vikalpita ~波浪~

仏教に関すること、お寺の行事、法話…

月輪観

2016年06月28日 | 仏教・思索
『月輪観法』。

定式のやり方もありますし、数息観や阿息観と一緒にやる、あるいは座法、「阿字観」との関係など、突っ込めば色々と突っ込んでいけますが、まぁ、この際そういうことは忘れましょう。


お月さん。

満月の。

そのお月さんを縁として、この私の心の本質と菩提心とは同じものなんだ、ということ。
菩提心ってのは、まぁ、「さとりの心」「さとりを求める心」、色々と言われるけど、ここでは「さとりの心」「仏のいのち」「仏性」「法性」…まぁ、「でっかい、大きな、全部を包み込む智慧と慈悲と光いっぱいの、仏さまの心」と思ってください。
その心は、実は「この私の心と同じ」ということ、それを実感するための観法が、月輪観です。

とっても、シンプル。

シンプル過ぎて拍子抜けしますか?

まぁまぁ、まず、仏さまに礼拝してみましょう。

あれ、ご本尊…?

あー、「月輪観本尊」というものがあります。黒地に白い丸の描いてあるもの。



ない?

あぁじゃあ、仏壇の前で良いですよ。

んで、イメージしてください。

目の前2mくらい先、目線よりちょっと下に、真っ白い丸がある…と。

ホンモノの月をイメージできるなら、それでもいいですよ。

いっそ、満月のお月さまの下でやってもいいかもね。



まぁとにかく、そうやって、本尊に対して、礼拝です。

おん さらばたたぎゃた はんなまんな のうきゃろみ 
おん さらばたたぎゃた はんなまんな のうきゃろみ
おん さらばたたぎゃた はんなまんな のうきゃろみ

これは、すべての如来の御足を礼拝し奉ります、という意味です。
そうして、三度、礼拝します。

そして、ゆっくりと座ります。
椅子でもいいし、正座でも、座禅みたいな座り方でも、とにかく楽に。
出来たら、背中が伸びるような座り方を。

で、お腹の前で、軽く円を作って…そう、座禅のアレです。

そして、

「我、自心を見るに形月輪の如し、如何が故に月輪を以って喩とするならば、謂く、清月自明の体は、即ち菩提心と相類せり」…と思いを定めます。つまり、「私の心はお月さまのようだと考えます。何故かというと、それは菩提心・仏性と似た姿をしてるから」…と。

で。

ここが私のやり方のミソですが、興教大師覚鑁の「月の十徳」を使って、観想…瞑想します。
「月の十徳」というくらいですから、十の文章があります。
観想では、全部は使いません。どれかひとつです。
どれを使うかは自由です。毎日順番にやってもいいし、十面体サイコロを使っても結構。決め方は自由です。

姿勢はそのまま、手もそのままで。

以下の十。

一、円満 月の円満なるが如く、自心も欠くることなし。
二、潔白 月の潔白なるが如く、自心も白法なり。
三、清浄 月の清浄なるが如く、自心も無垢なり。
四、清涼 月の清涼なるが如く、自心も熱を離れたり。
五、明照 月の明照なるが如く、自心も照朗なり。
六、独尊 月の独一なるが如く、自心も独尊なり。
七、中道 月の中に処するが如く、自心も辺を離れたり。
八、速疾 月の遅からざるが如く、自心も速疾なり。
九、巡転 月の巡転するが如く、自心も無窮なり。
十、普現 月の普く現ずるが如く、自心も遍く静かなり。

どれかを選んで、好きなだけ、月と自分の心を交流させてください。
月は、仏さまのいのちです、心、光です。

暫くしましたら、次は、その月と自分の心をひとつにして、大きく大きくしていきます。
宇宙いっぱい。

小さく小さく、胸の中に宇宙ぜーんぶを収めてください。

また大きく大きく、小さく小さく…。

これを広斂観と言います。

姿勢はそのまま、手もそのままですよ。

そして最後に自分の胸にすべてを収めて…光いっぱいになりましょう。

それからゆっくりと、「光いっぱい」の仏さまのマントラを唱えましょう。
三遍、あるいは七遍。

光明真言でもいいです。おんあぼきゃべいろしゃのう…。
阿弥陀小呪でもいいです。おんあみりたていぜいからうん。
六字名号でもいいんです。南無阿弥陀仏。

え、なんで阿弥陀さん?

