卍 応無所住而生其心 卍

仏教に関すること、お寺の行事、法話…

花まつり

2017年04月05日 | ★法話関係
四月八日は花祭り(釈尊降誕会)です。

今から二千五百年ほど前に、お釈迦様(釈尊・ブッダ)はインドでお生まれになりました。

釈尊が誕生された時の伝説として、生まれてすぐ七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と喋られた、というのがあります。「生まれた赤ちゃんが喋るわけない」と言われそうですが、これは実際に喋ったかどうかが問題ではなく、釈尊が生まれたことの意味・意義を示すための伝説です。

まず「七歩歩いた」ことですが、これは六道輪廻の苦の世界を超えて、七番目の世界、つまり悟りの世界・仏様の世界・浄土にみんなを連れて行きたい、という慈悲の心を示しています。お墓に六地蔵がありますが、これも同じ釈尊の慈悲の心を示しており、地蔵菩薩がその心を実践しているのです。

次に、「天上天下唯我独尊」ですが、「天の上にも天の下にも、唯だ私ひとりが尊い」という意味です。これだけ聞くと「なんと偉そうなことを言うなぁ」と感じるかも知れませんが、これは「オレだけが偉いんだ」というわけではなく、「他人と比較して偉いとか偉くないとかではなく、ただ私が私として生きているという事実、ただそれそのものが尊い事なのだ」という意味です。上下貴賤ではない、ひとりひとりの人が、それぞれ素晴らしい、ということです。

また、「私」というものは「縁起=関わり合い」で成り立ちます。この世界は「この私」がいてはじめて成り立っているのです。
たとえば何百・何千のドミノの駒のひとつひとつは小さいですが、そのたったひとつ・「私という駒」がなくなるだけで、ドミノは成立しません。その「たったひとつの小さな駒」が、この世界でもっとも大切なものでもあるのです。
そしてもちろん、「たったひとつの私という駒」「だけ」でも、ドミノは成立しません。すべての駒が関わり合って、それぞれの持ち場でしっかり立つことによって、成り立つのです。ある駒は目立つ場所にあるかも知れない、他の駒は目立たない地味な場所にあるかも知れない、美しい駒もあるだろうし、汚れた古い駒もあるかも知れない…でも、「すべての駒が必要なのです」。

釈尊が生まれたということは、このことを皆さんに知らせる意義があったのです。

釈尊のメッセージは、ひとつは「人々に必ず苦の世界を超えさせよう」ということで、もうひとつは「すべては関わり合って成り立っている、無駄なもの、無意味な人や人生はひとつもない」ということです。
それを「その通りだ」と信じて実践している者が「菩薩」と呼ばれます。完成した者を「仏」と言います。

私たちは、それぞれが小さな菩薩として真面目に生き、手を合わせる心を失わず、日々にしっかりと「みんなと調和すること」を意識しながら、すべてに感謝して生活して参りましょう。
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いのち

2017年03月28日 | ★法話関係
この世の中には、色々な出来事があります。楽しい事もあるし、辛いこともあります。しかしいずれにしても、すべては過ぎ去りゆき、いずれ自分が死ぬときには、すべてを置いていかなくてはなりません。 
その時には、お金も地位も持って行けず、誰もついてきてはくれないのです。

そして「その時」がいつ来るのかは、誰にもわかりません。

弘法大師は『教王経開題』に「この身の脆きこと泡沫の如く 吾が命の仮なること夢幻の如し」、また『性霊集』で「古の人今見えず 今の人ぞ長きことを得ん」と述べておられます。
また、チベットの諺には、「明日の朝が来るのが早いか来世が早いか、そんなことは誰にもわからない」とも言います。

この限られた時間、限られた命を、私たちは美しく・清らかに生きなくてはなりません。
しかし、「死んだらおしまい」ではありません。
私たちは皆、目に見えない「いのち(「魂」と言っても構いませんが)」として生きています。この身体には限りがありますけれど、目に見えない「いのち」には限りがなく、必ず次の世界に続いていくものです。そしてこのいのちは、私たちの普段の行いや考え方によって色づけられて、どこまでも続いていくものです。

