関東防空大演習を嗤(わら)う・桐生悠々  1933(昭和8)年8月11日信濃毎日新聞

2013-08-13 20:59:51 | 社会
関東防空大演習を嗤う

桐生悠々

 防空演習は、曾て大阪に於ても、行われたことがあるけれども、一昨九日から行われつつある関東防空大演習は、その名の如く、東京付近一帯に亘る関東の空に於て行われ、これに参加した航空機の数も、非常に多く、実に大規模のものであった。
そしてこの演習は、AKを通して、全国に放送されたから、東京市民は固よりのこと、国民は挙げて、若しもこれが実戦であったならば、その損害の甚大にして、しかもその惨状の言語に絶したことを、予想し、痛感したであろう。
というよりも、こうした実戦が、将来決してあってはならないこと、またあらしめてはならないことを痛感したであろう。
と同時に、私たちは、将来かかる実戦のあり得ないこと、従ってかかる架空的なる演習を行っても、実際には、さほど役立たないだろうことを想像するものである。

 将来若し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ人心阻喪の結果、我は或は、敵に対して和を求むるべく余儀なくされないだろうか。
何ぜなら、此時に当り我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落すこと能わず、その中の二、三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。
そしてこの討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焼土たらしめるだろうからである。
如何に冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても、また平生如何に訓練されていても、まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすること能わず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るが如く、投下された爆弾が火災を起す以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである。
しかも、こうした空撃は幾たびも繰返えされる可能性がある。

 だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである。
この危険以前に於て、我機は、途中これを迎え撃って、これを射落すか、またはこれを撃退しなければならない。
戦時通信の、そして無電の、しかく発達したる今日、敵機の襲来は、早くも我軍の探知し得るところだろう。
これを探知し得れば、その機を逸せず、我機は途中に、或は日本海岸に、或は太平洋沿岸に、これを迎え撃って、断じて敵を我領土の上空に出現せしめてはならない。
与えられた敵国の機の航路は、既に定まっている。
従ってこれに対する防禦も、また既に定められていなければならない。
この場合、たとい幾つかの航路があるにしても、その航路も略予定されているから、これに対して水を漏らさぬ防禦方法を講じ、敵機をして、断じて我領土に入らしめてはならない。

 こうした作戦計画の下に行われるべき防空演習でなければ、如何にそれが大規模のものであり、また如何に屡しばしばそれが行われても、実戦には、何等の役にも立たないだろう。
帝都の上空に於て、敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。
壮観は壮観なりと雖も、要するにそれは一のパッペット・ショーに過ぎない。
特にそれが夜襲であるならば、消灯しこれに備うるが如きは、却って、人をして狼狽せしむるのみである。
科学の進歩は、これを滑稽化せねばやまないだろう。
何ぜなら、今日の科学は、機の翔空速度と風向と風速とを計算し、如何なる方向に向って出発すれば、幾時間にして、如何なる緯度の上空に達し得るかを精知し得るが故に、ロボットがこれを操縦していても、予定の空点に於て寧ろ精確に爆弾を投下し得るだろうからである。
この場合、徒らに消灯して、却って市民の狼狽を増大するが如きは、滑稽でなくて何であろう。

 特に、曾ても私たちが、本紙「夢の国」欄に於て紹介したるが如く、近代的科学の驚異は、赤外線をも戦争に利用しなければやまないだろう。
この赤外線を利用すれば、如何に暗きところに、また如何なるところに隠れていようとも、明に敵軍隊の所在地を知り得るが故に、これを撃破することは容易であるだろう。
こうした観点からも、市民の、市街の消灯は、完全に一の滑稽である。
要するに、航空戦は、ヨーロッパ戦争に於て、ツェペリンのロンドン空撃が示した如く、空撃したものの勝であり空撃されたものの敗である。
だから、この空撃に先だって、これを撃退すること、これが防空戦の第一義でなくてはならない。

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底本:「畜生道の地球」中公文庫、中央公論社
   1989(平成元)年10月10日発行
底本の親本:「畜生道の地球」三啓社
   1952(昭和27)年7月
初出:「信濃毎日新聞」
   1933(昭和8)年8月11日
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WIKIから

1933年(昭和8年)8月11日、折から東京市を中心とした関東一帯で行われた防空演習を批判して、悠々は社説「関東防空大演習を嗤ふ」を執筆する。
同文中で悠々は、敵機の空襲があったならば木造家屋の多い東京は焦土化すること、被害規模は関東大震災に及ぶであろうこと、空襲は何度も繰り返されるであろうこと、灯火管制は近代技術の前に意味がないばかりか、パニックを惹起し有害であること等、12年後の日本各都市の惨状をかなり正確に予言した上で、「だから、敵機を関東の空に、帝都の空に迎へ撃つといふことは、我軍の敗北そのものである」「要するに、航空戦は...空撃したものの勝であり空撃されたものの負である」と喝破した
この言説は陸軍の怒りを買い、長野県の在郷軍人で構成された信州郷軍同志会が信濃毎日新聞の不買運動を展開したため、悠々は同9月に再び信濃毎日の退社を強いられた。

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桐生悠々の社説から80年 コオロギの声に耳を澄ませば/西日本新聞