無量光如来と言うのですよ!

手は「合掌」もしくは「定印」等々。

私は往生呪。これも「無量光」の真言。

さあ、そうして最後に、

おん さらばたたぎゃた はんなまんな のうきゃろみ 
おん さらばたたぎゃた はんなまんな のうきゃろみ
おん さらばたたぎゃた はんなまんな のうきゃろみ…

…。

あれ、何も変わった感じがないなー、って。

それでいいんです。

この観法は、ちょっとずつ、仏さまに近づく自分の心を整理するためのものだから。
というか、仏さまの心を、自分の心のなかに発見するための環境づくりのものだから。

真剣にやったら、これだけで「仏さまに、あなたはなれます」けれど、なれなくたって、全然、構いません。そういうことじゃなくて、まず「落ち着け、自分」と、そうやって、自分自身を静めて、大きないのちと自分とが連結していると、そう「信じる」ための第一歩の行です。

だから、とりあえず、変わらなくてOK。

そのうち、ちょっとずつ、変わるから。

ありがとうございました。
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飲酒

2016年06月27日 | 仏教・思索
特にコメントはつけません。
『スッタ・ニパータ』より。

Abrahmacariyaṃ parivajjayeyya,aʼngārakāsuṃ jalitaṃva viññū;
Asambhuṇanto pana brahmacariyaṃ,parassa dāraṃ na atikkameyya.
Sabhaggato vā parisaggato vā, ekassa veko na musā bhaṇeyya;
Na bhāṇaye bhaṇataṃ nānujaññā, sabbaṃ abhūtaṃ parivajjayeyya.

また飲酒を行ってはならぬ。この(不飲酒の)教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてもならぬ。
他人が酒を飲むのを容認してもならぬ。―これは終に人を狂酔せしめるものであると知って―。
けだし諸々の愚者は酔のために悪事を行い、また他の人々をして怠惰ならしめ、(悪事を)なさせる。
この禍いの起るものとを回避せよ。それは愚人の愛好するところであるが、
しかし人を狂酔せしめ迷わせるものである。
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真っ黒な絵

2016年06月24日 | ★法話関係
私たちはどうしても、ものを一面的に、自分の考えを中心にして見て判断してしまいがちです。そうやって、相手の本当の心を誤解して他人を傷つけてしまうことも多いものです。「あぁ、自分の見方が間違っていた」と気づけばいいのですが、大抵は誤解したままで過ごしてしまいます。

仏教学者の木村清孝氏の著書に出ていたエピソードですが、ある自閉症の男の子A君がいました。
支援学級(昔は養護学級とも言いました)で、「お母さんに感謝の絵を描きましょう」というテーマの授業があったのですが、A君は、赤・黄・緑のクレヨンでいくつか丸を描き、その後で画面いっぱいを黒に塗りつぶしてしまった絵を描いたそうです。
完成した絵は、赤・黄・緑の丸はぜんぶ消されてしまい、ただ真っ黒な一枚の絵が残りました。

先生はこの絵を見て悩んだそうです。

「何か不満や、怒りがあるのではないか」「家庭環境や学校に問題があるのではないか」「この子は大変な子供かも知れない」と。おそらく頭の中では、心理学的にどういう意味があるのだろうか、ケアをどうしたらいいのだろうか、お母さんにどういう話をしたらいいのだろうか…と、色々な思いが渦巻いていたと思います。

ところがお母さんに絵を見せてこの話をしたところ、お母さんは自閉症の我が子に向かい、「ありがとうA君、お母さん嬉しいよ」と。

実は絵を描く前日に、A君とお母さんはふたりで買い物に行って、リンゴとバナナとメロンを買ったそうです。この果物はA君が大好きな果物で、その果物を買って、大きな真っ黒のカバンに入れて家まで持って帰って、おいしく食べた。
だからA君は、その果物を赤・黄・緑のクレヨンで丸を描いてあらわして、それを真っ黒のカバンに入れたことを画面を真っ黒にして赤・黄・緑の丸を塗りつぶして隠すことで、「買い物ありがとう」を表現したわけです。
カバンに入れたら、果物は見えなくなります。だから、塗りつぶして、見えなくした。