「病気」という言葉があります。

人はこの限りある体を持つ以上は、いつか病気になります。しかし、「病人」になるかどうかは、心次第です。体は病気によって辛いとしても、この心までが病気になる必要はないのです。
心は「いのち」の鏡です。
いのちはいつでも健康で、決して病気にはなりません。だから本当は、心は病気にならないのですが、体が病気になった時、「自分とは体のことだ」と考えてしまうと、「いのち」までが病気になったように感じます。しかし、「わたしたちの本体は体ではなく、目に見えないこころ・魂なのだ」とわかれば、人は病気になったとしても、病人にはならずに済むのです。

福楽寺のご本尊・薬師如来は、「病気を癒す功徳」をも持っておられる仏様です。信心により体の病を癒して下さることもありますが、より本質的なお働きは、「あなたは病気であったとしても、病人ではない」と教えてくださることです。心が病人でなければ、「あなたの本当の部分、つまりいのち(魂)」は決して病気ではないのです。

たとえ体が病気になったとしても、清らかに・美しい心で、慈悲の心で生活していくことで、必ず現世に福徳が得られ、来世には安楽が得られます。福徳と安楽が、薬師如来の約束です。
そして「福徳・安楽」の場所が、つまり「福楽の場所」、福楽寺です。

皆さんは、この「約束」を信じ、信心を確かにして、感謝と喜びを持って家族仲良く楽しく生活をしていくことで、必ずたくさんの「恵み」をいただくことができます。
そうして福楽寺の薬師如来は、千年以上もこの地で、人々の福楽を願いながら、ここにおられ続けているのです。
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土砂加持法会

2017年03月12日 | ★福楽寺告知
福楽寺の御本尊・薬師瑠璃光如来様に、光明真言の功徳を振り向けて檀信徒各家厄難消除・先祖代々の追善を祈り感謝する恒例の土砂加持法会を、本年も厳修させていただきます。

日時  三月三十日(木)
      午後一時十分~   法話      
      午後二時~     土砂加持法会・卒塔婆供養

正午十二時より浄斎を差し上げております。
どうぞ法話から最後の卒塔婆供養まで、よろしくご参詣ください。

※※※

四月八日はお釈迦様の降誕会(花まつり)です。福楽寺では毎月八日の午後一時から「読経と法話の会」を開催していますが、四月八日には誕生仏の花御堂を御開帳しています。お気軽にご参詣くださいませ。
また、福楽寺では御詠歌教室も開催しています。少しでも興味がございましたら、お気軽にお問い合わせください。老若男女問わず、未経験者も大歓迎です。  

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彼岸

2017年03月07日 | ★法話関係
今年は三月二十日の春分の日を中日として、三月十七日~三月二十三日までが、春のお彼岸になります。

「彼岸」とは、「向こう岸に渡る」という意味です。喩えとして、迷いのこの世をこちら岸・此岸と言いますが、その此岸から、川の向こうの覚りの世界である彼岸に渡るために教えを守り、行いを慎む期間が、本来の彼岸の意味です。ですからそういう意味では、彼岸は「修行期間」なのです。

また、春分の日や秋分の日は、太陽が真西に沈みますが、西には極楽浄土があり、ご先祖様がおられるということで、彼岸の時期はもっともあの世との距離が近くなり、思いが届きやすいとされていますので、この期間中にお墓参りをするのも大切なことでしょう。

ところで、お墓参りには「お供え」をします。何をお供えしても結構ですが、古来からお彼岸には春は「ぼたもち」・秋は「おはぎ」をお供えすることも多いです。餅は五穀豊穣、小豆は魔除けの働きがあるとされていますので、この時期にご先祖様に生活の糧をいただいていることを感謝し、家族の無病息災を祈る印として、牡丹餅をお供えします。

「お供え」という事では、もっとも大切なお供えは、私たちの「功徳を回向する」ということです。日日の善行・修行の功徳を、ご先祖様や故人の安楽・覚りの為に回し向け供養することです。
その為の「善行・修行の功徳」をしっかりと積み、覚りの世界・彼岸へしっかりと向かっていきますようにと実践するのがお彼岸という行事ですから、私たちがしっかり手を合わせて身を慎み、功徳を積んで、お墓参りをして、あるいは仏壇の前で手を合わせて、その功徳を回向供養しなくてはなりません。

