大乗仏教主義!

諸大乗経顕道無異
大乗仏教法師のブログ
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土砂加持終了!

2012年03月30日 | 寺のこと
当山の土砂加持法会がなんとか無事に終わりました。

次の行事は4月10〜11日の「お大師まいり」&「正御影供法会」です。

お大師まいりは、秋穂88か所霊場の巡礼者がこの2日間に集中しますので、彼らへのお接待を一日中、本堂前で行います。うちの境内には札所が複数ありますので、メインとサブと、2箇所でお接待を行います。そのお接待用の「お供物」作りを明日から始めますが、一応2500個ほど制作します。プラス、子供用の駄菓子300用意。
2日目の4月11日の午後には、一番札所の大師寺さんで、地区の結衆寺院総出で正御影供を行います。私の今年の配役は中曲。

正御影供が終わったら本覚的な春になり、すぐにまた大好きな夏が来ます。
夏は大好き。早く夏になって欲しいものです。
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誕生日に読経

2012年03月21日 | 仏教・思索
中国・宋代には、(生きている)父母の誕生日に僧侶を招いて読経してもらう…という習慣があったそうな(道端良秀『日中仏教友好二千年史』)。もちろん中国的な「孝」観念の帰結としてのそれでしょうが、「読経=死者供養」という固定観念が蔓延している日本ではこういう話を檀家さんに紹介するだけで、ちょっとはイメージ変化に役立つかな…と思いますね。よくよく考えたら「降誕会」なんてやってるわけだし。
そもそも読経の意義って、みんなわかっていないのだから、これをきっかけに説明してみるとか。止観行という側面、教説を記憶・学習して行くと言う側面、観想の段階での他者(亡者も含む)への働きかけの側面…。第三の側面を呪術的に曲解したような観念が、まぁ、一般的なところでしょうけれども。
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桂林

2012年03月09日 | 漢詩文・古典
桂林。一度は行ってみたい。
桂林は広西チワン族自治区にありますが、現在じゃもちろん漢族が多数派。60%。下の詩には桂林=殊郷(異郷)とありますが、今ではどの程度「異郷」であるのか…。
それにしても「東南通絶域」とはどこだろう。桂林の東南は広東方面。確かに当時、発展は中原より遅れてはいても…絶域は言い過ぎのような(-_-;)
多分、中国では西北から東南に天地が傾斜しているという観念があったので、目線は下に下に…広東ではなくて、その先の海原の果て・東海の果て(海南島かも)の事かなぁ。


桂林  李商隠

城窄山將壓 江寛地共浮
東南通絶域 西北有高樓
紳護青楓岸 龍移白石湫
殊郷竟何禱 簫鼓不曾体


 城は窄く 山将に圧せんとし
 江は寛く 地共に浮ぶ
 東南 絶域に通じ 西北 高楼有り
 紳は護る 青楓の岸 竜は移る 白石の湫
 殊郷 竟して何をか禱る 簫鼓 曾て休まず
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根本大乗戒

2012年03月03日 | 仏教・思索
根本大乗戒

勝鬘経義疏に曰く「小乗の戒法は但、身口のみを制して心を制せずも、大乗の戒法は身口心一体の菩薩戒法なり」云々。
大乗法門は居士仏教を正道とするが故に、法師信人ともに小乗の比丘戒法を用いず。此の根本大乗戒は菩薩乗通戒にして大乗戒法の総てなり、十善戒・四無量心・六波羅蜜を出ず。ただ授戒受戒の便の為に三聚浄戒に配して建立する耳。


【摂律義戒】
対自止悪、智慧を得ん為の根本十善戒を摂律義戒と為す。

・不殺生戒 
故意に有情を殺さず、また害心を捨す。
・不偸盗戒 
窃盗せず、他の所有・地位について羨望せず。
・不邪淫戒 
配偶者を最良の法友と為し、他を憶念せず。
・不妄語戒 
偽り諂曲を述べず。
・不綺語戒 
虚飾の言を為さず。
・不悪口戒 
悪口を為さず。
・不両舌戒 
両舌詐欺の言を為さず。
・不慳貪戒 
所得のものに非所有心を念ず。
・不瞋恚戒 
自他に恚心を起さず。
・不邪見戒 
大乗法門に遊離した説を捨す。 

