卍 応無所住而生其心 卍

仏教に関すること、お寺の行事、法話…

世界観

2017年02月16日 | 仏教・思索
キリスト教やイスラームにおいて、改宗した自分は天国だとして、異教徒の父母兄弟はどうなるのか、地獄なのか、という問題があります。戦国時代にキリシタンに対する疑問のひとつがこれでした。先祖が皆、救われないなら孝に悖るのではないかと考え、キリシタンになることを拒否した、ということもあったようです。
現代でも事情は同じで、恐らく「神は愛だから、委ねましょう」というのが関の山で、これ以上のことは言えないと思います。

仏教では、メインラインは善業悪業により輪廻するから、仏教を知らなくても善業あらばそれなりに相応しい境涯に至り、生まれ変わり死に変わりして、そのうちに機が熟せば仏法に出会うと考えるので、そこまで問題にはならないわけです。
また別に、例えば日蓮聖人の『盂蘭盆御書』においては、自分がしっかり信心して霊山浄土の身になれば、この体は父母の体により出来ているのだから、まさに自分によって父母また七代の父母子孫も成仏されるのだ、という考えが表明されています(若干、情緒に過ぎるかと思いますが、書簡だから仕方ないでしょう)。

どれが正しいか、という話ではありません。不信仰者は善人でもすべて地獄だ、というのが真実である可能性はあるでしょう。人間の情緒によって真理が左右されるわけでもないのですから。
要は、ある人が信じる世界観がその人にとっての真実であると言うしかなく、客観的に「世界観を共有しない者」には、かの「真理」は事実か虚偽か以前に、端的に無意味なんです。

信仰を異にする父母や兄弟、先祖に対してどう考えるか。あなたが妥当だと思う道を選んでください。しかし、それは外部には通じないし、また強制させることもできない。根源を問わない現象分析の領域の「科学」で云々もできない。
それはしっかりと理解をしなくてはならないと思います。
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善悪

2017年02月07日 | ★法話関係
弘法大師の言葉に、こういうものがあります。

珠を持てば善念生じ 剣を把れば殺心の器   …宗秘論

「数珠を持てば善き心が生じ、剣を持てば殺そうという心が生じる」という意味です。
たとえば、お金がない時はみんな仲良く暮らしていても、思わぬ大金が手に入って家族が崩壊する、仲が悪くなることはよくある話で、思わぬ「お金」が転がり込んで、「自分のものにしたい」という欲を起こし、そこからどんどんおかしくなり、心が荒み、トラブルが起きます。
逆に、ちょっとした心遣いですべてが良く回り始めることもあります。

結局、人間の心は環境に左右されます。心が強ければ問題ない、というわけにもいきません。環境をまず、善きものに整えていくことが大切です。また、悪い環境から心を守るために、具体的に環境を改善するための行動をしていく気持ちも大切です。
心と環境、心と行為というものは表裏一体です。連動しています。また、その根本には「動機」が大切です。動機が正しければ、善い環境をしっかり活かし、悪い環境を変えていけるものです。

弘法大師はまた仰せになります。

悪を断ずるが故に苦を離れ 善を修するが故に楽を得 
下は人天より上は仏果に至るまで 皆これ断悪修善の感得する所なり
   …秘蔵宝鑰


「悪因苦果・善因楽果は事実であり、この世や天の世界、仏の世界に至るまで、すべてに通じる絶対の真理である」ということです。

本日は「厄除け薬師」です。
厄除け、あるいは祈願全般にそうですが、燕の子が口を開けて餌を待つような気持では祈りは通じません。必ず、ひとりひとりの「善き心を持とう」という動機が重要です。この気持ちがあるところに、仏様の加持の力が現れてきます。
そして皆さんで一緒に祈ることも大切で、これは互いの祈りの力を結び合わせて「融通」し合うことです。20人で5回唱えたら、各々100回唱えた功徳になります。こうやって力を合わせて、利他の心を持ちながら生きていくことで、仏様の加護のもとで自然に厄は消滅していくのです。
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成人式に寄せて