結果、絵としては「黒一色」になってしまったんです。

このように、私たちは、この「真っ黒の絵」だけを見て「なんだこれは」「おかしいんじゃないか」と考えて、「A君はおかしい」と思いがちですが、お母さんは「ピン」と理解して、A君に「ありがとう」と言えたわけです。A君はお母さんにそう言われて、とても喜んだそうです。

私たちも日常生活の中で、自分の見たもの・聞いたものを、自分のものさしで勝手に「ああだこうだ」と判断して相手を「こうだ」と決めつけてしまいがちですが、実はもっと違う意味や思いがそこに隠されていたりするものです。
仏教は、そういう「決めつけ」をやめましょう、もっともっと、自分が思うよりも違う意味・相手の思いがあるんだよと、そういうことを教えています。

難しい教義や思想哲学もたいへん素晴らしいですが、日常生活の中で、「決めつけ」や「自己中心」を手放して、もっと融通無碍に考えてものを見る、ということの方が難しく、大切です。
私たちも、時には自分の心を見直して、「自己中心じゃないか」「相手の気持ちを勝手に決めつけてないか」ということを考えてみるのも、大切なことではないでしょうか。
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密教浄土教

2016年06月11日 | 仏教・思索

密教浄土教における阿弥陀と極楽の定義について。
以下は覚鑁上人の『五輪九字秘密釈』『阿弥陀秘釈』などの理論です。

覚鑁の思想が整理されていてわかりやすいので紹介すると、まず阿弥陀如来については四重釈あります。
浅略釈は法蔵菩薩の成仏するもの。
深秘釈は大日の一門別徳の弥陀。
秘中秘釈は大日即弥陀。
秘々中釈は衆生本具の心即弥陀。
これは阿弥陀如来に四種類あるというのではなくて、実践の進展によって実現する阿弥陀如来の顕現の仕方と言うか、視点の移動というか、自覚の深まりです。

極楽については、自心胸中の極楽が基本で、いわゆる指方立相ではありません。もちろん浅略では西方浄土と説くものの、本来十方空。

また、四十八願は六道衆生それぞれが本来具足している八葉蓮華(胎蔵中台八葉院)の展開であると配当していきます。8×6=48。

その思想の当否は立場によって捉え方は違いますが、ひとくちに「浄土教」と言っても、多様なものがあるということです。法然・親鸞流、あるいは善導流がすべてではない、ということです。

……………………………………………………

覚鑁の考え方は基本的に妥当なものだと僕自身は考えています。

自力と他力というものを、基本的には重視していない浄土教…というか、密教の立場ですから、三力の立場に立ちます。
この立場からの、法然親鸞流の浄土教への評価というか、違いは…。

あなた、海=他力と波=自力と、どっちをとりますか?
海を取るなら波は捨てなさいね、と。
自他力分離の議論は、そのくらい無茶苦茶だと思う。
海から考えるか、波から考えるか、というのが法門の別。
最終的には海波双入の自他不二しかないし、あえてどちらから入るか、なら、自己を見詰める波=自力から入るのが王道。
その自力=諸々の波や潮の絡み合う法界の力が自他を繋ぎ、無分別な真如となる。

波を考慮しない海というのは「立てられた概念的真如」で、それを報身仏というのかな、と。それはもちろん体としては「全体」だけど、相としてはある側面に過ぎない。一門別徳の阿弥陀如来がそれ。極楽浄土は場としての阿弥陀如来。
この海の体は常に不変だけど、相は様々な形で示され得る。だから阿弥陀如来じゃない、不動明王でも観音菩薩でも釈尊でも、僕でも犬でも月でも玉葱でもいい。
原理的にはそうなんだけど、実践的に玉葱では法の体が隠れすぎてて役に立たないので、密教では選仏を行います。
その選仏として、無量の寿命と光を示す阿弥陀如来は、もっとも入りやすく正面の如来だと考えるのが、秘密浄土、密教浄土教です。