具体的な修行は、以下のようなものです。

十七日  布施 他者へ施しをし、その功徳を供える
十八日  持戒 戒を守る功徳を供える
十九日  忍辱 喜怒哀楽に左右されない平静な心の功徳を供える
二十日  中日はすべてを実践する
二十一日 精進 精進の功徳を供える
二十二日 禅定 読経・修行の功徳を供える
二十三日 智慧 仏教の教え・智慧を得たいという志の功徳を供える

この中で特に大切なのは布施の心ですが、誰でもできるものに「無財の七施」があります。

★眼施  優しい眼差しで人と接すること。
★和顔施 和やかな顔で人と接すること。
★言辞施 優しい言葉遣いをすること。
★身施  人の代わりにこの身体を使って仕事をすること。
★心施  慈悲の心で、相手に心配りをすること。
★牀座施 座席や地位などを相手に譲ること。
★房舎施 修行者や旅人に住まいや休憩場所を提供すること。

このような行いを彼岸の期間中にひとつでもふたつでも三輪清浄の心で行い、その功徳をご先祖様・亡き方々にお供え・回向してください。それが最上のお供えですし、故人がそのような生き方をしているのを見たら、きっと喜ばれると思います。
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初心の座右

2017年03月03日 | 仏教・思索
どの分野でも同じでしょうが、「初心忘るるべからず」「常に原点を確認する」…これが大事。特に宗教の場合、巷にインチキや霊感商法、聖職者の腐敗堕落や儲け主義が蔓延していますから、足元をすくわれないように、いつも基本をチェックしてなくてはならないと思います。

基本とは何か。

それはもちろん、根本的な教説の指針です。

クリスチャンなら『聖書』とりわけ福音書ですね。ムスリムなら『クルアーン』。ヒンドゥーなら『ギーター』。
社会情勢や政治経済、人間関係や生活不安に至るまで、ややもすれば道を間違えたり見失ったりしがちですが、困ったら原点に戻ることを普段から意識していれば、そうひどくは間違えない。
色々な「主張」や「声明」があったとしても安易に流されず、根本的なものをしっかり見て、繋がっておく。釈尊の言う「法に依れ、人に依るな」は、宗教の違いを超えても真実です。

さて、仏教徒にとっては、原点とは何か。

第一に経典です。第二に論書。これです。

経典とは、例えば法華信徒なら『法華経』です。他にも、立場により『理趣経』『無量寿経』『華厳経』『般若経』『阿含経』、色々とあるでしょうが、仏教の場合は多様な経典のどれもが聖典ですから、縁があり肚に落ちた経典で良いと思います。ただ、何かしら中心になる経典はあった方がいい。
論書は広い意味で、もちろん『中論』『成唯識論』『大乗起信論』などは当然、『十巻章』『日蓮遺文』『教行信証』など祖典も含めます。
これら経論から「これ」というものを選び、一生の座右にして心身に染み込むまで親しんでおけば、そう足元をすくわれることはないと思います。
ただし気をつけるべきは、やはり原典とは言え、解釈や解説書は周辺分野も含めて必ず幅広く何冊も同じテーマのものを読むべきです。偏りを防ぎ「目」を養うには、幅広く多様な視点からの読みをする必要があります。

一生は短いです。

色々な分野に手を出すのも楽しいですが、ひとつかふたつ、「これ」という経論や書物を座右にして、深めてください。一生、毎日読み続けるに値するものは、宗教の世界にあります。願わくは、仏典を手にしていただけたら嬉しいです。
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世界観

2017年02月16日 | 仏教・思索
キリスト教やイスラームにおいて、改宗した自分は天国だとして、異教徒の父母兄弟はどうなるのか、地獄なのか、という問題があります。戦国時代にキリシタンに対する疑問のひとつがこれでした。先祖が皆、救われないなら孝に悖るのではないかと考え、キリシタンになることを拒否した、ということもあったようです。
現代でも事情は同じで、恐らく「神は愛だから、委ねましょう」というのが関の山で、これ以上のことは言えないと思います。