2017年01月09日 | ★閑話休題
成人式、おめでとうございます。
本人だけじゃなくて、きっと両親が一番、感慨深くこの日を迎えたのだろうと思います。

一言、つまらない言葉かも知れませんが、坊主の戯言を贈らせてください。

……………………………………………………………………………………

これから生きていくためには、金は大事。

肩書きってのも、大事。

知識も大事。

社会はくだらない…そりゃそうかも知れない。
打算的なオトナは嫌い…それもよくわかります。

でも、これからはそんな社会で生きてかなきゃなんない。

金や肩書き、知識ってのは、やっぱ大事なんだよね。

金はなきゃ食えないし、家にも住めない。
肩書きも意外に大事なもんで、「肩書はいらない」って言っても、そもそも肩書きってのは他人が貼り付けてくれたりするもんだから、誰にだってついて回る。ついて回る以上、スムーズに生きるためには、そりゃ何かしら適当な肩書きってのはあったほうがいいわけで。
知識もなきゃないで、何をどうしていいかわかんなくなった時、知識が助けになったりする。

金も肩書も知識も、生きていくためにはすごく大事。
だから、それを求めること自体が悪いってわけじゃない。

ただ、金・肩書き・知識ってのは、「生きるために必要」なものであって、「生きることそのもの」じゃない。それを忘れちゃいけない。「生きることそのもの」がわかんなきゃ、いくら金や肩書きや知識があったって、そんなもんは意味がない。

「生きること」を補助するのが金や肩書きや知識なんであって、所詮はそれだけのもんだ。死ぬときには、そんなもん抱えて死んでいけるわけじゃない。死んだ後にまで突き抜けてずっと続いていくもの、それをしっかりと見極めていくことが「生きる」ってことだから。

別に「仏教」の話じゃない。
仏教徒なら仏教徒なりの「答え」ってのがあるのかも知れない。クリスチャンならクリスチャンなりに。それはそれで、ひとつの答えだ。「生きることそのもの」へのダイレクトな図面を、そういうものは持っている。
けど、別に宗教とかなくったって、「生きることそのもの」をちゃんと考えて見つめて格闘して生きていく、歩いていくことは絶対に大切なことは変わらない。そして「生きることそのもの」は、絶対に「金・肩書き・知識」と同じじゃない。

もっともっと、もっと、それはパッションに満ちていて、涙が出て来るようなものだ。

具体的な答えは人それぞれかもしれないけれど、これからの人生、「生きるために必要」なものをしっかりと活かすためにも、まず「生きることそのもの」の美しさや深さを味わって行きましょう!
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光の生活

2017年01月07日 | ★法話関係
あけましておめでとうございます。

ニュースを見ると去年はいろいろな事件や出来事があり、なかなか落ち着いた毎日、というわけに行かないですが、今年は少しでも良い社会になることを祈ります。

それぞれの生活にも色々とあるとは思いますが、平穏に、恙なく毎日が過ごせるようにしたいものです。
起ってしまう出来事、たとえば病気やケガ、人間関係のトラブルなど避け難いものもたくさんありますが、そういうことが起こった時にどう考えるか、それが大切です。

日月星辰は本より虚空に住すれども、雲霧蔽虧し烟塵映覆す (吽字義) 

太陽や月・星は変わらず空にありますが、雲や霧がそれを隠し、煙や塵がその姿を覆ってしまう、という意味です。

心が曇ってしまえば、素晴らしいものが見えなくなります。トラブルや悩み事が雲のように心を覆って、明るいものは何もないと思い込んで辛くなるのが私たちですが、それでも太陽や月・星、つまり変わらない仏様の慈悲や優しさはいつも降り注いでいます。それを見るかどうか、触れられるかどうかは、常に自分の心次第です。

何があっても、大空はいつも大空。

この世はすべて、いつも、本当は光に満ちています。それを信じて、それを感じて、いつもすべてを喜んでいましょう。喜んでいる心のあるところに、徐々に雲や霧や煙や塵は除かれていきます。
雲や塵は、幻のようなものです。いつまでも変わらないものは、光です。その光そのものを象徴しているのが、諸仏の根本である大日如来であり、光明真言です。

それを信じて受け止めて、明るく、良い一年にしていきましょう。


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あけまして。

2017年01月01日 | ★閑話休題
あけましておめでとうございます

本年もどうぞ宜しくお願いいたします。

今年はしっかり勉強と実践する年にしたいです。

取り敢えず、『理趣経』『理趣釈』、それから「理趣法」。
もちろん真言念誦が中心ですが。

それと、Twitterで毎日、弘法大師の聖語をひとつずつ投稿すること。
まぁ、絶対毎日というと出来ない日もあるでしょうから、年間で300投稿を目標に。

寺の「読経と法話の会」も1/8が101回目になりますが、
引き続き112回目まで恙なくできますように。
出来れば新規の参加者が何人かでもいいので増えますように。


…バファローズ優s…せめてAクラスに入れますように(´ー`)