その特定の仏を門として、海波双入の無分別の真如法身に入る。これを大日といい、密厳国土といい、沙婆即寂光土といい、究極的には言語道断。

……………………………………………………

だから往生も二段階往生説。沙婆(波)→極楽(海)→密厳(海波不二)と言うのですが、これは上記の故です。
しかしあくまで海と波を分けるのは実践上の要請なので、原理的には極楽即密厳ですから、別体じゃないのは言うまでもなく、沙婆世界のほかに極楽があるわけでもない。
極楽はこの世界であり、この世界であるということは、「この私が現に関わり、私そのものであるこの世界」にほかならず、つまり心即弥陀即大日即極楽即密厳。自心胸中の極楽。大日即弥陀であり、衆生本具の心即弥陀です。波=海=海波不二ですから。

……………………………………………………

ま、僕自身の話はもっと単純で、念誦は「波」として「海」である阿弥陀如来と対面し、入我我入して即一となるという観想をする、に尽きます。その即一した状態を我即弥陀即極楽、総じては大日即真如即密厳海会であって、三種成仏の第二段階であると。
加えて持戒菩薩行を地道に意識して、いつか日常に自利利他円満したとき、顕得成仏する、と。それだけです。そんなに難しい理屈はないです。はい。
阿弥陀如来じゃなくても、顕得成仏へのルートはほかにもありますから、選仏の上下はないですし、他宗派の方法でも一向に構いません。自由です。
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努力の才能

2016年06月06日 | ★法話関係
人には色々な才能があり得ますが、それをモノに出来るかどうかは、ひとえに「努力する才能があるかどうか」にかかっています。

色々な個性の才能は様々な車の種類みたいなもので、本当に多様。スピードのある車、馬力のある車、オフロードに強い車、強度は足りないけどめっちゃ早いF1カー、逆に装甲車みたいなの、カッコいいデザイン、丸いの、角いの、赤青白黒黄色に緑…トラックやバスや消防車…。
それが、色々な個性の才能。

でも、それがいくら立派でも、「努力する才能」つまりガソリンがないと、全部ガラクタになってしまうのです。

努力する才能というのは、ひとつのことを延々とできる才能でもあるのですが、あれもこれもと手を出しては、しばらくしたら飽きて次を探す。ある話に感銘を受けたら夢中になるけど、しばらくしたら他の「良い話」を探し始める。これではいけません。

地味なことを、目新しくもないことを、じっとやりつづけ、掘りつづける。回りから見たら「つまらんこと、いつまでやってるの?」と言われても、ここだと思ったところを、掘りつづける才能。信じられる才能。
これが、努力できる才能、ガソリンです。

仏教の修行や生活も、そういうことです。

仏教には「精進」という言葉があります。
「努力精進」とも言うけれど、これは決して「闇雲に頑張る」とは違います。
しっかりと智慧の眼で自心と周りを照らし、適切に努力をする。無理するのでもなく、サボるのでもなく、琴の弦が程よく張られているように、いつも適切な強さで努力していくこと。

人によって、なすべき事やしたい事、仕事や趣味、適正は色々と違います。だから、どんな分野でもいいのですが、これと決めた道を継続する。そうしないとガソリンが足りないのと同じで、いくら「立派な才能」という「自分だけの車」が隠されていても、地表に中途半端な掘りかけの浅い穴ぼこばかり開けるだけ。深いところにある地下の水脈には届きません。

もし「これかな」というものがあれば、十年一日を恐れず、コツコツとやってみましょう。どんな小さなことでも良いのです。
その先には、きっと水脈がありますから。
もし生きているうちに水脈に届かなくても、一心に掘り続けた「業」「功徳」というものは必ず身についていますし、後生に大きな力となり、仏さまはそれを必ず、受け止めて掬い取り、包み込んでくださいます。

