熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂〜式能

2012年02月22日 | 観劇・文楽・歌舞伎・映画
   先日、国立能楽堂で催された「式能」を鑑賞する機会を得た。
   言葉だけしか知らなっかったのだが、コトバンクによると、”儀式として催される能。江戸時代には、幕府の行事や祝典、将軍家の慶事などの際に、江戸城本丸表の舞台で翁(おきな)付き五番立ての能が催された。現在では、能楽協会などの主催するシテ方五流出演の五番立ての催しをいう。”と言うことらしい。
   狂言は兎も角、能楽には全く初歩の私には、劇薬を飲むようなものだが、朝10時から夕刻7時前まで、「五流宗家・正式五番能」と銘打ち、古式に則り、「神・男・女・鬼の五番立」を標榜する本格的な舞台を見たのである。
   この間に、狂言が四曲加わるので、能楽協会としては、大変な催し物なのであろう。

   冒頭の「翁」だが、御目出度いと言うことで、年の初めに演ずるとのことで、元々、五穀豊穣を祈る農村の行事から生まれた田楽・申楽の伝統を引くようで、千載が舞い、白式尉の白い面をつけた翁が、祭儀をつかさどって舞い、続いて、黒式尉の黒い面をつけた三番叟が、鈴を振りながら舞うと言う、物語性とか筋と言ったものはなく、「能にして能にあらず」と言われている能らしい。
   私など、極端に無駄を省いて切り詰めた、抑制に抑制を重ねた能の世界は、非常に分かり辛いのだが、とにかく、時には、歯車が止まったような全く動きのない静寂が舞台を支配する瞬間に思い至って、はっとすることがあるのだが、そんな時、舞台で舞う能役者が、異境から舞い降りた影のような気がすることがある。
   
   今回演じられた能は、「嵐山」「生田敦盛」「初雪」「通小町」「土蜘蛛」で、最後の「土蜘蛛」には、いくらか芝居がかった舞台芸術の雰囲気があったが、今回は、背もたれの字幕ディスプレィのサービスがなかったので、解説書を読んだくらいでは、謡や台詞が聞き辛いので、シチュエーションを掴むのに苦労した。
   「謡本」を見ても、歌舞伎や浄瑠璃と違って、普通、非常に短くて単純なのだが、動きが極めてスローモーションなので、大曲になるとかなりの上演時間となるのだが、研ぎ澄まされてシンプリファイされている分、鑑賞眼を豊かにして捕捉しながら楽しむべきなのかも知れない。

   芝居は別として、オペラやシェイクスピアから入り、歌舞伎や文楽と続いて、私のパーフォーマンス・アートの鑑賞が、やっと、狂言から、能楽の世界に辿り着いたのだが、能を多少なりとも楽しめるようになるためには、相当な時間を要するような気がしている。
   とは言っても、今回の賞味7時間以上の舞台鑑賞は苦痛でもなかったし、結構、雰囲気も含めて楽しみながら時間を過ごせたので、これから能楽堂に通う機会が増えると思う。
   大分前のことだが、新橋演舞場で、「仮名手本忠臣蔵」の通し狂言を、一日かかって見た時の充実感のような感慨があったのだから、分かっても分からなくても、この式能鑑賞は、私に取っては良い経験だったのである。

   狂言は、「昆布柿」「茶壺」「呼声」「梟山伏」で、とにかく、大真面目に演じるので、可笑しみが増す。
   話の辻褄が合わなくても、手前勝手でも、滲み出すような笑いを誘いだすのが、実に良い。
   能楽協会の野村萬理事長などは、「昆布柿」で、82歳と言うのに、飛び跳ねての熱演で、実に元気である。
   最近、若くて才能のある狂言師が活躍しているが、私は、熟年や老境に達した狂言師の何とも云えない人間味豊かな芸の味が好きで、年輪を経た年季の入った笑いと可笑しみは格別であると思っている。
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