ホイッスルもやったりやらんかったりですが、
暇を見つけてぼちぼちやりたいなぁ、と思ふ。
なかなか吹く場所と時間が難しいねん。

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位牌堂

2016年12月28日 | 仏教・思索
当寺には、位牌堂というものがあります。
檀家さんは自宅の仏壇と寺と、二カ所に位牌をお祀りしております。つまり、亡くなったら位牌をふたつ作る、ということです。すべての檀家さんが位牌堂を持っているわけではないのですが、9割以上の家庭に位牌堂があります。

 これが位牌堂です。

総数で約200です。

年末の掃除と準備で今日は位牌堂にいたのですが、改めて考えると、これらの無数の位牌は、すべて亡くなった方たちであります。どれだけあるのか正確に数えたことはありませんが(繰り出し位牌などもありますので、数えるとなると大変です)、たとえば当寺の過去帳は350年分くらいあります。戦前までは毎年20名~25名くらい平均で名前が記されています。近年は年間に10件弱ですが、概算で6000~8000人はおられるでしょうか。もっと多いかも知れません。
改めて数えはしませんが、ひとりひとりと対話する心で、掃除をしています。

この地域も過疎がさらに進んで絶家が増えています。これからも減ることはなく、どんどんと増える一方でしょう。子供がいても供養や寺を顧みず、放置する家庭もあります。そうやって人がいなくなったとしても、この位牌堂の人たちは、静かに祀られ続けるのです。詣り手がなくても。
僕たち檀家寺の僧侶は毎日ささやかながら供養をして、そういう人たちとともに、生活をしています。

仏教は生きている人のためのものだ。
そう言って「葬式仏教はダメだ」と批判する方がおられます。
確かにそれは一理あります。しかし仏教では一方で、「生死不二」であり、生きている人も死んだ人も、どちらも同じ地平でお付き合いをしています。当たり前のように、そういうものです。

静かな位牌堂。
世の中がすべて「生きている人」のためだけに回っているとしても、「生」のみに価値を置いて「死」にまつわるすべてを無価値・あってはならない忌まわしいものと考える社会になってしまったとしても、僕たちは古い過疎地の寺の中で、亡くなった方たちの幽かな気配とともに、ゆっくりとした時間の中で、変わらずに地味に、丁寧に、生きていきたいものです。

年末年始です。

またひとつ、歳を重ねます。

人はいずれ、死にます。

あなたも、死にます。

一分一秒、時間は絶対に止まりません。

ノンストップで死に向かうのが、時間です。

目を背けても、同じことです。

改めて自分のいのち、生き方、死に方、そういうことを考えてみてください。そして、良くも悪くも「死で終わらない」という仏教の教えに、来年は触れてみてください。必ず、素晴らしい世界が、そこに開けてきますから。
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空海名言辞典

2016年12月24日 | ★閑話休題


高野山櫻池院・近藤堯寛師の『空海名言辞典(付・現代語訳)』。
高野山出版社。

弘法大師空海の著書は、正直、難解です。たとえば日蓮聖人の御遺文や、親鸞聖人の著書と比較しても、それは圧倒的に難解。密教という立場にもよるのだろうし、時代的なものもあります。鎌倉期の文章は読みやすいのですが、弘法大師は平安初期。つまり漢文。しかも四六駢儷体や故事を縦横に駆使している…。
現代語訳もいくつか出ていますが、正直なところ、手に取って読んでみる人は多くはないでしょう。

因みに現代語訳は、同じ高野山出版から出ている『現代語の十巻章と解説』がお薦め。書き下しは山喜房の『弘法大師著作全集』が比較的手軽。

そんな中、この近藤堯寛師の『空海名言辞典(付・現代語訳)』。
これは素晴らしいです。
書道などでも使えるように…という意図もあるようですが、原文・訓読・現代語訳・註を完備して、2180句が収録されています。聖句集としては完璧です。無駄な解釈とか解説もなく、淡々と分野別に整理されて並べられています。そこが素晴らしい。

真言宗僧侶は当然、弘法大師に信を置く人にとっては、マストです。これ以上の本はありません。たぶん今後も、このコンセプトではこれを超えるものは出ないでしょう。

5000円以上しますが、正直、安いです。絶対に安いです。
僕は3冊、持っています。座右の聖典として、折々に繰ってみてください。素晴らしい聖句の数々に、弘法大師という方の息吹が感じられるでしょう。
そしてその文章に馴染んだら、現代語訳でも結構ですから、弘法大師のまとまった文章に触れてみてください。難解なものもありますが、『性霊集』など、教義書ではなくとも名文が集まった詩文集もあります。