仏教では、メインラインは善業悪業により輪廻するから、仏教を知らなくても善業あらばそれなりに相応しい境涯に至り、生まれ変わり死に変わりして、そのうちに機が熟せば仏法に出会うと考えるので、そこまで問題にはならないわけです。
また別に、例えば日蓮聖人の『盂蘭盆御書』においては、自分がしっかり信心して霊山浄土の身になれば、この体は父母の体により出来ているのだから、まさに自分によって父母また七代の父母子孫も成仏されるのだ、という考えが表明されています(若干、情緒に過ぎるかと思いますが、書簡だから仕方ないでしょう)。

どれが正しいか、という話ではありません。不信仰者は善人でもすべて地獄だ、というのが真実である可能性はあるでしょう。人間の情緒によって真理が左右されるわけでもないのですから。
要は、ある人が信じる世界観がその人にとっての真実であると言うしかなく、客観的に「世界観を共有しない者」には、かの「真理」は事実か虚偽か以前に、端的に無意味なんです。

信仰を異にする父母や兄弟、先祖に対してどう考えるか。あなたが妥当だと思う道を選んでください。しかし、それは外部には通じないし、また強制させることもできない。根源を問わない現象分析の領域の「科学」で云々もできない。
それはしっかりと理解をしなくてはならないと思います。
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善悪

2017年02月07日 | ★法話関係
弘法大師の言葉に、こういうものがあります。

珠を持てば善念生じ 剣を把れば殺心の器   …宗秘論

「数珠を持てば善き心が生じ、剣を持てば殺そうという心が生じる」という意味です。
たとえば、お金がない時はみんな仲良く暮らしていても、思わぬ大金が手に入って家族が崩壊する、仲が悪くなることはよくある話で、思わぬ「お金」が転がり込んで、「自分のものにしたい」という欲を起こし、そこからどんどんおかしくなり、心が荒み、トラブルが起きます。
逆に、ちょっとした心遣いですべてが良く回り始めることもあります。

結局、人間の心は環境に左右されます。心が強ければ問題ない、というわけにもいきません。環境をまず、善きものに整えていくことが大切です。また、悪い環境から心を守るために、具体的に環境を改善するための行動をしていく気持ちも大切です。
心と環境、心と行為というものは表裏一体です。連動しています。また、その根本には「動機」が大切です。動機が正しければ、善い環境をしっかり活かし、悪い環境を変えていけるものです。

弘法大師はまた仰せになります。

悪を断ずるが故に苦を離れ 善を修するが故に楽を得 
下は人天より上は仏果に至るまで 皆これ断悪修善の感得する所なり
   …秘蔵宝鑰


「悪因苦果・善因楽果は事実であり、この世や天の世界、仏の世界に至るまで、すべてに通じる絶対の真理である」ということです。

本日は「厄除け薬師」です。
厄除け、あるいは祈願全般にそうですが、燕の子が口を開けて餌を待つような気持では祈りは通じません。必ず、ひとりひとりの「善き心を持とう」という動機が重要です。この気持ちがあるところに、仏様の加持の力が現れてきます。
そして皆さんで一緒に祈ることも大切で、これは互いの祈りの力を結び合わせて「融通」し合うことです。20人で5回唱えたら、各々100回唱えた功徳になります。こうやって力を合わせて、利他の心を持ちながら生きていくことで、仏様の加護のもとで自然に厄は消滅していくのです。
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成人式に寄せて

2017年01月09日 | ★閑話休題
成人式、おめでとうございます。
本人だけじゃなくて、きっと両親が一番、感慨深くこの日を迎えたのだろうと思います。

一言、つまらない言葉かも知れませんが、坊主の戯言を贈らせてください。

……………………………………………………………………………………

これから生きていくためには、金は大事。

肩書きってのも、大事。

知識も大事。

社会はくだらない…そりゃそうかも知れない。
打算的なオトナは嫌い…それもよくわかります。

でも、これからはそんな社会で生きてかなきゃなんない。

金や肩書き、知識ってのは、やっぱ大事なんだよね。

金はなきゃ食えないし、家にも住めない。
肩書きも意外に大事なもんで、「肩書はいらない」って言っても、そもそも肩書きってのは他人が貼り付けてくれたりするもんだから、誰にだってついて回る。ついて回る以上、スムーズに生きるためには、そりゃ何かしら適当な肩書きってのはあったほうがいいわけで。
知識もなきゃないで、何をどうしていいかわかんなくなった時、知識が助けになったりする。