努力をする、精進する。
一時間やれば一時間精進、一日やれば一日精進です。僅かなこと、僅かな時間でも、その功徳は絶大です。

これが、生きて行く上でどれほど大切なのか、改めて、考えてみましょう。
濡れ手に泡、というのは、虚しいことです。
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月。

2016年05月27日 | 仏教・思索
月はいいなぁ。清潔。美しい。
ごちゃごちゃした地球の近くで、黙って金また銀に光っている。
じいっとこちらを観て、つかず、離れず。
風もなく、ずっとじっと、落ち着いていて、
地球からああだこうだと詮索されても、黙って、観ている。
音もなく、
ひんやりと冷たく、
それでも光って、右往左往する地球の上の僕たちを。
月がなければ、僕たちはどういう生き物でありえただろう?

僕は月になりたいな。


興教大師覚鑁 『一期大要秘密集』

月の十徳

一、円満
 月の円満なるが如く、自心も欠くることなし。
二、潔白
 月の潔白なるが如く、自心も白法なり。
三、清浄
 月の清浄なるが如く、自心も無垢なり。
四、清涼
 月の清涼なるが如く、自心も熱を離れたり。
五、明照
 月の明照なるが如く、自心も照朗なり。
六、独尊
 月の独一なるが如く、自心も独尊なり。
七、中道
 月の中に処するが如く、自心も辺を離れたり。
八、速疾
 月の遅からざるが如く、自心も速疾なり。
九、巡転
 月の巡転するが如く、自心も無窮なり。
十、普現
 月の普く現ずるが如く、自心も遍く静かなり



月の十徳については、長野市の長谷寺・岡澤住職様よりご教示いただきました。
ありがとうございました。
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三十七の菩薩の実践

2016年05月17日 | 仏教・思索
『三十七の菩薩の実践』 ギャルセー・トクメー・サンポ

1.
大きな船のような有暇具足をそなえた
有意義で得がたい生を享けた今生で
自他ともに輪廻の海から救われるために
昼夜を問わずに聞・思・修すること
それが菩薩の実践である

2.
身内に対しては愛情を水のように注ぎ
敵に対しては憎しみを炎のように燃やす
善悪の見境がつかない愚かさは真っ暗な闇
故郷を捨てること、それが菩薩の実践である

3.
悪い故郷を捨て去れば煩悩はしだいに消え去っていく
怠けず励む者の功徳はおのずと増えていく
知性が澄めば教えに信が生ずる
「静謐な場所」に安らぐ心、それが菩薩の実践である

4.
長い間親しくしている友と別れ
努力して得た財産を後に残し
「肉体」という宿を「心」という客が去っていく
今生を捨てること、それが菩薩の実践である

5.
交われば三毒(貪・瞋・癡)が増大し、
聞・思・修の行が疎かになり
慈悲がなくなりはじめる
そのような悪い友を捨てること、それが菩薩の実践である

6.
【その人に】従えば欠点がなくなって
功徳が上弦の月のように満ちてくる
そのような善友を自分自身の身体よりも大切にする
それが菩薩の実践である

7.
自らも輪廻の牢獄に囚われている
世俗の神にいったい誰を救うことができるのか
それゆえ、救いを求めても欺くことのない
三宝(仏・法・僧)に帰依をする
それが菩薩の実践である

8.
「極めて耐えがたい悪趣の苦しみは罪業の結果である」
と釈迦は説かれた
そのため命を落とそうとも罪業をおこなわない
それが菩薩の実践である

9.
三界(欲界・色界・無色界)の幸せは草葉の露のごとく
瞬時に消え去るものである
いかなるときも変わらずに解脱の最高の境地を目標とする
それが菩薩の実践である

10.
無始以来より私を愛してくれた母たちが、
苦しみもがいているならば、自身の幸せなど何になろうか
それゆえ、限りなき衆生を救うために菩提心を生起させる
それが菩提の実践である

11.
あらゆる苦しみは自らの幸せを追い求めることより生じ
悟りは他者のためを思うことより生ずる
それゆえ、自己の幸せと他者の苦しみをまさしく交換する
これが菩薩の実践である

