歴史は繰り返す   大江健三郎 2011年3月28日/ニューヨーカー

2011-03-30 16:46:41 | 社会
HISTORY REPEATS   by Kenzaburo Oe MARCH 28, 2011 
 
歴史は繰り返す   大江健三郎 2011年3月28日 
 
By chance, the day before the earthquake, I wrote an article, which was published a few days later, in the morning edition of the Asahi Shimbun. The article was about a fisherman of my generation who had been exposed to radiation in 1954, during the hydrogen-bomb testing at Bikini Atoll. I first heard about him when I was nineteen.  
 
私は偶然にも、地震の前日に朝日新聞の朝刊に載せるための原稿を書いていました。 
 
それは数日後に掲載するための原稿であったのですが、私は1954年にビキニ環礁で水爆実験に遭遇し放射能にさらされた漁師についてを書いていたのです。 
 
私がその話をはじめて聞いたのは十九歳の頃でした。 
 
Later, he devoted his life to denouncing the myth of nuclear deterrence and the arrogance of those who advocated it.  
 
彼はのちに、核抑止力の神話とそれを提唱した人たちの横暴について非難することに、生涯を捧げます。 
 
Was it a kind of sombre foreboding that led me to evoke that fisherman on the eve of the catastrophe?
 
大震災の前日に、ビキニ環礁の漁師についてを思い起こさせるようにし向けたのは、一種の深刻な虫の知らせだったのでしょうか。 
 
He has also fought against nuclear power plants and the risk that they pose. 
 
彼はまた原子力発電所がもたらすリスクに反対して戦っていました。 
  
I have long contemplated the idea of looking at recent Japanese history through the prism of three groups of people: those who died in the bombings of Hiroshima and Nagasaki, those who were exposed to the Bikini tests, and the victims of accidents at nuclear facilities. 
 
私は現代の日本の歴史を強く彩っている三つの地域に居た人々について、長く熟考していました。 
 
ヒロシマとナガサキで原子爆弾によって亡くなられた人々、ビキニ環礁での核実験に遭遇した人々、原子力発電所での事故の犠牲者たち。 
 
If you consider Japanese history through these stories, the tragedy is self-evident.  
 
もしあなたがこれらの話を通じて、日本の歴史を考慮すれば、悲劇は自明です。 
  
Today, we can confirm that the risk of nuclear reactors has become a reality. 
  
今日、私たちは原子炉の危険が現実のものになったことをはっきりと認めることができます。 
 
However this unfolding disaster ends?and with all the respect I feel for the human effort deployed to contain it?its significance is not the least bit ambiguous: 
  
どのようにして、この次々に明らかになってゆく惨劇は終わるのでしょうか。そしてそれを抑えるために配置された、私が敬意を表する人間の努力はどうなるのでしょうか。その意味は全くあいまいではありません。 
 
Japanese history has entered a new phase, and once again we must look at things through the eyes of the victims of nuclear power, of the men and the women who have proved their courage through suffering.

日本の歴史は新しい局面に入りました。そうして今再び、私たちは原子力の犠牲者となり、苦しみの中にあった人々の勇気あるまなざしを通じてものを見なければなりません。 
 
The lesson that we learn from the current disaster will depend on whether those who survive it resolve not to repeat their mistakes. 
 
私たちが現在の災害から学ぶべき教訓は、これから生き延びる人々が同じ過ちを繰り返さないと決意するかどうかによるのです。 
 
This disaster unites, in a dramatic way, two phenomena: Japan’s vulnerability to earthquakes and the risk presented by nuclear energy.  
 
この災害は二つの劇的な現象によって結びつけられます。日本が地震に弱く、また原子力発電所がもたらす危険性が高いということです。 
  
The first is a reality that this country has had to face since the dawn of time.  
  
一つめは、この国の歴史がはじまって以来、直面し続けなければならなかった現実のものです。 
 
The second, which may turn out to be even more catastrophic than the earthquake and the tsunami, is the work of man.  
 
地震と津波よりもさらにいっそう大惨事を導きかねない、第二の惨事は、人間がもたらすものです。 
 
What did Japan learn from the tragedy of Hiroshima?  
 
日本はいったい、ヒロシマの惨事から何を学んだのでしょうか? 
 
One of the great figures of contemporary Japanese thought, Shuichi Kato, who died in 2008, speaking of atomic bombs and nuclear reactors, recalled a line from “The Pillow Book,” written a thousand years ago by a woman, Sei Shonagon, in which the author evokes “something that seems very far away but is, in fact, very close.” 
 
現代の偉大な批評家の一人、加藤周一(1919年 – 2008年)は、原子爆弾と原発について話す時に、清少納言の「枕草子」から言葉を引用しました。「遠くて近きもの」これは千年以上前に書かれたものです。 
 
Nuclear disaster seems a distant hypothesis, improbable; the prospect of it is, however, always with us.  
 
