37年後 今だから話す 蒋経国氏 幻の暗殺計画/東京新聞

2007-02-19 19:16:39 | 世界
歴史に埋もれていた事実が明らかになった。大阪万博が開催され、高度経済成長の絶頂期を謳歌(おうか)していた一九七〇年の日本で、台湾独立派の活動家による蒋経国・台湾行政院副院長(当時)の暗殺が計画されていた。暗殺を企てた秘密組織の元幹部は、平穏な日本社会の裏側で、すさまじい暗闘が繰り広げられていたことを赤裸々に語った。 (浅井正智)

 男性は封筒の中からハンコを取り出し、記者に見せた。

 「台湾独立革命評議会」

 蒋経国氏暗殺を企てた秘密組織のハンコだという。

 今回証言をした陳天啓氏(79)=仮名=は、この組織の事務局長的な存在であり、暗殺計画に直接かかわった生き証人でもある。五四年に日本に密入国して以来、独立運動に携わっていた。

 当時の台湾の最高指導者は、総統でもあった蒋介石・中国国民党主席だ。同主席その人ではなく蒋経国氏を狙ったのはなぜか。

 「蒋介石はテロに遭うのを恐れて外遊はもちろん、公の場に姿を見せることも少なかった。外遊は息子の蒋経国に任せており、狙うなら蒋経国しか考えられなかった」

 このとき、蒋経国氏は行政院副院長(副首相)として父親の後継者の地位を確固なものとしていた。さらに情報機関を掌握しており、独立運動弾圧の最高責任者でもあった。

 「蒋経国を殺すことは、蒋介石を殺すに等しい効果がある」との判断があったという。

 狙撃手には台湾軍で兵役経験のある二十代前半の若い活動家が選ばれ、暴力団関係者から拳銃も入手した。蒋経国氏が来日時に訪れる場所を調べ、暗殺の具体的方法を練り始めた。「台湾独立革命評議会」のハンコを作ったのもこのときだ。

 「成功、不成功にかかわらず、実行犯の青年は必ず逮捕される。台湾に送還されれば死刑になるが、きちんとした独立組織のメンバーであることが明示できれば、日本政府から特別な計らいを受け、送還されない可能性も出てくると思った。万一の場合、『台湾独立革命評議会』という組織があり、実行犯はそのメンバーであることを内外に示すためにハンコを作ったが、結局一度も使わなかった」

 「特別な計らい」という点は多少説明を要する。

 当時、日台間には国交があったため、日本政府・自民党は表向きは国民党政権を支持していた。

 しかし、「裏で独立運動を支援してくれる政治家も数多くいた」と陳氏は言う。

 自身、日本に密入国し、台湾独立運動に共鳴する自民党の政治家の後押しで特別在留許可を取ることができた経験を持つ。

 六二年にも密出入国をして警視庁に逮捕され、半ば強制送還を覚悟したときも、大物政治家の口利きで十日間の拘置だけで釈放されたという。

 実行犯が捕らえられたときの救出方法まで考えたうえでの暗殺計画だったが、幕切れはあっけなかった。

 蒋経国氏は日本に寄る前に訪問した米ニューヨークで、台湾独立派に狙撃された。弾は命中せず命拾いをしたが、急きょ予定を変更して帰台してしまった。

 つまり、日米で同時期に同一人物を狙った二つの暗殺計画が存在していたことになる。まるで連携していたかのように見えるが、陳氏は「われわれはニューヨークの暗殺計画には関知していない。偶然の一致だ」と断言する。

 独立運動の組織は、「国民党のスパイを恐れて、信頼できる限られた人しかメンバーとして認めない」ため、互いに連絡のないグループがいくつも存在した。日本国内の独立派同士で意思疎通がないのだから、日米間の組織での連携などあろうはずもなかった。

 「そのような暗殺計画は初めて聞いた」

 台湾出身で六四年以来、日本に住む評論家の黄文雄氏は驚く。黄氏も来日以来、独立運動に携わってきた。米国で蒋経国氏暗殺未遂事件を起こした黄文雄氏とは同姓同名の別人で、現在は台湾独立建国連盟日本本部委員長を務める。