■月のはじめに考える■
 
 社会が大きく変化するときは、しばしばその前兆となるような事件が起きるものです。今から80年前、長野県で起きた出来事も、その後の日本の行く末を暗示するものでした。

 1933(昭和8)年8月11日、長野県で発行する信濃毎日新聞に「関東防空大演習を嗤(わら)う」と題する社説が掲載されました。書いたのは主筆の桐生悠々(ゆうゆう)(1873~1941)です。

 その2日前から陸軍は首都圏への空襲を想定した大規模な防空演習を、市民も参加させて実施していました。悠々はこの演習を「かかる架空的なる演習を行っても、実際にはさほど役に立たないだろう」と批判したのです。

 悠々はこの社説で「敵機の爆弾投下は、木造家屋の多い東京を一挙に焦土にする」と予想し、「敵機を東京の空に迎え撃つことが敗北そのものだ」と断じて、むしろ制空権の保持に全力を尽くすよう訴えています。

 「嗤う」という見出しは確かに挑発的ですが、よく読めば感情的な批判ではなく、軍事の常識や航空科学を踏まえた論理的な指摘だと分かります。

 しかし、軍はこの社説に怒りました。そして、その意を受けた在郷軍人組織の信州郷軍同志会が、信濃毎日新聞に悠々の解任と謝罪を求め、不買運動を叫んで圧力をかけます。

 当時の同紙の社長らは懐の深い人物でしたが、経営を揺るがしかねない圧力に困窮します。信州郷軍同志会の会員数は、同紙の発行部数を大きく上回る大勢力だったのです。悠々は結局、会社と社長に迷惑をかけるのを避けるため、社を辞めることになります。

 悠々は現在では、福岡日日新聞(西日本新聞の前身)の主筆だった菊竹六皷(ろっこ)とともに、反軍部の論陣を張った気骨の新聞人とうたわれています。

 しかし、悠々と信濃毎日新聞の敗北に終わったこの事件は、日本が言論統制を強め、無謀な戦争へと突き進む転機の一つだったように思えます。

 ▼異論をたたく風潮

 悠々のことが気になるのは、最近のわが国で外交や防衛をめぐる議論の風潮に、当時を連想させるような息苦しさを感じるからです。

 現在、日本はロシア、韓国、中国との間で、領有権に関わる問題を抱えています。北朝鮮の核開発や中国の軍備増強もあって、日本と周辺国とのあつれきは強まっています。

 そうした中で、特に領土や歴史に絡む議論では、日本の立場や権益を絶対視する発言が勢いを増し、それに異論を唱えれば四方から攻撃される-そんな雰囲気ができつつあります。

 相手国の立場を少しでも理解するような姿勢を示そうものなら、「国益」を盾に批判され、「売国奴」など乱暴な言葉を浴びせられることさえあります。冷静な議論とは程遠い態度です。

 例えば、沖縄県・尖閣諸島をめぐる議論について見てみましょう。

 政府の見解は「尖閣は歴史的にも国際法上も日本固有の領土。中国との間に領有権問題は存在しない」です。

 しかし、丹羽宇一郎前駐中国大使は、両国が危機管理の話し合いの場を持つため「外交上の係争はあると認めるべきだ」と主張しています。

 また、日中国交正常化を成し遂げた田中角栄元首相の薫陶を受けた野中広務元官房長官は「国交正常化の時に、領有権棚上げの合意があったと聞いている」と発言しました。

 2人とも、厳しいバッシングにさらされています。確かに、両国の主張の違
いと対立が拡大した現段階では、外交上そのまま採用することは難しい「異論」でしょう。でも、衝突の回避を最優先する2人の意見が、全く聞く価値のない「暴論」とは思えません。

 ▼選択肢を狭めるな

 戦前の日本社会は、国際情勢が厳しさを増すにつれ、悠々が唱えたような「異論」を排除し、国論を強硬策で一本化していきました。悠々への圧力が不買運動だったように、言論統制は権力と一般国民との共同作業でした。

 そもそも、どうして社会には「異論」が必要なのでしょうか。

 国や社会が、経験則で対応できない新たな事態に直面したときには、できるだけ多くの選択肢をテーブルに並べ、議論と熟慮のうえで、間違いのない道を選ばなければなりません。

 冷戦終結後、大国になった中国と向き合う日本外交は、未知の時代に入っています。こんなとき、政府と違う意見を最初から除外していたら、選択肢を狭めてしまいます。国論を統一しないと不利、と考える人もいるでしょうが、得てして一枚岩は危ういのです。

 長野を去った悠々は、個人誌で軍批判を続け、太平洋戦争開始の3カ月前に亡くなりました。その3年半後、東京は大空襲を受け、悠々が予言した通り、無残な焦土と化しました。悠々の社説は「正論」だったのです。

 信濃毎日新聞には、悠々が使っていたとされる古い机が残っています。同社を訪れ、その机に触れたとき、悠々が残した句を思い起こしました。

 「蟋蟀(こおろぎ)は鳴き続けたり嵐の夜」

 暴風がコオロギの声をかき消す-そんな世の中にはしたくないものです。

=2013/08/01付 西日本新聞朝刊=
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/syasetu/article/30365


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