12.
何者かが大きな欲望で私の財産を
すべて奪おうとして盗みに入ったとしても
身体と財産と三世の善の集積のすべてを差し出す
それが菩薩の実践である

13.
自らの過ちが認められないにもかかわらず
何者かが私を斬首刑に陥れたとしても
いたわりの心でその罪を自ら被る
それが菩薩の実践である

14.
ある者が私に対してさまざまな非難中傷を
三千大千世界に遍くふれ回ったとしても
慈しみの心で繰り返しその者の功徳を賞賛する
それが菩薩の実践である

15.
大勢の者が集まるなかである者が
私の過失を掘り起こし罵声を浴びせかけても
その者を善友(ラマ)と思って敬意を払う
それが菩薩の実践である

16.
わが子のように大切に育てた者が
私を敵のように見なしたとしても
病気のわが子に接する母のようによりいっそうの愛情を注ぐ
それが菩薩の実践である

17.
私と同じくらいか、それより劣る者が
慢心を起こして私を軽視したとしても
師(ラマ)のように尊敬し自らの頭頂に戴く
それが菩薩の実践である

18.
生活に困窮し、常に人より軽蔑され
ひどい病苦や悪霊に憑かれても
それでも一切衆生の罪業と苦しみを受けて疲れることをしらない
それが菩薩の実践である

19.
賞賛され、大勢の者が頭を垂れ、
毘沙門天の財宝と同じものを手にしても
世間の豊かさには本質がないと見て驕らない
それが菩薩の実践である

20.
自身の中にある怒りという敵を調伏しないなら
外の敵を倒しても憎しみはますます増大するばかり
それゆえ、慈悲という軍隊で自身の心を征服する
それが菩薩の実践である

21.
欲望の特性というのは塩水を飲めば飲むほど乾くのと似て
どんなに満足してもさらに貪りたくなる
欲望が起きた対象はいかなるものでもすぐに捨てる
それが菩薩の実践である

22.
いかなる現象もそれは自身の心であり
心の本性は本来戯論より離れている
そのように理解して主客の諸相に気をとられてしまわない
それが菩薩の実践である

23.
意識がとらえる喜びの対象は
夏の盛りの虹の色彩のごとくに
美しい現象であっても実体のないものとして執着を捨てる
それが菩薩の実践である

24.
さまざまな苦しみは、夢の中での息子の死のごとく
錯誤を実体あるものととらえることより生じた疲れ
それゆえ、たとえ逆境に遭遇したとしても錯誤と見なす
それが菩薩の実践である

25.
悟りを得るために、この身さえ犠牲にする必要があるのなら
外界のものなどなおさらに
見返りや成果を期待せず布施を行ずる
それが菩薩の実践である

26.
戒律を守らずして自利の完成はない
それでいて利他を成し遂げる願いをもっても笑われる
それゆえ、世俗の欲を放棄して戒律を遵守する
それが菩薩の実践である

27.
善という財を求める諸菩薩を
傷つけてしまう者もまた、尊い宝も同然である
それゆえ、あらゆる者に恨みをもたず忍耐を修習する
それが菩薩の実践である

28.
自利のみ得ようとする声聞、独覚も
頭に移った火を消そうとするように努力するのを見るならば
すべて衆生のためになる功徳の源泉となる精進に励む
それが菩薩の実践である

