今号は、前々号の補足として、教育基本法の肝である「不当な支配」って何だ?という確認の再録。これを読めば、最近俄然盛り上がってきた「教師の免許を更新せよ」って話も、相当危険なお話だってことがわかるって寸法よ。
■■メールマガジン「PUBLICITY」No.1493 2006/10/27金■■
■「不当な支配」をするのは公権力
まず、「教育行政」について定められた、現行の教育基本法第
10条をみてみませう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に
責任を負って行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに
必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
あらためて、見慣れた人には見慣れた、見たことない人はまっ
たく知らない文言ですナ。
この項目について、ぼくは1355号で書いた。
【「不当な支配」とは、政治的支配と官僚的支配だ】と。
そして、
【教育行政は、教育内容にまで介入してはならない】──教育
行政は、教育の「条件の整備確立」に限定されなければならな
い、と。
これに対してブログには、「非常に恣意的というか、はっきり
申し上げれば曲解であると思います」というコメントが付いた。
このコメントを書いた人の主張は、「教育基本法で書かれてい
る『不当な支配』とは、日教組による支配を意味しているのだ
」という「よくある意見」に連動するものだ。
しかし、こうした「支配観」こそが恣意的な意見であり、曲解
そのものである。その根拠を示そう。
▼1947年1月15日に文部省が作成した「教育基本法案」
には、明記されている。
「教育は、不当な政治的または官僚的支配に服することなく、
国民に対し、独立して責任を負うべきものである」と。
「不当な政治的または官僚的支配」。
これは(後述するが)、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部
)の教育政策を担当した民間情報教育局(CIE)と、文部省
とのやりとりの中で、付け加えられた文言だ。
結局、「政治的」「官僚的」の語は、施行された法律には残ら
なかった。しかし、「不当な支配」が「政治的」「官僚的」支
配を意味していることは、明々白々の事実であった。
さらに、「不当な支配」には「軍部による支配」の意味合いま
で含まれていた。
なぜ、そういえるのか。幸い、幾つもの証拠がある。
▼教育基本法制定前後につくられたと推定される「教育基本法
説明資料」は、第十条「教育行政」の項目について、次のよう
に解説している。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(「教育行政」の)第二項は、教育行政のあり方を示したもの
である。即ち教育行政は右の如き教育が国民に直接に責任を負
うものであるとの自覚をもって、国民の意思と教育者を尊重し
、【教育内容に干渉することなく】、教育の目的を遂行するに
必要な諸条件の整備確立を目標として行はれなければならない
と謳っている。
(従来教育は【軍官等の不当な支配】に服してきたが、今後は
又政治的な不当な支配に服することが考えられるし、不当な支
配に服することなくと謳った。然し教育者の独善はあってはい
けないので、教育は国民全体の意志を体し国民全体に対する責
任を負って行はれなければならない)
『資料 教育基本法50年史』p584/【】は竹山
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ここには「軍官等の不当な支配」とはっきり書いてある。
▼また、教育基本法が成立した直後に、文部省内の「教育法令
研究会」という部局が、『教育基本法の解説』という本をつく
っている。監修は文部省調査局長の辻田力と東大教授の田中二
郎。
その中には、戦前の教育行政制度について、次のような記述が
ある。【】内に注目。繰り返すが、これは文部省の役人が携わ
った文章である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
この制度(戦前の教育行政制度=竹山の註)は、地方の実情に
即する教育の発達を困難ならしめるとともに、教育者の創意と
くふうを阻害し、ために教育は画一的形式的に流れざるをえな
かった。
【又この制度の精神及びこの制度は、教育行政が教育内容の面
にまで立ち入った干渉をなすことを可能にし、遂に時代の政治
力に服して、極端な国家主義的又は軍国主義的イデオロギーに
よる教育・思想・学問の統制さえ容易に行われるに至らしめた
制度であった。】
更に地方行政は、一般内務行政の一部として、教育に関して十
分な経験と理解のない内務系統の官吏によって指導されてきた
のである。このような教育行政が行われるところに、はつらつ
たる生命をもつ、自由自主的な教育が生まれることは極めて困
難であった。
堀尾輝久『教育基本法はどこへ』p122/【】は竹山
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
戦争中、教育行政が教育内容に立ち入った。それは誤りだった
と、文部省が認めていたのである。
▼さらに挙げよう。敗戦直後に文部省学校教育局長をつとめ、
1946年5月から第1次吉田茂内閣の文部大臣を務めた田中
耕太郎(その後、最高裁長官)は、教育基本法制定から10年
以上経って、「不当な支配」についてこう書いている。これも
