気迫る井出達で食い殺そうと挑む鬼女を、踏み止まって五大尊王に祈って調伏しようとする裕慶たちとの息詰まるような戦いの果てに鬼女は力尽く。
この第二景の、舞台背景一面に階段状に植え込まれた薄と中空に輝く三日月をバックにして、舞台上手には長唄、三味線、琴、尺八、舞台下手には小鼓、大鼓、笛のお囃子連中が陣取り、四世杵屋佐吉作曲による素晴らしい音曲に合わせて、美しい舞台で踊る猿之助の老女の踊りの素晴らしさは格別で、これこそが舞踊劇の舞踊劇たる所以であって、能舞台との大きな違いと言うか、能の名曲に想を得た歌舞伎化によるアウトへ―ベンと言うべきケースであろうか。
歌舞伎美人で、「猿之助が太陽なら、亀治郎は月――。人にそう言われ、なるほどと思ったという亀治郎が、舞台で最も好きなのが『黒塚』の月。老女岩手から鬼女へ変わるところは、「無心になれと言われるが難しい。今回は何も考えず、"即興"ではないけれど、そういう気持ちでやろうと思っています。」と言っているのだが、初代猿翁が、ロシアン・バレーから想を得たと言う東西の美的要素を名曲に凝縮した実に素晴らしい舞踊劇を、緩急自在にメリハリを付けながら滔々と流れるように踊り続ける猿之助の至芸に感動であった。
ところで、第一景の舞台だが、丁度、能舞台の作り物を模してか、舞台中央に、同じようなボックス型の小さな庵が設えられていて、その正面の障子窓に、薄明かりに陰った岩手の姿が浮かんでいると言う設定で、シンプルだが、何となく後のストーリーを暗示しているようで面白い。
能では、後シテの鬼女は、般若の面をつけるようだが、猿之助の隈取も凄まじい。
しかし、やはり、能と同じで、猿之助の岩手も鬼女も、衣装は錦で実に美しく、鬼女の衣装の考案には金剛流が協力したと言う。
さて、この舞台では、閨の内を見るなと言われたのに見てしまったと言うところがポイントで、その裏切られたと言う背信行為に激怒して、岩手が鬼女に戻って本性を現して、祐慶たちを食い殺そうとするのだが、見方によっては、見られても見られなくても、岩手は、祐慶たちを食い殺そうとしたかどうかと言うことである。
岩波講座の能鑑賞には、鬼女の心に共存している人間性と鬼性とどちらの方を強く表現するのかによって微妙な違いが出てくる。中入りの際に、退場する時、閨を覗くなと言って橋掛かりで立ち止まる演技は、本当に約束を守ってくれるだろうかと言う不安の表現にも、うまく罠にはまってくれるよう願う気持ちの表現にもなり得ると書いてある。
ところが、三宅晶子教授などは、鬼女は、寒いのに夜中に芝を取りに裏山へ出かけようとするほどだから親切な女で、祐慶たちを食おうと思ったわけではなく、悟りを得て成仏したいと言う気持ちは本心らしく、裏切られたから本性を現したのだ。と言う。尤も、女の正体は、人を食う鬼であり、自分の運命に苦しむ鬼、鬼の人間性、その類が垣間見えて、人間の心に潜む悪の部分に鬼と言う形を与えて、この能は面白い迫り方で人間の本性をついて突き付けているとも言う。
私は、この歌舞伎の場合には、第二景の場で、阿闍梨から仏の道を説かれ心の曇りが晴れた岩手が、童女の頃を忍び月に戯れて無心に踊ると言う素晴らしい舞踊の舞台を挿入することによって、はっきりと、人間に立ち返って平安を願おうとする岩手の心が表出されており、裏切られたから故に鬼女にかえってしまったのだと言うストーリー展開を明確にしたと思っている。
それ故に、自分勝手な生き様と言えばそうなのだが、闇路にのめり込んだ人生を清算しようともがいていたその苦悩の果ての展開であるから、実に悲しくて切ないのだが、所詮、鬼とは、人間が作り出した虚構にしか過ぎないと言うことであろう。
第一景での、人世に疲れて苦悩する沈んだ老女の姿、第二景の、溌剌として喜びを現しながら表情豊かに踊る姿、第三景の、凄い形相と迫力で祐景たちに対峙する鬼女の姿、夫々の老女岩手と鬼女の中に複雑な人間性の揺れ動きをうまく表現しながら猿之助は、泳ぐように流れるように舞台を務めていて、何の違和感もなく舞台に引き込み心地よい感動を与えてくれた。
この舞台は、何を置いても、人間の宿業の深さと儚くて悲しい人間の性を鬼女に託して演じ切った猿之助の舞台であるが、祐慶に、團十郎と言う重鎮を迎え、門之助と右近と言う猿翁が手塩にかけて育てた盟友が脇を固め、性格俳優として貴重な存在の軽妙洒脱な猿弥が、器用に狂言回しを演じるなど、素晴らしい助演陣に助けられて、正に、襲名記念として最高の舞台を作り上げたと思っている。
初心者の私にもとてもわかりやすく、共感できる記事で、面白く拝見させていただきました。読んだうえで見たら更に良いだろうと思い、「黒塚」はまた幕見で観劇しに行く予定です。(月は見えないようですが・・・)
他の記事も、とても興味深く拝見しました。私は20代ですが、最近歌舞伎に面白さを感じるようになり、今度、能も見に行ってみたいなと思っています。
これからも投稿楽しみにしています。