29.
「止」を伴ったすぐれた「観」が
煩悩を克服するのをよく知って
四無色定を超越した禅定を修習する
それが菩薩の実践である

30.
智慧のない五つの波羅蜜だけならば
完全なる悟りを得ることはできない
それゆえ、波羅蜜行を伴った三輪無分別智を修習する
それが菩薩の実践である

31.
自らの錯誤を自らが正さないなら
行者が非法をおこなうことになりかねない
それゆえ、常日頃より過ちを見抜いて捨てる
それが菩薩の実践である

32.
煩悩にかられて菩薩の方々の
過失を非難するならば、結局自らを衰退させるだけ
それゆえ、大乗者の過失をいっさい口にしない
それが菩薩の実践である

33.
富と名声にかられ争いとなり
聞・思・修の行が疎かになる
それゆえ、親友やご支援くださる人々に対しての甘えを捨てること
それが菩薩の実践である

34.
汚い言葉が他者を動揺させ
菩薩行の在り方を弱めることになる
それゆえ、他者の心を害するような汚い言葉を捨てること
それが菩薩の実践である

35.
煩悩に慣れれば制することが難しくなる
念(記憶)と正知という対治の刃を手に取り
欲望などの煩悩が起こるやいなや刈り取ってしまう
それが菩薩の実践である

36.
要約するなら、
どこでもどんなときも何をしようとも
自らの心の在りようがどんな状態であっても
常に念(記憶)と正知を利用して利他を成し遂げようとする
それが菩薩の実践である

37.
以上のように精進(努力)して、成し遂げられた諸善を
限りなき衆生の苦しみを取り除くため
三輪無分別智により、
悟りを得るために廻向すること
それが菩薩の実践である
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伝統主義

2016年04月29日 | 仏教・思索
私は、宗教や「真理」を求める時に、いわゆる「新しい思想」は不要、という立場です。今まで人類が積み上げて来た思想的・宗教的営為の蓄積はたくさんありますが、それらでほぼこのような世界の解明は足りている、と思っているからです。
これをして「伝統主義者」と名付けられるのであれば、私は喜んで「伝統主義者」の看板を背負いましょう。

ただし、伝統主義というのは、いわゆる「伝統宗教」「伝統思想」を何の反省もなく継承・墨守していくこととは、違います。伝統主義者は、伝統を超越していくために、伝統主義の立場に立つのです。

仏教で言うと、たとえば「宗派」という伝統があります。
私たち僧侶は、大抵の場合、いずれかの宗派に属しています。真言宗や天台宗であれば1200年、鎌倉新仏教であれば800年。綿々と続いてきた伝統の中に属しています。
大切なことは、それぞれの伝統の中に立ちつつ、それを墨守するのではなくて、その伝統的世界観をしっかりと学び、他の伝統的蓄積をも横断しつつ、伝統の中で・伝統の中から、現代的課題に応える方向性を、時代とともに常に模索していく必要がある、ということです。

「新しい聖典」は必要ない。世俗の理論に過度に頼ったり迎合する必要もない。けれど、新しい方向性は常に必要とされる。それは仏教の全伝統を視野に置いて、限定された「私たちの伝統」を墨守せずに、常に全体的な仏教すべてを包括して自分自身の中で体系化しつつ歩む、ということが必要です。

思えば祖師方も、教判という作業を通して、このような試みをされて来たのだと思います。だからこそ、それぞれの時代に力を持ちえた。
だから、聖典は不変であったとしても、教判的作業・伝統の再構築再解釈は、個々の僧侶が常にしていく必要があるのだと思います。それは自分の属する宗派を否定することでは決してなく、むしろ自己一身に仏道を完成させるために必要なことなのだと思います。

今の時代、仏教は日本だけではなく、中国仏教・チベット仏教・インド仏教・テーラ、様々な「伝統の蓄積」にアクセスできるようになっています。これらの伝統も視野に置きながら、それぞれの「限定された伝統」に立脚しつつも、更にその内実を豊かにしていくこと、それが大切なのではないかと思います。
もちろんすべてを「同じ比重」で学ぶことは難しいし、私の能力では無理です。ですからある程度の取捨選択はありますが、少なくとも全体的視野は欠かせません。

これは決して「新興宗教」でもないし、徒に「新機軸を打ち出す」というものでもない、まさに伝統を超越していくために伝統主義の立場に立つ、ということなのだと、私は考えています。

私個人としての方向性も模索中でありますが、少なくとも真言密教・浄土密教信仰の伝統に縁あって置かれた者として、その立場を認識しつつ、たとえば阿弥陀信仰の系譜をチベットや中国の伝統にも放り込み、日本の宗派に流れて来た「限定された真言宗学・浄土信仰」に単純にそのまま依るのではなく、釈尊以来の全仏教の流れの中で密教的世界観・肌感覚を大切にしながらも、丁寧に自分の中で「伝統」を再構成しつつ積み上げていく…ということができればなぁ、と。
そう思っています。