【】内に注目。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「不当な支配」というのは何を意味するのであろうか。……こ
の規定に「教育行政」という言葉がついている以上は、これは
国および地方公共団体という、
【教育についての公の権力を行使する権限をもっているものが
対象になっていることは疑いがない】。
文部省や教育委員会の処置であるからといって、不当な支配に
ならないとはいえない。(中略)国会であっても、教育に対す
る不当な支配をおよぼすような法律を制定する場合があり得な
いわけではない。
田中耕太郎『教育基本法の理論』昭和36年/【】は竹山
宗像誠也編『改訂新版 教育基本法』p274から
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
▼まだあるけど、これで十分だろう。上の引用で、2つのこと
が明らかだ。
1:「不当な支配」とは明らかに公権力の支配であり、
2:教育行政は教育内容に介入してはならない。
不当な支配を行う主語は、公権力以外にありえないのである。
そもそも教育基本法は、「教育の憲法」「憲法の附属法」とも
言われてきた。そのことの意義が、第10条に結晶している。
繰り返そう。教育基本法に定められた「不当な支配」の主体と
は、公権力にほかならず、教育基本法は、本来、憲法が「国家
に対する命令」であるのと同様に、まさしく「公権力に対する
命令」の意味合いが強いのである。
■国民への直接責任〜「教育権」の独立
▼さて、ブログのコメント欄には、このような批判もあった。
「教育行政が教育内容に介入できないのであれば、現場は何を
教えても良い事になります。教師が著しい危険思想を吹き込ん
でも構わない、そんな状況を回避する手段がありません」と。
確かに、教育行政が教育内容に介入出来ないのであれば、教師
がやりたい放題できるように映る。しかし、これも違う。教育
基本法を読めば、この主張もまるで論拠のないものだとわかる。
▼「教師の独善」の危険性は、制定当時から考え抜かれていた
。ゆえに第10条では、「不当な支配に服することなく」と合
わせて、
【国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである】
という文言が書かれたのである。
この、「直接」の一言に、重要な意味と願いが込められている。
しかし、法律の文言だけを眺めていても、いまいちわかりにく
い。解きほぐそう。
▼といっても簡単な話で、この「国民全体に対し直接に責任を
」云々の箇所では当初、「独立して責任を負うべき」という案
もあったのである。
つまり、「教育は公権力から独立しているべきだ」というので
ある。
この「独立」というキーワードで補助線を引けば、「国民全体
に対し直接に責任を」の、「直接に」、の持つ重要性が浮き彫
りになるだろう。
▼一つ、文書を引用しよう。
教育基本法制定当時の文部官僚がつくった「予想質問答弁書」
という資料に、この「直接に」の意義が簡潔に示されている。
【】内に注目。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
官僚、政党その他の不当な支配乃至は教育者の独善は大いに戒
めなければならないのであって、教育が直接国民に対し責任を
負って行われなければならないと云う所以であり、
【教育と国民の意志との間に不当な夾雑物があってはならない
】のである。
然して国民の意思は常に教育に反映されなければならず、国民
の公正な意志に基づく正当な支配に教育が服すべきは当然であ
る。かくして、ここに所謂
【教権の独立を強調すると共に教育者の独善を戒めているので
ある。】
第92回帝国議会に於ける予想質問答弁書
文部省調査局/1947年3月12日
『資料 教育基本法50年史』p420/【】は竹山
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
▼教育は公権力(の不当な支配)から独立しなければならない
。同時に、国民に対して直接責任を持たねばならない。
いわば、「教育権の独立」──これが、教育基本法第10条に
は定められているのである。これは、あらためて思うけど、画
期的な考えではなかろうか。
ともあれ、教育基本法は教師の独善を決して認めていない。
教育全体が公権力の「不当な支配」に服さない=【教育の政治
権力からの独立が保たれている】という前提の上で、教育は、
「国民全体に対し直接責任を」持たねばならない。
もう、たやすく想像出来るだろう。このような内容を、到底呑
むわけにはいかない人々がいるのだ。
与党案では、いまみてきた、現行法に定められている「国民全
体への責任」は見事に削除された。そして本当は、「不当な支
配」も削除したい。自分にかけられている歯止めを、全て外し
てしまいたいのだ。
▼で、だ。重要なことは、いま確認してきた「不当な支配」の
本義ではなく、「不当な支配」という文言を外さなくても──
前々号で書いたとおり──「他の法律で定めるところにより」
の一言が入ることによって、教育行政は、教育内容に対して、
「やりたい放題」になるのである。
だから、「不当な支配」という文言が残ったって、文科省とし
ましては、一向に構わない。痛くも痒くもないわけだ。そんな
もの、「他の法律」によって形骸化しちまうからね。
ここんところが、教育基本法改悪の肝であり、ホシだ。と、思
うわけだ。
たとえば教師の免許更新にしたって、更新する側は何を基準に
、何を根拠に判断するのか、ってことさ。
あぶねえ、あぶねえ。
http://takeyama.jugem.cc/?eid=676
