卍 応無所住而生其心 卍

仏教に関すること、お寺の行事、法話…

雪山遭難

2016年12月07日 | 仏教・思索
人生は雪山で遭難するようなものだ。

崖や急斜面、一面の吹雪と低温、多少の食料と遭難仲間が心の支え。
前方は視界不良、岩陰に避難して一時、眠る。
時々は晴れ間も覗くものの、かと言って進む道はわからない。
昏睡して花園の夢幻に遊んだとしても、一瞬の後には雪に伏す我を見つける。

さて、その時に別の遭難者がやって来た。
「私も道を失った、ともに歩こう」と。
それは一時、心強く感じるかも知れない。
多少の食料も持っているようだ。

しかし、状況そのものは変わりはしない。
早晩、死ぬのである。

「同じ目線で」語ることを言う僧侶は、ともに遭難しているだけではないか?

さて。
遠くから声が聞こえる。
「この道を行けば助かるぞ」、と。
その声に従って、滑落することもあろう。
耳を澄ますと、四方八方から幻聴が聴こえる。

それを僕たちはどうやって識別しようか。
これは、山の知識だ。
それがあれば、遭難していても、ある程度はわかってくる。
仏教の勉強は、こういうときに必要になる。
そちらに歩き続ければ、きっと助かるだろう。

しかしそうは言っても、歩けないこともある。

そこにレスキューが来た!

ザイルを担いで、ここまで来てくれた。

彼は、遭難地点にいることは、僕たちと同じだ。
しかし、現在地点の認識と、救助の知識と、道と、志がある。
彼の励ましと応急治療とともに、彼が踏み固めた道を歩く。

同じ場所の者でも、遭難者とレスキューでは、やはり意味が違うのだ。

僧侶の「同じ目線で」とは、こういうことだ。
ともに遭難していてはいけない。
救助するために、必死に学び訓練し、雪山に踏み込む。
菩薩とは、こういうことではないか。
レスキューの装備が、法衣袈裟の意味ではなかったか。

レスキューは万能ではない。

しかし、手を尽くす姿に人は安心し、
たとえそこで死んでも、きっと納得はしてくれる。
ひとりでも救う、その姿こそが、僕たちの義務じゃないだろうか。
救うというのは、食料の供給じゃない、
無意味な希望的観測でごまかすことでもない。

立ち上がり、目を開き、進む勇気を持っていくことじゃないか。

確かに僕たち僧侶もある意味では遭難しているのだけれど、
地図もあり、道も知っており、如来の力を知っている。
それがここで実は背中を支え、包み込んでくださっていることをも。
それでもって、僕たちは道を踏み固める方法があることも知っている。

はじめはうまく固められなくても、方法論は知っているはずだ。

ともに歩こう。

手を取り合って滑落するためじゃなく、助かるために。
夢幻の中に救いはなく、ヘリは待っているだけだと、きっと来ないものだ。



そうして、「助かってから」後ろを振りかえると…なんと一歩も進んでおらず、
雲ひとつないヒマラヤンブルーの空が輝いているだけ。
レスキューも救助者も誰もおらず、抜けるような青に、
助けられた自分、助けた自分という者も貫かれてしまうだけ。

そういうものは、なかった。
これこそが、大夢大幻であったことだと。

眼底にはただ、ただなる青。
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