そうして幸いなことに、真言宗はそういう立場を許容してくれる宗派だと思っています。
全体としての真言密教的世界観を受け容れている限りにおいて、具体的な個々の思想内容によってすぐさま異端審問のように正統異端だの異安心などと言って多様な立場を排撃するようなことはせず、その多様な思想を活かしつつ、内容を豊かにしてきた伝統があります。
そのような伝統は墨守に値する伝統だと思いますが、私が真言宗に属しているというのは、誠に僥倖であったのだと最近、よく思う所です。
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源信の発心

2016年04月24日 | 仏教・思索
源信と言えば『往生要集』などで有名な高僧ですが、
皇族・貴族の前で「御八講」という法会の講師を立派に勤め、
それを母に報告した時に、母から送られて来た手紙に、こういう歌がありました。

後の世を 渡す橋とぞ 思ひしに 
世渡る僧に なるぞかなしき


昔の母というものは立派であった。

源信はこれを機に、隠棲したと伝えられています。

私たちも、「良い事」と信じて疑わぬことをして世渡りしていますが、
僧侶として、何が大切か、これは世俗の倫理とは少し違うのではないでしょうか。
御八講の講師となるのがそれほど悪い事とは言えません。
皇族にも貴族にも、法を説いていくことは大切です。
しかしそこに、それを栄誉や名誉と感じる隙はないでしょうか。
そのような立場を求めてしまう事はないでしょうか。

似たようなことは、今の世にもたくさんあります。
昔よりも、そういう事は多いかも知れません。
社会的評価は大切ですが、それを求め始めたら堕落です。

後の世を渡す橋になっているか、世渡る僧になっているのか。

それは世間の評価とはまったく別の、内心にしかわからないことです。

僕自身、どうだろうか。

よくよく、戒め考えたいものです。
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人は死んだらどうなるか

2016年04月15日 | 仏教・思索
玉城康四郎先生の『冥想と経験』という本に、「人は死んだらどうなるか」について書かれた部分がある。
これはひとつの見方であり、是とするか否とするかは個々人の自由だけれど、ある意味で「仏教学者がここまで書くか」というものであって、最近の文献学者に足りない「仏教徒としての気合い」を感じる。
ひとつの参考として、僕がまとめながら、所感込みで記してみたい。

まず、玉城先生は「中有」について述べる。中有は、現世と来世の中間の生命の状態の事。

玉城先生によると、中有は非活性状態でなく一種の活性状態で、微細な体を有する。それは五感によってとらえられない微細なもので、妨げなくあらゆる空間を自由に移動でき、男女のセックスに飛び込んで生有に移行する…とする。
そしてそれは、業力によって下等な生命体になることもある。
この微細なものをたとえば「魂」と呼んでもいいけれど、これが「生き通し」である。しかしこれは迷いの世界であり、輪廻の実体はこの微細な身体である。
ここは生半可な修行では光のまったく通らない、見通せない「もの」である。意思や力ではどうしようもない部分。しかし極限状態や、冥想によってその根源のものが「吹き通しになる」場合がある。
これをなさしめるのが「宇宙の原初よりわたしの魂を目覚めさせようとする力」である。
これが、生死を貫く宇宙の生命である。

…というような趣旨です。

「宇宙の原初よりわたしの魂を目覚めさせようとする力」というのが、まぁ、浄土教なら阿弥陀如来の本願力になるのだろうし、真言宗なら如来加持力になる。そしてその力を受け止める僕たちの努力や姿勢というものが「行」になる。
ボーっと座ってるだけでは、きっと「吹き通し」にならない。修行が必要だ。

以我功徳力。
如来加持力。
及以法界力。
普供養而住。



ただまぁ僕としては、まずまず穏当な見解だとは思うけれど、「ではどうして法事や回向が必要なのか」という点については、これだけでは説明不足ではあるな…とも思う。

そのあたりについては、僕の過去ログをご覧ください。

▼ 法事は何のため?
▼ 無我と霊魂
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