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■■メールマガジン「PUBLICITY」No.1493 2006/10/27金■■
■「不当な支配」をするのは公権力
まず、「教育行政」について定められた、現行の教育基本法第
10条をみてみませう。
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教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に
責任を負って行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに
必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
あらためて、見慣れた人には見慣れた、見たことない人はまっ
たく知らない文言ですナ。
この項目について、ぼくは1355号で書いた。
【「不当な支配」とは、政治的支配と官僚的支配だ】と。
そして、
【教育行政は、教育内容にまで介入してはならない】──教育
行政は、教育の「条件の整備確立」に限定されなければならな
い、と。
これに対してブログには、「非常に恣意的というか、はっきり
申し上げれば曲解であると思います」というコメントが付いた。
このコメントを書いた人の主張は、「教育基本法で書かれてい
る『不当な支配』とは、日教組による支配を意味しているのだ
」という「よくある意見」に連動するものだ。
しかし、こうした「支配観」こそが恣意的な意見であり、曲解
そのものである。その根拠を示そう。
▼1947年1月15日に文部省が作成した「教育基本法案」
には、明記されている。
「教育は、不当な政治的または官僚的支配に服することなく、
国民に対し、独立して責任を負うべきものである」と。
「不当な政治的または官僚的支配」。
これは(後述するが)、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部
)の教育政策を担当した民間情報教育局(CIE)と、文部省
とのやりとりの中で、付け加えられた文言だ。
結局、「政治的」「官僚的」の語は、施行された法律には残ら
なかった。しかし、「不当な支配」が「政治的」「官僚的」支
配を意味していることは、明々白々の事実であった。
さらに、「不当な支配」には「軍部による支配」の意味合いま
で含まれていた。
なぜ、そういえるのか。幸い、幾つもの証拠がある。
▼教育基本法制定前後につくられたと推定される「教育基本法
説明資料」は、第十条「教育行政」の項目について、次のよう
に解説している。
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(「教育行政」の)第二項は、教育行政のあり方を示したもの
である。即ち教育行政は右の如き教育が国民に直接に責任を負
うものであるとの自覚をもって、国民の意思と教育者を尊重し
、【教育内容に干渉することなく】、教育の目的を遂行するに
必要な諸条件の整備確立を目標として行はれなければならない
と謳っている。
(従来教育は【軍官等の不当な支配】に服してきたが、今後は
又政治的な不当な支配に服することが考えられるし、不当な支
配に服することなくと謳った。然し教育者の独善はあってはい
けないので、教育は国民全体の意志を体し国民全体に対する責
任を負って行はれなければならない)
『資料 教育基本法50年史』p584/【】は竹山
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ここには「軍官等の不当な支配」とはっきり書いてある。
▼また、教育基本法が成立した直後に、文部省内の「教育法令
研究会」という部局が、『教育基本法の解説』という本をつく
っている。監修は文部省調査局長の辻田力と東大教授の田中二
郎。
その中には、戦前の教育行政制度について、次のような記述が
ある。【】内に注目。繰り返すが、これは文部省の役人が携わ
った文章である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
この制度(戦前の教育行政制度=竹山の註)は、地方の実情に
即する教育の発達を困難ならしめるとともに、教育者の創意と
くふうを阻害し、ために教育は画一的形式的に流れざるをえな
かった。
【又この制度の精神及びこの制度は、教育行政が教育内容の面
にまで立ち入った干渉をなすことを可能にし、遂に時代の政治
力に服して、極端な国家主義的又は軍国主義的イデオロギーに
よる教育・思想・学問の統制さえ容易に行われるに至らしめた
制度であった。】
更に地方行政は、一般内務行政の一部として、教育に関して十
分な経験と理解のない内務系統の官吏によって指導されてきた
のである。このような教育行政が行われるところに、はつらつ
たる生命をもつ、自由自主的な教育が生まれることは極めて困
難であった。
堀尾輝久『教育基本法はどこへ』p122/【】は竹山
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
戦争中、教育行政が教育内容に立ち入った。それは誤りだった
と、文部省が認めていたのである。
▼さらに挙げよう。敗戦直後に文部省学校教育局長をつとめ、
1946年5月から第1次吉田茂内閣の文部大臣を務めた田中
耕太郎(その後、最高裁長官)は、教育基本法制定から10年
以上経って、「不当な支配」についてこう書いている。これも
【】内に注目。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「不当な支配」というのは何を意味するのであろうか。……こ