原子力災害は、ありそうもない遠い仮説に思われます。しかしながら、それは常に私たちと共にあるのです。  
 
The Japanese should not be thinking of nuclear energy in terms of industrial productivity; they should not draw from the tragedy of Hiroshima a “recipe” for growth. 
 
日本人は核エネルギーを産業効率優先で考えるべきではありません。ヒロシマの悲劇を“成長のための秘法”としてとらえてはならない。 
 
Like earthquakes, tsunamis, and other natural calamities, the experience of Hiroshima should be etched into human memory: it was even more dramatic a catastrophe than those natural disasters precisely because it was man-made.  
 
地震や津波や他の自然がもたらす災難のように、ヒロシマの経験は人間の記憶の中にエッチングで描かれるべきものです。それはまさに人工的な大惨事であるからこそ、自然災害よりもさらにいっそう酷いものであった。 
 
To repeat the error by exhibiting, through the construction of nuclear reactors, the same disrespect for human life is the worst possible betrayal of the memory of Hiroshima’s victims. 
 
原子炉の製造において過ちを繰り返すことは、ヒロシマの犠牲者たちを裏切る、最悪の人命軽視です。 
 
I was ten years old when Japan was defeated. The following year, the new Constitution was proclaimed. 
 
日本が敗戦をむかえたころ、私は十歳でした。次の年、あたらしい日本国憲法が公布されました。 
 
For years afterward, I kept asking myself whether the pacifism written into our Constitution, which included the renunciation of the use of force, and, later, the Three Non-Nuclear Principles (don’t possess, manufacture, or introduce into Japanese territory nuclear weapons) were an accurate representation of the fundamental ideals of postwar Japan.  
 
何年ものちに、私は軍事力行使の放棄を謳った憲法九条を含む私たちの憲法に記された平和主義と、のちの非核三原則(核兵器をもたず、つくらず、もちこませず)が、戦後日本の基本的理念のまぎれもない代表であったかどうかを自問し続けました。 
 
As it happens, Japan has progressively reconstituted its military force, and secret accords made in the nineteen-sixties allowed the United States to introduce nuclear weapons into the archipelago, thereby rendering those three official principles meaningless. 
 
偶然にも、日本は次第に再軍備し、そして1960年代に交わされた秘密協定によってアメリカ合衆国が核兵器を沖縄に持ち込むことを許し、非核三原則を無意味にしてしまいました。 
 
The ideals of postwar humanity, however, have not been entirely forgotten. 
 
戦後の人道的理想は、しかしながら完全に忘れ去られたものではありません。 
 
The dead, watching over us, oblige us to respect those ideals, and their memory prevents us from minimizing the pernicious nature of nuclear weaponry in the name of political realism.  
 
死者は私たちを見守り、私たちに彼らの理想を尊重することを義務づけます。死者の記憶は、私たちが政治的現実主義の名のもとに、核兵器の有害性を矮小化してみせることを拒絶します。  
 
We are opposed. Therein lies the ambiguity of contemporary Japan: it is a pacifist nation sheltering under the American nuclear umbrella. 
 
私たちは、二律背反の世界にいます。そこにはアメリカの核の傘の下に守られている平和主義国である現代日本のあいまいさが横たわっています。 
 
One hopes that the accident at the Fukushima facility will allow the Japanese to reconnect with the victims of Hiroshima and Nagasaki, to recognize the danger of nuclear power, and to put an end to the illusion of the efficacy of deterrence that is advocated by nuclear powers. 
 
一つの望みは、福島原子力発電所での事故をきっかけとして、日本人が再びヒロシマとナガサキの犠牲者たちと心を通わせ、原子力の危険性を認識し、そして核保有国によって提唱されている核抑止力という幻想を終わらせることです。 
 
When I was at an age that is commonly considered mature, I wrote a novel called “Teach Us to Outgrow Our Madness.” 
 
私が成熟した年齢であったとき、私は“われらの狂気を生き延びる道を教えよ”という本を書きました。 
 
Now, in the final stage of life, I am writing a “last novel.” 
 
今、レイトワークの小説として“last novel.”を執筆しています。
 
If I manage to outgrow this current madness, the book that I write will open with the last line of Dante’s Inferno: “And then we came out to see once more the stars.”  
  
