当寺の本尊は、薬師如来です。
薬師如来といえば現世利益が注目されがちで、確かにそういう人の願いも受け止めていかなくてはならないわけですが、しかし根本はやはり「三毒煩悩(貪り・怒り・愚かさ)の病を調伏すること」、これに尽きます。
諸行無常である限り、体の病はいつかは受け入れなくてはならないし、人の命には限りがあります。天寿は如何ともし難い。釈尊も他の覚者・先師・諸菩薩の方々も、皆、その道を歩まれて、形色の身体を去りゆかれました。
では、薬師如来の真の御利益とは何か。
それは、三毒煩悩の病をこそ超克して如来蔵一大海を覚し、もって現世に菩薩行を生きる者となることです。諸々の現実的な病を癒す等等という資生の誓願も、結局はその「菩薩行を生きる者となる」為の勝方便と受け止めなくてはなりません。
「祈った、癒された」…それだけでは、無意味です。
「祈った、仏性を感じた、信じた、他者の仏性を拝む…あぁ、自他不二だったのか」。現世利益を通して、本当の実相に目覚めることこそ肝要です。そして真剣な祈りは、必ず、そこに到達します。それが「信」です。
具体的な癒し・現世利益ついてはその後に来る筈のものです。現実に不思議な「しるし」があり、病が癒えることもあります。しかし事ここに至った時、その人の利益観は劇的な変容を遂げていることでしょう。
繰り返しますが、単なる現世利益は、ただそれだけのことです。
本質をしっかりと見極め、自分自身の本有の仏性をこそ覚すべく祈りの生活をしたいものです。
毎朝の勤行時に読み上げている表白があります。
………………………………………………………………………………
勤行表白之文
夫れ惟みるに、福楽寺御本尊・薬師瑠璃光如来の御誓願に、衆生の諸難諸病を除き、現世に資生を施すとあれば、当寺檀信徒並びに本日参詣の諸人の、無明による三毒煩悩の病を離れ、薬師如来勝方便の御光をもって、身体健全・厄難消除・所願成就せん事、また先祖代々の諸霊得脱をも祈り奉る。
観行之文に曰く、
能所一切の有為法は、無常かつ無我にして、不断に生滅する波の如きも、其の波底には一大海あり。我は無尽の大乗法門を修学し、諸の善巧方便もて、無明の波に浮沈する苦悩の衆生を救拔して、倶に不一不二の一大海を覚さん。
乃至法界平等利益 敬白
薬師如来といえば現世利益が注目されがちで、確かにそういう人の願いも受け止めていかなくてはならないわけですが、しかし根本はやはり「三毒煩悩(貪り・怒り・愚かさ)の病を調伏すること」、これに尽きます。
諸行無常である限り、体の病はいつかは受け入れなくてはならないし、人の命には限りがあります。天寿は如何ともし難い。釈尊も他の覚者・先師・諸菩薩の方々も、皆、その道を歩まれて、形色の身体を去りゆかれました。
では、薬師如来の真の御利益とは何か。
それは、三毒煩悩の病をこそ超克して如来蔵一大海を覚し、もって現世に菩薩行を生きる者となることです。諸々の現実的な病を癒す等等という資生の誓願も、結局はその「菩薩行を生きる者となる」為の勝方便と受け止めなくてはなりません。
「祈った、癒された」…それだけでは、無意味です。
「祈った、仏性を感じた、信じた、他者の仏性を拝む…あぁ、自他不二だったのか」。現世利益を通して、本当の実相に目覚めることこそ肝要です。そして真剣な祈りは、必ず、そこに到達します。それが「信」です。
具体的な癒し・現世利益ついてはその後に来る筈のものです。現実に不思議な「しるし」があり、病が癒えることもあります。しかし事ここに至った時、その人の利益観は劇的な変容を遂げていることでしょう。
繰り返しますが、単なる現世利益は、ただそれだけのことです。
本質をしっかりと見極め、自分自身の本有の仏性をこそ覚すべく祈りの生活をしたいものです。
毎朝の勤行時に読み上げている表白があります。
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勤行表白之文
夫れ惟みるに、福楽寺御本尊・薬師瑠璃光如来の御誓願に、衆生の諸難諸病を除き、現世に資生を施すとあれば、当寺檀信徒並びに本日参詣の諸人の、無明による三毒煩悩の病を離れ、薬師如来勝方便の御光をもって、身体健全・厄難消除・所願成就せん事、また先祖代々の諸霊得脱をも祈り奉る。
観行之文に曰く、
能所一切の有為法は、無常かつ無我にして、不断に生滅する波の如きも、其の波底には一大海あり。我は無尽の大乗法門を修学し、諸の善巧方便もて、無明の波に浮沈する苦悩の衆生を救拔して、倶に不一不二の一大海を覚さん。
乃至法界平等利益 敬白