【摂衆生戒】
対他行善、四無量心の菩薩行道を摂衆生戒と為す。

『大智度論』に曰く
「四無量心者慈悲喜捨
慈名愛念衆生常求安隠楽事以饒益之
悲名愍念衆生受五道中種種身苦心苦
喜名欲令衆生従楽得歓喜
捨名捨三種心但念衆生不憎不愛
修慈心為除衆生中瞋覚故
修悲心為除衆生中悩覚故
修喜心為除不悦楽故
修捨心為除衆生中愛憎故」云々。

【摂善法戒】
身命財を擲ちて正法を護持するを摂善法戒と為し、六波羅蜜(施戒忍進禅慧)これなり。
六波羅蜜の大要は『起信論』に説く如し。
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土砂加持法会

2012年02月26日 | 寺のこと
本年度も、秋穂結衆寺院より助法を頂き、恒例になっております土砂加持法会を行います。法会では滅罪生善の功力の甚大な土砂(葬儀時に棺に入れて故人の滅罪と菩提の助けとし、また守護物として日日に持することで福寿増長を期するものです)を加持し、同時に檀家各位の位牌堂に祀られている御先祖様に霊膳を供え、また卒塔婆をもって供養いたします。
どうぞ皆様ご参詣いただき、御自身の御先祖様に思いを馳せるとともに、福楽寺御本尊・薬師瑠璃光如来との結縁の機会とされますよう…。

期日 3月30日(金)
  ・正午頃〜 … 昼食の接待 
  ・午後1時10分〜 … 法話
  ・午後2時〜 … 土砂加持・卒塔婆供養
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弘法大師の詩

2012年02月15日 | 漢詩文・古典
弘法大師というと、どうも偉すぎるというか、著作が理論的なものばかりで難解、人間味があまり感じられない…という声をたまに聞きます。
確かに日蓮聖人などの、和文による「湿気のある」文章や書簡がそれほど残されているわけでもなく、ほとんど漢文しかも美文調ですから、現代の私たちにとっては尚更、遠く感じてしまうのも仕方ありません。
しかしもちろん、弘法大師も「情なき人」であるはずはありません。それを彷彿させる歌をひとつ、紹介します。若かりし頃、唐・長安での一首。遠く日本を思い、また唐にある自分の姿をしみじみと思う心が伝わるような詩です。イメージされがちな難解華麗な文字ではなく、きわめて率直明快な文字を使用しています。
小山は築山、本国は日本、漢家は唐、花は牡丹。昶法和尚は、不明です。

在唐観昶法和尚小山  空海

看竹看花本国春
人声鳥哢漢家新
見君庭際小山色
還識君情不染塵


  唐にありて昶法和尚の小山を観る  空海

  竹を看 花を看れば本国の春なれど
  人の声 鳥の哢 漢家に新し
  君が庭際たる小山の色を見るに
  還た識る 君が情の塵に染まらざるを
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今生の仕事

2012年02月04日 | 仏教・思索
最近、人と関わりたい・話をしたい・社会に参画したいと言う欲求がますます減退して来ました(政治や社会問題を外野から高みの見物…ってのは好きですけど)。まぁ、昔からそういう傾向はありましたが、ここのところそれが昂進してるような。
最低限の社会生活だけ営んで、あとは隠遁しちゃえば個人的には楽になれて良いなぁと思いつつ、しかし大乗仏教者としてはどうなのかと。そこが悩みどころです(-_-;)
時流に乗れず、引き籠り体質で、あらゆる「つきあい」は御免蒙る、本だけ読んでればいい…という社会不適応者の私ですので、多分、大乗仏教者としては失格に近いのでしょう。ただまぁ、幸いなことに人間自体が嫌いということでもないですし、仏教の話をするのだけは相変わらず好きなので、つまり私の「仕事」はそこなんだろうな、と。
勉強して、実践して、伝える。
時代遅れと言われても、需要がないと言われても、地味に修行し、しつこく勉強し、飽きずに繰り言の如く話していく。私自身の行も学も絶望的に不十分で、これでいったいに何を話すのかと悲しくなる時もあるのですが、どうせこれしか出来ないわけだし、今生の時間もあるだけしかないわけですから、まぁ、コツコツやることにします。
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三蔵の義

