熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

粟谷 明生著「夢のひとしずく 能への思い 」

2017年07月13日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   2年前に、この著者が、父であり人間国宝であった喜多流能楽師粟谷菊生からの聞き語りを集大成した”粟谷明生編「粟谷菊生 能語り」”を、ブックレビューしたが、この本は、自分自身の能楽人生と能や演能に対する思いを語ったもので、非常に興味深くて面白い。

   第一部の「わが能楽人生」では、初舞台、そして、子方時代から還暦を越えた今日までの能楽遍歴を辿りながら、能への思いや心の軌跡を綴っている。
   第二部の「演能の舞台から」では、能の曲や演能を、神、男、女、狂、鬼と順を追いながら、自身の舞台の経験や思い出を交えながら語っており、シテ方の能楽者の立場からなので、普通の能の曲の解説などとは違って、奥行きと含蓄があって楽しませてくれる。
   幸い、私の場合、国立能楽堂などには200回以上も通い続けており、この本で取り上げられている曲の殆どは、観聴きしているので、夫々の舞台を追っている感じで親しみを感じながら読み続けた。
   
   子方のところで、「大人の義経がなぜ子方か?」と問うて、船弁慶では、シテ(静・知盛)とワキの弁慶と言う拮抗する二人の大人に義経と言う大きな存在を入れると舞台の焦点が散漫になるため、そして、安宅では、弁慶と富樫の対決をくっきりと出すには、もう一人の重要人物は、子方が相応しいと言うお能マジックであると言って、子供ながらにも、心して舞台に臨むのだと言っている。
   「墨田川」で、子方を出すか出さないかを、世阿弥と元雅が論争した「猿楽談義」に触れて、自身は、子方を出す場面こそが最高の見せ場だと言う。

   著者も、能楽に疑問を持った時期があり、父や伯父に反発してハラハラさせた不良時代があったのだと述懐しており、転機となってやる気にさせたのは、30歳直前の「黒塚」だったと言う。
   従兄の能夫師から、「”月もさし入る”と、喜多流では月を見る型だが、観世寿夫は”月もさし入る閨の内”と、あばら家の床に差し込む月光をじっと見た」と言われて、月と言えば上を見る、型付通りにするものだと思っていたので衝撃を受けた。詞章の深い読み込みでいろいろな演出ができることを知ると途端に気持ちが明るくなり、やる気がふつふつと湧いてきた。と言うのである。
   演じることに規制が効きすぎ自由のない能の世界、能は完成された演劇で、決まりごとを粗相なく伝承しておれば無難にこなせる、余分な創造性は無用と、知らぬうちに思い込んでいた自分を、意外に自由な演劇だと感じ、流儀内の決められたもの以外に、色々な解釈と表現がある、これは何て面白いのだろうと、心が震えたと言うのである。
   次に披いたのは、「道成寺」であるから、一気に開眼、「道成寺」については、多くの紙幅を割いて丁寧に語っていて面白い。

   父の菊生師は、スポーツであれ、他の舞台芸術であれ、貪欲に多くの分野にアプローチして、たとえば、背中と足の裏で俊寛を表現した凄い吉右衛門の歌舞伎に刺激されて、「鬼界島」に取り入れたりしていたが、著者は、その方面は触れておらず、その代わりに、「自然居士」の稽古で、ワキ方や狂言方や囃子方、そして、流儀を越えた謡などを糾合した斬新なシステムを編み出して実行したと言う。

   私には、全く分からない次元の話だが、同じ詞章であっても、5流の演能が、時には、全く違うように、傑出したパフォーマンスが流儀内の型付として伝承されているのであろうし、決定版などはない筈で、本来なら、いくらでもアウフヘーベンされてしかるべきであろうと思う。
   先日取り上げた「二人静」など、3つのバージョンだけでも、雲泥の差があり、他の曲でも、小書きにもよるであろうし、流儀を越えれば、かなりのバリエーションが生まれ得てしかるべきだと思っている。
   歌舞伎では、江戸歌舞伎では、伝統・伝承が重視されるのだが、上方歌舞伎では、切磋琢磨工夫努力して、新しい芸を編み出せずに同じ芸を続けていると、「あの役者、全く芸がない。ダイコンやなあ。」と言われると言うのだが、どちらが真実か。難しいところであるが、私は、欧米のオペラやシェイクスピア戯曲の舞台を観ていて、あれだけ、どんどん、新しいパフォーマンスが生まれて変化を遂げて進歩しており、日本の古典芸能の伝統重視を最大限貴重だと思ってはいるが、新しい試みがあってこその芸術だと言う気がする。

   新しい演能の世界を追求してきた過程で、批判されてきたようだが、新しい試みに挑戦してきた友枝昭世は、「そんな型、喜多流にあるの?」と問われて、「ない。しかし、能にはある。」と答えていたと言う。
   流儀を越えて、能に向き合うことの素晴らしさを感じて、「能にはある」を信念として演って行きたい。能よ、永遠なれ!だと言う。

   さて、第二部の、能のそれぞれの曲に対する解説なり著者の思い入れが、非常にユニークで面白く、これからの観能に非常に役立つと思う。
   例えば、六条御息所の「野宮」など随分丁寧に語っているが、私など、原本や谷崎の源氏物語を持って、京都や源氏物語の故地を歩いて思いを馳せた京都での学生時代を思い出しながら、
   能を通じて、どんどん、増幅して広がって行く源氏物語や平家物語など、古典の世界の奥深さに感激しているのであるから、二重の楽しみである。
   
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