の規定に「教育行政」という言葉がついている以上は、これは
国および地方公共団体という、
【教育についての公の権力を行使する権限をもっているものが
対象になっていることは疑いがない】。
文部省や教育委員会の処置であるからといって、不当な支配に
ならないとはいえない。(中略)国会であっても、教育に対す
る不当な支配をおよぼすような法律を制定する場合があり得な
いわけではない。
田中耕太郎『教育基本法の理論』昭和36年/【】は竹山
宗像誠也編『改訂新版 教育基本法』p274から
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
▼まだあるけど、これで十分だろう。上の引用で、2つのこと
が明らかだ。
1:「不当な支配」とは明らかに公権力の支配であり、
2:教育行政は教育内容に介入してはならない。
不当な支配を行う主語は、公権力以外にありえないのである。
そもそも教育基本法は、「教育の憲法」「憲法の附属法」とも
言われてきた。そのことの意義が、第10条に結晶している。
繰り返そう。教育基本法に定められた「不当な支配」の主体と
は、公権力にほかならず、教育基本法は、本来、憲法が「国家
に対する命令」であるのと同様に、まさしく「公権力に対する
命令」の意味合いが強いのである。
■国民への直接責任〜「教育権」の独立
▼さて、ブログのコメント欄には、このような批判もあった。
「教育行政が教育内容に介入できないのであれば、現場は何を
教えても良い事になります。教師が著しい危険思想を吹き込ん
でも構わない、そんな状況を回避する手段がありません」と。
確かに、教育行政が教育内容に介入出来ないのであれば、教師
がやりたい放題できるように映る。しかし、これも違う。教育
基本法を読めば、この主張もまるで論拠のないものだとわかる。
▼「教師の独善」の危険性は、制定当時から考え抜かれていた
。ゆえに第10条では、「不当な支配に服することなく」と合
わせて、
【国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである】
という文言が書かれたのである。
この、「直接」の一言に、重要な意味と願いが込められている。
しかし、法律の文言だけを眺めていても、いまいちわかりにく
い。解きほぐそう。
▼といっても簡単な話で、この「国民全体に対し直接に責任を
」云々の箇所では当初、「独立して責任を負うべき」という案
もあったのである。
つまり、「教育は公権力から独立しているべきだ」というので
ある。
この「独立」というキーワードで補助線を引けば、「国民全体
に対し直接に責任を」の、「直接に」、の持つ重要性が浮き彫
りになるだろう。
▼一つ、文書を引用しよう。
教育基本法制定当時の文部官僚がつくった「予想質問答弁書」
という資料に、この「直接に」の意義が簡潔に示されている。
【】内に注目。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
官僚、政党その他の不当な支配乃至は教育者の独善は大いに戒
めなければならないのであって、教育が直接国民に対し責任を
負って行われなければならないと云う所以であり、
【教育と国民の意志との間に不当な夾雑物があってはならない
】のである。
然して国民の意思は常に教育に反映されなければならず、国民
の公正な意志に基づく正当な支配に教育が服すべきは当然であ
る。かくして、ここに所謂
【教権の独立を強調すると共に教育者の独善を戒めているので
ある。】
第92回帝国議会に於ける予想質問答弁書
文部省調査局/1947年3月12日
『資料 教育基本法50年史』p420/【】は竹山
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
▼教育は公権力(の不当な支配)から独立しなければならない
。同時に、国民に対して直接責任を持たねばならない。
いわば、「教育権の独立」──これが、教育基本法第10条に
は定められているのである。これは、あらためて思うけど、画
期的な考えではなかろうか。
ともあれ、教育基本法は教師の独善を決して認めていない。
教育全体が公権力の「不当な支配」に服さない=【教育の政治
権力からの独立が保たれている】という前提の上で、教育は、
「国民全体に対し直接責任を」持たねばならない。
もう、たやすく想像出来るだろう。このような内容を、到底呑
むわけにはいかない人々がいるのだ。
与党案では、いまみてきた、現行法に定められている「国民全
体への責任」は見事に削除された。そして本当は、「不当な支
配」も削除したい。自分にかけられている歯止めを、全て外し
てしまいたいのだ。
▼で、だ。重要なことは、いま確認してきた「不当な支配」の
本義ではなく、「不当な支配」という文言を外さなくても──
前々号で書いたとおり──「他の法律で定めるところにより」
の一言が入ることによって、教育行政は、教育内容に対して、
「やりたい放題」になるのである。
だから、「不当な支配」という文言が残ったって、文科省とし
ましては、一向に構わない。痛くも痒くもないわけだ。そんな
もの、「他の法律」によって形骸化しちまうからね。
ここんところが、教育基本法改悪の肝であり、ホシだ。と、思
うわけだ。
たとえば教師の免許更新にしたって、更新する側は何を基準に
、何を根拠に判断するのか、ってことさ。
あぶねえ、あぶねえ。
http://takeyama.jugem.cc/?eid=676
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