原発の指さし男 そのままでいいのかい? /高橋源一郎

2011-09-30 02:05:45 | 社会
真っ白な放射線防護服を着て顔面をマスクで覆い隠した男が、無言で、こちらを指さし続けている……。こいつは誰? いったい、なにを訴えているんだ。

 8月末、福島第一原発の固定監視カメラの前に、突然映ったこの映像は、大きな話題となった。その後、「指さし男」本人がネット上に登場し(〈1〉)、過酷な環境下で働く原発作業員の実態を知ってもらいたくてやったのだと告白したけれど、彼が指さしたものは、もっとちがうなにかだったようにぼくには思えた。



 あの「指さし」は、パフォーマンスアートの創始者のひとりヴィト・アコンチの模倣だといわれている。パフォーマンス(アート)は、ふつうの芸術とは異なり、時に強い政治性を帯びる。いま話題のバンクシーのように。

 バンクシーは、イギリスの匿名グラフィティ(落書き)アーティストだ。彼は、警戒の目を盗んで、いずこからともなく現れ、建物の壁にメッセージ性の強い落書きを描き、すぐに立ち去る。キスし合う男の警官たち、立ち小便する儀仗(ぎじょう)兵、火炎瓶や石ではなく花束を投げる暴徒(?)。そして、彼の「作品」は公共の景観を害するものとしてたちまち消されてゆく。でも、バンクシーはこういう。

 「街をマジに汚しているのは、ビルやバスに巨大なスローガンをなぐり書きして、僕らにそこの製品を買わないかぎりダメ人間だと思い込ませようとする企業のほうだ」(〈2〉)

 「街をマジに汚している」連中に反論するために、バンクシーは、反撃の武器として壁を選ぶ。そして、ついには「国際法に照らせばほとんど違法」なイスラエルが占領地パレスチナに作りつつある巨大な壁に落書きするために出かけてゆく。狙撃兵のライフルに狙われることを承知で。

 グラフィティアートを毛嫌いする人の理由ははっきりしている。自分がおとなしく従っている秩序に反抗する人間が疎ましいのだ。自分みたいにおとなしくいうことを聞け、と思うからだ。それは、デモを嫌う人たちの気持ちと似ている。

 「指さし男」は、その「指さし」で、こういおうとしたのかもしれないな。

 「そこのあんた、そのままでいいと思ってんの? そんな遠くから見てるばかりじゃなにも変わりはしないよ」って。

 バンクシーや「指さし男」みたいな、政治的な(パフォーマンス)アートは、時に、ひどいしっぺ返しを食らう。

 9・11同時多発テロ直後、ドイツの現代音楽家シュトックハウゼンは、あのテロを「アートの最大の作品」と褒めたたえたとして凄(すさ)まじいバッシングに出会った(中沢新一の『緑の資本論』〈〈3〉〉に詳しい)。

 それは別の意味で「事件」だった。彼がその前後でしゃべった「破壊のアートの、身の毛もよだつような効果」や「間違いなく犯罪」といったことばは意図的に削られ、彼の意図とは正反対の意味を持つものとして、その発言は流通していった。そのことをマスメディアは知っていたのに無視したんだ。そこには、世界を多面的に見ようとするアートのことばと、単純で図式的なマスメディアのことばのすれ違いがあった。いや、もしかしたら、自分たちのいいたいことを自由に発言する芸術家への、無意識の嫉妬がそこにあったのかもしれない。

 鉢呂前経産相が、原発事故の後、住民が避難して無人となった町の様子を見て「死の町のようだ」といって批判され(もう一つ、「放射能つけちゃうぞ」発言もあるが、この報道経緯も謎めいている)、たちまち辞任に追い込まれた時、ぼくは、この「シュトックハウゼン事件」を思い出した。その少し前、ぼくも鉢呂さんとほぼ同じところに行き、「こういうの死の町っていうんだね」と呟(つぶや)いたばかりだったんだ。あんな程度で辞任させられるわけ? 意味わかんない……。

 この「言葉狩り」としかいいようがない事件の後、東京新聞は社説でこう訴えた(〈4〉)。

 「自戒を込めて書く。メディアも政治家も少し冷静になろう。考える時間が必要だ。言葉で仕事をしているメディアや政治家が、言葉に不自由になってしまうようでは自殺行為ではないか」

 「震災」の後、どこかで、ボタンのかけ違いが起こってしまったんだろうか。正しさを求める気持ちが突っ走り、その結果、逆に「正しさ」の範囲を狭めて、息苦しい社会が作られつつあるのかもしれない。だとするなら、「指さし男」のメッセージは、「そうやって、あなたたちは、誰かを指さし、攻撃しているけれど、一度その指を自分に向けてみてはどうだい?」なんだろうか。

 原発事故を科学技術の歴史の中に位置づけてみせた山本義隆は、『海底二万里』のヴェルヌが、別の近未来小説の中で、科学技術の粋を集めた人工島が人間関係のもつれによって崩壊することを描いたことに触れ、「科学技術が自然を越えられないばかりか、社会を破局に導く可能性のあることを、そしてそれが昔から変わらぬ人間社会の愚かしさによってもたらされることを、はじめて予言した」と書いている(〈5〉)。どれほど科学技術が進歩しようと、それを扱う人間の愚かしさは今も昔も変わらない。そして、そのことにだけは、人は気づかないのである。

 「指さし男」が、ぼくたちに向かってその「愚かしさ」を指さすまでは。

     ◇

 たかはし・げんいちろう 1951年生まれ。明治学院大学教授。エッセー「ノダさんの文章」をPR誌「本の時間」10月号(毎日新聞社)に寄稿。小説「恋する原発」を群像11月号で発表予定。

     ◇

〈1〉http://pointatfuku1cam.nobody.jp/

〈2〉『BANKSY』(パルコ、今年7月刊行)

〈3〉『緑の資本論』(ちくま学芸文庫)

〈4〉「自由な言葉あってこそ」(9月20日付)

〈5〉『福島の原発事故をめぐって』(みすず書房)

*2011.9.29朝日新聞朝刊「論壇時評」


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