もし、私がどうにかして狂気の時代を生き延びえたのならば、その本の第一文にはダンテ《地獄》最終行に記された“かくてこの處をいでぬ、再び諸々の星をみんとて”という一文から始まる小説となるでしょう。 

http://m.newyorker.com/talk/2011/03/28/110328ta_talk_oe

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nonukeMLから
歴史は繰り返す     大江 健三郎 
(出典 THE NEW YORKER 3月28 2011)佐原 (山本) 由衣訳

偶然にも私は地震の前日、数日後の朝日新聞の朝刊に掲載された記事を書いていた。その記事は1954年のビキニ環礁における水爆実験で被爆した、私と同世代の漁師に関する記事だった。私が初めて彼のことを聞いたのは私が19歳の時で、後に彼は核抑止力神話とそれを支持する人々の高慢さを非難することに彼の生涯を捧げた。あの大惨事の間際にその漁師を思い起こすことになったのは一種の虫の知らせだったのだろうか。彼はまた原子力発電所とそれがもたらす危険性とも闘った。私は日本の近代史を3つのグループの人々の目を通して見るという考えに熟慮を重ねて来た。広島や長崎への爆撃で亡くなった人々、ビキニ環礁の水爆実験で被爆した人々、そして核施設の事故で犠牲になった人々である。これらの話を通して日本の歴史考えると、悲劇は分かりきっている。今日、私たちは原子炉の危険性が現実になったのを確信することができる。次々に明らかになる惨劇がどの様に終わろうとも、それを阻止しようと展開する人々の努力に敬意を表するが、この災害の深刻さはこれっぽっちも不明瞭ではない。日本の歴史は新たな局面に入った。そしていま一度、我々は原子力の犠牲になった人々の視点から、苦しみながらも勇気を示してきた男性たちや女性たちの視点から、物事を見なければならない。現在の震災から何を学ぶかは、この震災を生き延びる人々が過ちを繰り返さないと決意するかどうかにかかっているのだ。

 この震災は、劇的な方法で2つの事象を結びつけている。日本の地震に対する脆弱性と、
核エネルギーによる危険性に対する脆弱性である。前者はこの国が太古の昔から直面してこなければならなかった現実である。後者は、地震や津波によりもさらに壊滅的であることがあきらかになるであろう、人間の仕事である。日本は広島の悲劇から何を学んだのか?2008年に亡くなった現代の日本の偉大な思想家の一人、加藤周一は、原子爆弾と原子炉について、千年前に清少納言という女性によって書かれた「枕草子」の一節を引き、「とても遠くにあるように見えるものも、実際にはとても近い」ものだと言っている。核の悲劇も、遠く非現実的な仮説に見えるかもしれない。しかしながらその可能性は常に我々の身近にある。日本人は核エネルギーを
工業的な生産性という意味において考えるべきではない。広島の悲劇から経済成長の「レシピ」など引き出すべきではない。地震、津波、そしてその他の自然災害のように、広島の経験は人類の記憶に深く刻まれるべきである。人の手で生み出されたからこそ自然災害よりもはるかに悲劇的なのである。原子炉を建設することで人の命を軽視して過ちを繰り返すのは、広島の犠牲者の記憶に対する、これ以上ないほど酷い裏切り行為である。

 日本が戦争に負けた時私は10歳だった。その翌年新しい憲法が公布された。その後何年にもわたって、私は我々の憲法に明記された、戦力の不保持や後の非核三原則(もたず・作らず・持ち込ませず)を含む平和主義が、戦後日本の基本的な理念の正しい表象たり得ているかを自問し続けてきた。日本は次第に再軍備をし、1960年代の密約でアメリカ合衆国が列島に核兵器を持ち込むことが可能になったため、あいにく非核三原則は無意味になってしまったが、戦後の人間の尊厳の理念は完全に忘れられたわけではない。亡くなった人々は我々がそうした理念を尊重するように目を光らせているし、亡くなった人々の記憶は我々が政治的現実主義の名のもとで核兵器の破滅的な性質を過小評価するのを妨げている。我々は対立している。その中に現在の日本の曖昧さがある。この国はアメリカの核の傘に守られて避難している平和主義者国家なのだ。この国は福島原発の事故で、日本人が再度、広島や長崎の犠牲者と連帯し、核の危険性を認識して、核の賛成派が提唱する核抑止力の効率性の幻想を払拭することが望んでいる。

 一般的に成熟したと見なされる年齢に私が至った時、『我らの狂気を生き延びる道を教えよ』という小説を書いた。いま晩年に差し掛かり、私は『最後の小説』を書いている。私がこの狂気を何とか生き延びることができれば、その本の冒頭でダンテの『神曲』の最後の一節、「そして我々はもう一度星々を見るために外に出た」を引くつもりである。

*2011 3月28日 THE NEW YORKER コラム TOKYO POSTCARD 
 大江 健三郎 氏が ご執筆なさっている 記事を 娘が和訳いたしました。
 私達が 共有してきた気持ちですが、多くの人にこのコラムを読んでいただきたい
のです。
稚拙な日本語ですが、長女 が訳しました。 どうか 新しい日本が生まれること、
過去に生きた 核の犠牲者への鎮魂のためにも この思いを更に 広め 共有して
頑張りましょう。 (科学的なことが多い MLにごめんなさい)

 佐原 (山本) 若子


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