金も肩書も知識も、生きていくためにはすごく大事。
だから、それを求めること自体が悪いってわけじゃない。

ただ、金・肩書き・知識ってのは、「生きるために必要」なものであって、「生きることそのもの」じゃない。それを忘れちゃいけない。「生きることそのもの」がわかんなきゃ、いくら金や肩書きや知識があったって、そんなもんは意味がない。

「生きること」を補助するのが金や肩書きや知識なんであって、所詮はそれだけのもんだ。死ぬときには、そんなもん抱えて死んでいけるわけじゃない。死んだ後にまで突き抜けてずっと続いていくもの、それをしっかりと見極めていくことが「生きる」ってことだから。

別に「仏教」の話じゃない。
仏教徒なら仏教徒なりの「答え」ってのがあるのかも知れない。クリスチャンならクリスチャンなりに。それはそれで、ひとつの答えだ。「生きることそのもの」へのダイレクトな図面を、そういうものは持っている。
けど、別に宗教とかなくったって、「生きることそのもの」をちゃんと考えて見つめて格闘して生きていく、歩いていくことは絶対に大切なことは変わらない。そして「生きることそのもの」は、絶対に「金・肩書き・知識」と同じじゃない。

もっともっと、もっと、それはパッションに満ちていて、涙が出て来るようなものだ。

具体的な答えは人それぞれかもしれないけれど、これからの人生、「生きるために必要」なものをしっかりと活かすためにも、まず「生きることそのもの」の美しさや深さを味わって行きましょう!
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光の生活

2017年01月07日 | ★法話関係
あけましておめでとうございます。

ニュースを見ると去年はいろいろな事件や出来事があり、なかなか落ち着いた毎日、というわけに行かないですが、今年は少しでも良い社会になることを祈ります。

それぞれの生活にも色々とあるとは思いますが、平穏に、恙なく毎日が過ごせるようにしたいものです。
起ってしまう出来事、たとえば病気やケガ、人間関係のトラブルなど避け難いものもたくさんありますが、そういうことが起こった時にどう考えるか、それが大切です。

日月星辰は本より虚空に住すれども、雲霧蔽虧し烟塵映覆す (吽字義) 

太陽や月・星は変わらず空にありますが、雲や霧がそれを隠し、煙や塵がその姿を覆ってしまう、という意味です。

心が曇ってしまえば、素晴らしいものが見えなくなります。トラブルや悩み事が雲のように心を覆って、明るいものは何もないと思い込んで辛くなるのが私たちですが、それでも太陽や月・星、つまり変わらない仏様の慈悲や優しさはいつも降り注いでいます。それを見るかどうか、触れられるかどうかは、常に自分の心次第です。

何があっても、大空はいつも大空。

この世はすべて、いつも、本当は光に満ちています。それを信じて、それを感じて、いつもすべてを喜んでいましょう。喜んでいる心のあるところに、徐々に雲や霧や煙や塵は除かれていきます。
雲や塵は、幻のようなものです。いつまでも変わらないものは、光です。その光そのものを象徴しているのが、諸仏の根本である大日如来であり、光明真言です。

それを信じて受け止めて、明るく、良い一年にしていきましょう。


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あけまして。

2017年01月01日 | ★閑話休題
あけましておめでとうございます

本年もどうぞ宜しくお願いいたします。

今年はしっかり勉強と実践する年にしたいです。

取り敢えず、『理趣経』『理趣釈』、それから「理趣法」。
もちろん真言念誦が中心ですが。

それと、Twitterで毎日、弘法大師の聖語をひとつずつ投稿すること。
まぁ、絶対毎日というと出来ない日もあるでしょうから、年間で300投稿を目標に。

寺の「読経と法話の会」も1/8が101回目になりますが、
引き続き112回目まで恙なくできますように。
出来れば新規の参加者が何人かでもいいので増えますように。


…バファローズ優s…せめてAクラスに入れますように(´ー`)

ホイッスルもやったりやらんかったりですが、
暇を見つけてぼちぼちやりたいなぁ、と思ふ。
なかなか吹く場所と時間が難しいねん。

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