2012年02月01日 | 仏教・思索
唐代の円敬という僧侶の『唐故宝応寺上座内道場臨壇大律師多宝塔并序』という長ったらしい題目の本に、「三蔵」を解説した文があります。

三蔵に三義あり。
内は定慧戒を為し、外は経律論を為し、
陀羅尼を以て之を総摂す。


簡潔至極ですが、とても素晴らしい文です。
まず、三蔵法師と呼ばれた歴史上の偉大な僧は、単にそれが学解にとどまるものであれば偽者(あるいは半端者)であり、およそ「真実の三蔵法師」たるものは、学解のみならず持戒・修行実践を踏まえて智慧を把持した者である筈だ…という事です。
往々にして偉大な仏教学者が偉大な仏者でない場合があるのも、まさに「戒定慧」を兼備していないところにその原因があるのでしょう。
もちろん一方で、「戒定慧」を具備していても「経律論」を軽んじてそれに通じていないなら、「吾ただ独り」の行者としては良くとも、決して大乗の法師とは言えません。法師とはまさに、「言葉によって他者に正法を説く者」の謂いですから。
いずれにしても、理論と実践の相即がここに示されています。

最後の「陀羅尼を以て之を総摂す」の部分、これは密教の基本的な考え方に連なるものですが、念仏にしても座禅にしても題目にしても、あるいは他の様々な修行にしても、専一にまた至心にそれらを実践する「事」のうちにこそ慧が立ち上るのである…という事が根本だと思いますから、そういう意味では通大乗仏教的な思想として読んでもいいと思います。

短い文章ですが、味わい深いですねぇ。
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犀の角

2012年01月31日 | 閑話休題
同じ心ならん人と、しめやかに物語して、をかしきことも、世のはかなき事も、うらなくいひ慰まんこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違はざらんと向かひゐたらんは、ひとりあるここちやせん。
たがひに言はんほどの事をば、「げに」と聞くかひあるものから、いささか違ふ所もあらん人こそ、「我はさやは思ふ」など、あらそひにくみ、「さるから、さぞ」ともうち語らはば、つれづれ慰まめと思へど、げには、すこしかこつかたも我とひとしからざらん人は、大方のよしなしごと言はんほどこそあらめ、まめやかの心の友には、はるかに隔たる所のありぬべきぞ、わびしきや。

〜徒然草・第十二段〜
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3年先の目標

2012年01月30日 | 仏教・思索
国訳一切経や新国訳大蔵経。
いくら国訳とは言え、今の私ではこれらを現代語と同様にスラスラ読む…というわけにはいかない。どうしても理解するにはそれ相応の時間がかかります。
そもそも仏典に限らないけれど、経書にしても史書にしても、漢籍というものは背景知識が命ですから、スラスラ読めない原因のひとつは私の知識不足にあるのは間違いありません。そういう意味で、周辺知識の不足が痛く、悲しい。
同様に、訓読体のリズムや規則が血肉になっていない…というのも問題。

なるべく必要な知識を十全に身につけて、現代語と同程度のストレスで国訳を読みこなせるようになりたいものです…というわけで、「3年以内に国訳仏典を読むストレスを現代語並にする」という目標を立てました。
もちろん仏典ですから、小説みたいに読めるわけではないのですが、少なくとも現代語の専門書を読むのと同程度にはしたい。そうしないと、いちいち読むのに時間がかかって結局は死ぬまでに何ひとつまともに読めなかった…となりかねませんから…。
そのためには、基礎的な漢文のお浚いも含めて訓読体のリズムと流れをもっと体に馴染ませていくことと、仏教教理・専門知識の蓄積。このふたつを改めて徹底してやっていきたいな…と。
これが出来るようになれば、儒道史書その他の漢籍の学習にも資するわけだし、とにかく3年間は地道にコツコツ頑張って行きたいと思います。今まで以上に。
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