熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

桂米朝著「桂米朝 私の履歴書」

2017年10月02日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「子米朝」を読んだ後、親の米朝を知りたくて、この履歴書を読んだ。
   全く、米朝を知らないわけではなく、この履歴書も、日経掲載当時に、飛ばし飛ばしながら読んだ記憶もあるのだが、残念ながら、米朝の高座には全く接したことはなく、米朝の落語は、すべて、YouTubeや、録画録音からである。
   しかし、元関西人であったと言うこともあるが、能狂言は勿論、文楽や歌舞伎など、日本の古典芸能の多くは、上方オリジンだと思っているので、出来るだけ、その本物を味わいたいと言う気持ちが強いので、どうしても関心が行き、米朝は、その意味でも、最高峰に聳え立つ上方の古典芸能人だと思っているので、米朝一門落語会を聴いた直後でもあり、読みたくなったのである。
   
   まず、米朝の経歴で、特筆すべきは、大東文化学院(現大東文化大学)進学のため上京して東京で学生生活を送っており、同時に、作家であり落語・寄席研究家であり、六代目尾上菊五郎の座付作者ともいわれたと言う卓越した文学者正岡容に私淑して弟子として薫陶を受けたことである。
   この履歴書には触れていないが、正岡から、「いまや伝統ある上方落語は消滅の危機にある。復興に貴公の生命をかけろ」と言われて、落語家への道を決心をしたと言うのは有名な話で、戦後風前の灯であった上方落語の継承と復興への功績から「上方落語中興の祖」と称えられている文化的な貢献は勿論のこと、『米朝落語全集』を筆頭にして、膨大な著書やCDやDVDなどの音源や映像を残すなど、並の落語家を超越した知的武装をした偉大なインテリ芸術家であり、人間国宝に上り詰めたと言うのは、決して偶然ではなかった筈である。

   本の虫であったと言うのは、この履歴書では、奥方との初めての出会いのシーンで一寸匂わせているだけだが、「子米朝」の中で、子息の米團治が語っており、落語は勿論、日本の古典芸能なり上方文化などについては、正に、学者以上に造詣が深かったのであろうと思う。
   それに加えて、常人を超越した凄い落語家であったのみならず、種々の文化関係のプロモーターであったり組織のオルガナイザーであったりなど八面六臂の活躍を89歳まで続けて来たのであるから、大変な偉業である。

   「落語全集」のところで、「落語は文学か」と言われるが、その議論には関心がなく、落語を活字にするのは、芸を記録に残して後世に伝えるためで、一応の上方落語の定本を作っておきたいからだと言う。
   米朝のテープはすべて揃えている言っていた司馬遼太郎は、寝る時には、米朝の2席テープをかけると安らかに夢の世界に入れると言っていた。という。
   その司馬遼太郎が、「米朝ばなし」の解説で、「・・・米朝さんほど心をよろこばせるという本質的な機能をもった文学作品に出あうことは、そう多くはない。」と書いている。
   米朝の著わす落語は、文学だと認めているのである。
   圓朝の作品などは、まさに、立派な文学であるし、落語も、形式は違うが、平家物語や浄瑠璃や、あるいは、狂言などと同じような、文学に相違ないと思っている。
   小米朝、すなわち、米團治が書いていたが、落語は、映画にもなれば芝居にもなる、芸能の原点でもあるのである。

   ところで、愛する上方文化、上方芸能の衰退をどうして復興して行けばよいのか、本当の上方の特色、個性について、ジャンルを超えて、芸能界に共通する問題について語り合って行こうではないと、上方のトップ芸人・芸術家が参集して、雑誌「上方風流」発行など、活動を始めたと言う。文楽で言えば、住太夫、源太夫、寛治、簑助、文雀と言った人間国宝の揃い踏み、私の知っている人でも、藤十郎、藤山寛美、大村崑、夢路いとし喜味こいし、茂山千之丞の面々、他には、舞踊ほかの古典芸能、演劇、書家、史家作家など、人間国宝を含めて総勢24人が集まり、年齢オーバーで、千作や延若などは、涙を飲んだと言う。
   全く余談だが、イタリアルネサンスが、文明の十字路、メディチのフィレンツェで、繚乱したのは、正に、学者や芸術家など、クリエイティブ・クラスのトップ才能が雲霞のごとく参集したためであって、そんな土壌を醸し出した古典芸能のプチ大阪版と言うところであろうか。
   異文化異文明の交流はもとより、異分野異業種のコラボレーション、切磋琢磨、鬩ぎ合い等々が、限りなく、フィレンツェの学問や芸術の創造性を高めて豊かにしたのである。
   良くは知らないが、能狂言、文楽などが、歌舞伎との交流を厳しく規制して、殆ど、芸のコラボレーションがなかったと聞くのだが、考えられないような愚挙である。
   先の人間国宝銕之丞は、吉右衛門の勧進帳の弁慶に触発されて芸に取り入れたと言うから、芸術とは、それ程奥深いものなのであり、門戸を閉ざすなど自殺行為であり、米朝も、千之丞の追放騒動について疑問を呈している。

   もう一つの米朝の芸や芸術仲間のすそ野の広さは、正岡容や小沢正一がからむ「東京やなぎ句会」などの東京の芸術家たちとの交流においても言え、これも特筆すべきであろう。

   この履歴書には、流石、天下一の噺家の自伝であるから、読んでいて実に面白い。
   師匠米團治への篤い思いなど、随所に書かれていて、この米團治あっての米朝なのであろうが、米團治の言葉を心に秘めて奮闘した米朝の姿が清々しい。
   前半の相当部分は、戦前や古い話で、多少馴染みがないぶん、少し退屈であったが、奥方桑田絹子変じて駒ヒカルのOSK時代のジャングルブギを踊る雄姿(?)の素晴らしい写真のページくらいからは、第三章 充実の時代へ で、俄然面白くなる。

   1時間以上にも及ぶ自身で集大成した「地獄八景亡者戯(江戸落語は、地獄めぐり)」が面白いようだが、私は、一度だけ、国立演芸場で、極めて省略バージョンだが、春團治の弟子桂春蝶の「地獄めぐり」を聞いたことがある。
   後先になってしまったが、これから、Youtubeで、米朝の名演を観られるので、それを聴きながら、米朝の偉大さを懐かしんでみたいと思う。
コメント
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