 今日の台湾独立運動は、中国とは異なる「台湾主権」の確立を目指すが、かつては大陸からの外来政権である国民党政権の打倒を最大の目標としていた。黄氏は「現在の独立運動は七〇年当時とは質が違う」と指摘しつつ、「あの時代の雰囲気では、独立派から暗殺計画が持ち上がるのも十分あり得る話だ」とみる。

 「六〇−七〇年代の台湾独立運動にとって、いつか台湾に戻って武装蜂起することは共通認識だった。米国内の独立運動では銃の撃ち方やゲリラ訓練も行われ、日本国内の組織から参加した者もいる。蒋経国暗殺計画もこうした雰囲気から浮上したのだろう」

 ただ、この暗殺計画は独立運動の盛り上がりの中で発案されたというよりも、むしろ組織が弱体化する中で冒険主義に走ったという面が否定できない。

 日本における台湾独立運動の中心は、五五年に東京で発足した亡命政権「台湾共和国臨時政府」だった。この臨時政府の「大統領」だった廖(りょう)文毅氏は独立運動の大立者で、マレーシアの独立記念式典に国家元首として招かれたこともある。

 しかし、その廖氏は国民党政権の懐柔に屈し、六五年に独立運動を放棄する声明を発表して台湾に戻ってしまった。臨時政府は最終的に七七年に瓦解するが、廖氏の帰台を機に、日本における独立運動は曲がり角に差しかかっていった。

 海外における台湾独立運動の中心が日本だったのは五〇−六〇年代までで、七〇年代以降は米国に中心が移行していくことになる。

 「廖文毅が去った後、残された活動家は、運動を立て直すには、暗殺のような荒っぽいことをしなければいけないという結論に達した」と陳氏は述懐する。

 日本での台湾独立運動を再度、鼓舞するために結成されたのが、秘密組織「台湾独立革命評議会」だった。日本国内にあった独立派三組織を糾合し、東京・高田馬場にあるアパートの一室にアジトを構えていた。機密を保持するために、月一回の会議に出席するのは各組織一人ずつに限られていたという。

■計画成功でも弾圧の可能性

 仮に暗殺が成功していたら、その後の台湾独立運動はどうなっていただろうか。陳氏は「後継者を失った蒋介石にとっては打撃となったはずだし、国民党政権も大混乱に陥ったに違いない」と不発に終わった計画を今も悔しがる。

 これに対し、黄氏は「もし成功していたら国民党政権は独立派に強硬な態度に出て、暗殺計画に関係していようがいまいが片っ端から弾圧を加えてきた可能性がある。かえって独立運動がやりにくくなったのではないか」と推測する。

 幻に終わった暗殺計画から三十七年たったこの時期に、陳氏が証言する気になったのは、単に歳月が流れたからではないようだ。その胸の内をこう吐露した。

 「来年三月の台湾総統選で国民党候補が現在の民進党から政権を奪還したら、台湾独立は永久に不可能になるかもしれない。七〇年当時も蒋介石・経国体制が続く以上、独立は到底望めないと考えていた。当時と同様の強い危機感を持ったことが、今回証言をしようと思い立った背景にある」


<メモ>蒋経国 1910年、中国浙江省生まれ。モスクワ中山大学卒。38年に国民党に入党。60年代以降、政治の表舞台に出て、国防部長や行政院長などを歴任。75年、蒋介石の死去に伴い、国民党主席に就任。78年総統。88年1月、現職のまま死去。民主化にも一定の理解を示し、87年には戒厳令を38年ぶりに解除した。

<デスクメモ> かつて台湾で取材したとき、日本人だと名乗るとあまりにちやほやされるので面食らった。現地の知人は「中国や韓国のように政策として日本を敵と想定していないからね」と当たり前のように説明したが、もしも暗殺計画が実現していたら、どうだったろうか。偶然の積み重ねが歴史をつくると実感する。 (充)

http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20070218/mng_____tokuho__000.shtml
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