卍 応無所住而生其心 卍

仏教に関すること、お寺の行事、法話…

イラン的

2016年10月19日 | 仏教・思索
「インド学仏教学」と言うように、仏教というのはインドの思想・宗教世界を基盤として成立展開してきたことは確かです。そういう意味で、バラモン教・ウパニシャッドから六派哲学、現代のヒンドゥー教を視野にした研究や研鑽は非常に重要で、かつ理由のあることです。
また、日本の場合は漢訳仏教世界で、儒教や道教や神道などとの関係性も考察されるべきでしょう。

しかし、こと「大乗仏教」ということを考えたとき、「西方」というものがあまりにも看過されてしまっているような気がします。あるいは、「ユーラシア」というべきか。

大乗仏教の理念や考え方の枠組みというものには、無視できないレベルでイラン的な思想があります。このイラン的な思考回路は、たとえばイスラームにおいても特異な流れを形成しています。そして中央アジアにおいてかつて大乗仏教が、そしてイスラームが仏教を駆逐して浸透した背景には、この「イラン的なるもの」の力がとても強かったのではないかと思うんです。
結局、中央アジアはイラン文化圏であり、大乗仏教であれイスラームであれ、実は基盤の思考回路はそう変わっていない…という、なんとなくの感触が、僕にはあります。

中国・インド・アラブという屹立した文化圏のみを取り扱う場合、確かにそれぞれの宗教文化は違いが目立つのですが、それらすべてを繋ぎ合わせる中央アジアの大動脈地域において、それらを融合させる「見えない」巨大な「もうひとつの精神世界」が、古代から現代まで厳然と存在しているのではないか。
それらをある時期に構造化したものが、西域仏教であり、イスラームシーア派であり、スーフィズムであり。

中国においての仏教認識はインド的であるとともに、実はその本質は「イラン的」な部分がかなり大きかったのではないかと。日本の正倉院においての伝来物は、果たしてインド的なのか、イラン的なのか。

大乗仏教というのは、そういう巨大な間文化的な息吹を、インドを母体にしつつも更に時空を拡大して受容発展させてきた、そんな体系なのではないだろうかと思います。
これは、「大乗は便宜主義で混乱した思想だ」というのではなく、却って逆で、特定の文化圏に限定された「言語分別認識レベル」にとどまらず、多様な現象をそれはそれとして受け入れつつも、その源底に「言語を超えた巨大な言語分別できない真理の光」を体感的に獲得する、という方向を濃厚に保つものであり、ある意味で「特定の文化的宗教」が、真に「普遍的な宗教」になり得た(なり得る)その秘密なのではないかと。

となると、大乗仏教の理想を極限まで考察する場合、インド思想はそれはそれとしてもちろん重要ですが、同時に、もしかしてそれ以上に、イラン的な思想…今はそれはシーア派やスーフィズムに体現されているのでしょうが、それの考察こそ大切になっては来ないでしょうか。
井筒俊彦は、個別の宗教のドグマを超えた「東洋の哲学」の基層的同一性を探求せんとしましたが、大乗仏教の立場としても、それはとても大切な視点なのではないだろうかと、思われるんです。
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