  これ。30000円以上しますが…(;´・ω・)
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虚往実帰

2016年12月20日 | 仏教・思索
虚しく往きて実ちて帰る  性霊集 二

弘法大師は中国・唐代に大陸に行かれて真言密教の第八祖となられましたが、師である第七祖・恵果和上の人となりを書かれた文章の中に、上記の言葉があります。
辛いひと苦しいひと、虚しいひと悩むひと、どのような者であれ、恵果和上に会えば必ず満ち足りて帰ることになる。これは仏法だけでなく、物心両面のことです。

さて、弘法大師は大陸に行かれて密教を学び修行して真言密教のすべてを受け継いで帰って来られましたが、まさに虚しく往きて(密教の究極を求めて大陸に赴き)実ちて帰られたわけです。

僕たちにとってもまた、仏法を学び行ずる事が、これと同じことを意味しています。

この世に人として生まれたことはよくよくのことですが、僕たちは生まれてこのかた非常に無為に過ごしてしまっています。一所懸命に勉強し働いたといても、この世のかりそめの価値観や煩悩に縛られているならば、それはやはり虚しいことです。
この虚しい存在である僕たちはしかし、この得難い人身を得ているのです。この一生は、学びと修行の場です。恵果和上に当たるような師もおられます。どこに? 経典や釈尊や弘法大師の言葉と行跡があるじゃないですか。また、仏菩薩の導きも。
ですから僕たちは死ぬとき、必ず満ち足りて帰ることができるのです。目の前に、素晴らしい宝が山と積まれています。見えますか?
はやくそれを取って、学び、行じ、満ち足りて生きましょう。そうして回りを利益し、悠々と死に、本源に帰って往きましょう。

仏教には、そのためのすべてが揃っています。

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師事作法

2016年12月18日 | 仏教・思索
チベット仏教の『ラムリム』に師事作法が説かれています。これは師に対する心得を述べたものですが、チベット仏教においては他の伝統と比べても特に「師の重要性」を重視しますから、あらゆる場面で「師の大切さ」が説かれています。

もちろん私たちの東亜の仏教においても師というものは重要で、その師事作法についてきちんと伝承されています。

代表的なもののひとつに、高野山でも重視されている『教誡新学比丘行護律儀』というものがあります。

 ←コレ。高野山出版社から全訳註が出ています。表紙がなんと真別処。

七世紀、四分律(南山律)を基とした新発意の行者に向けて道宣律師が著したものです。全二十三項四百六十六条に渡る非常に懇切丁寧な律儀であり、たとえば「飯の中に殻有らば皮を去けて食すべし」(8-55)というようなものまであります。
この『教誡律儀』の第三項の全五十一条が、いわゆる「師事作法」です。
長いのですべてを挙げられませんが、たとえば

・師の前では他の誰からも礼拝を受けてはならない 3-4
・師の話が終わる前に口を開くな 3-8
・師に誡められた時に師に対して厭い嫌う心を起こすな 3-13

…等から始まり、師の身体の世話、寝具・衣の洗濯から足の洗い方、足を向けるな、いつでも付き従い出迎えろ、などが説かれています。全二十三項目の第三番目という早い段階で師事作法が説かれていますが、決してこれらは形式的なものではなく、修行の第一歩として重要なのです。

この『教誡律儀』は、修行に入り諸々の具体的なことをする前にまずしっかりと学ぶべきものです。と同時に、初心だけではなく、仏道行道の基本として、いつまでも折に触れてこれを学び直し、保持していく心掛けが重要かと思います。
私たちは決して出家ではなく「居士法師」ですが、それでも仏子であり僧侶であります。
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Twitter

2016年12月16日 | ★福楽寺告知
https://mobile.twitter.com/haradasatoshi4

Twitterはじめます。

Facebookやってたんですが、なんか違う感が増してきまして、以前から止めようと思ってました。「連絡用にアカウントは…」とも言われてそのまま使っていましたが、あると書いてしまうし、読んでしまうし。
仏教の話はしたいからどうしても覗いてしまい、しんどくなります。

伝道や説法の一環としてのツールとしてはアリなのかも知れませんが、僕には合ってない。

なので、Twitterのほうがまだいいかな、と。

Twitterでは、Facebookみたいに長文が打てないので、却ってシンプルなことを言えそうです。
仏教の簡単な話やお寺の近況、雑談が中心ですが、良かったらフォローして下さいませ。

あ、プロ野球シーズン中はたぶんバファローズの話題が増えます(;´д`)

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