卍 応無所住而生其心 卍

仏教に関すること、お寺の行事、法話…

菩薩になろう

2016年12月07日 | 法話関係
「菩薩」というと、観音菩薩や地蔵菩薩、文殊菩薩や普賢菩薩などを想像するかと思います。
そもそも「菩薩」というのは「ボーディ・サットヴァ」を漢字に移したもので、意味は「さとり・衆生」で、「覚りを求める人」「仏性を持った人」などの意味があると言われます。

そのような優れた心を完璧に実現した状態を、たとえば観音菩薩や地蔵菩薩として理想的に表現しています。それらの菩薩たちは、覚りや仏性、また心やいのちが目に見えないように、私たちの目には見えない存在ですが、必ずおられます。菩薩たちが今ここにおられると信じて手を合わせることによって、必ず心の目で見ることが出来るようになります。

ちなみに「仏・如来」というのは、菩薩を産み出す源で、菩薩が枝なら仏は幹です。根っこには、宇宙すべての根元である大日如来がおられます。

ところで、「菩薩」には、もうひとつの意味があります。
8世紀の学僧にハリバドラという人がいますが、彼は菩薩をこう定義します。

「菩薩とはさとりへの志願、という意味である。自分の利益であるさとりを求め、無執着に心が向けられている。また、大士というのは利他に徹底的に志願する者のことを言う」

大士というのは「大いなる衆生」という意味で、「菩薩大士」というように言います。最初に言った「観音菩薩」なども、正確には「観音菩薩大士」だと思ってください。

つまり、菩薩というのは、「覚りを求めて修行し、利他を行う志がある者」ということです。
覚りを求めるだけだと、慈悲がなく自己中心です。自分だけ楽になろうとするようなものです。利他だけなら、盲者が盲者の手を引いて穴に落ちてしまいます。
だから、この「自利と利他」をどちらも併せて「そうしよう」と誓ったものが、菩薩と言われるのです。
それを完成したら観音菩薩や地蔵菩薩ですが、私たちも、初心の菩薩にはなれます。菩薩の条件は、そう「誓って生きる」ことだからです。

具体的にどう生きるかということですが、それは仏教の修行をして生きるということです。

そうは言っても、どうしていいかわからないかも知れませんが、自利は「手を合わせ自分の心を整えて、怒りや貪りや執着の無意味さを考えること」が基本です。そうして、安定した平安な心になります。智慧の心です。
利他は、一に供養・回向です。縁のあったすべての者に、自分の善行の結果を受け取ってもらうことです。善因楽果・悪因苦果と言いますが、その「楽果」を振り向けて送ることです。これは亡くなった人にだけではなく、生きている者同士でも分け隔てなく出来るものです。慈悲の心です。

そうやって、自利と利他の志を誓い、その上でしっかり助け合って生きていこうと思えば、その人は既に初心の菩薩と呼ばれます。
更に精進して、ともに立派な菩薩になることを目指して、少しずつ歩んで参りましょう。

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