大乗仏教主義!

諸大乗経顕道無異
大乗仏教法師のブログ
記事に関するコメント大歓迎です!

今生の仕事

2012年02月04日 | 仏教・思索
最近、人と関わりたい・話をしたい・社会に参画したいと言う欲求がますます減退して来ました(政治や社会問題を外野から高みの見物…ってのは好きですけど)。まぁ、昔からそういう傾向はありましたが、ここのところそれが昂進してるような。
最低限の社会生活だけ営んで、あとは隠遁しちゃえば個人的には楽になれて良いなぁと思いつつ、しかし大乗仏教者としてはどうなのかと。そこが悩みどころです(-_-;)
時流に乗れず、引き籠り体質で、あらゆる「つきあい」は御免蒙る、本だけ読んでればいい…という社会不適応者の私ですので、多分、大乗仏教者としては失格に近いのでしょう。ただまぁ、幸いなことに人間自体が嫌いということでもないですし、仏教の話をするのだけは相変わらず好きなので、つまり私の「仕事」はそこなんだろうな、と。
勉強して、実践して、伝える。
時代遅れと言われても、需要がないと言われても、地味に修行し、しつこく勉強し、飽きずに繰り言の如く話していく。私自身の行も学も絶望的に不十分で、これでいったいに何を話すのかと悲しくなる時もあるのですが、どうせこれしか出来ないわけだし、今生の時間もあるだけしかないわけですから、まぁ、コツコツやることにします。
Comments (2) | 

三蔵の義

2012年02月01日 | 仏教・思索
唐代の円敬という僧侶の『唐故宝応寺上座内道場臨壇大律師多宝塔并序』という長ったらしい題目の本に、「三蔵」を解説した文があります。

三蔵に三義あり。
内は定慧戒を為し、外は経律論を為し、
陀羅尼を以て之を総摂す。


簡潔至極ですが、とても素晴らしい文です。
まず、三蔵法師と呼ばれた歴史上の偉大な僧は、単にそれが学解にとどまるものであれば偽者(あるいは半端者)であり、およそ「真実の三蔵法師」たるものは、学解のみならず持戒・修行実践を踏まえて智慧を把持した者である筈だ…という事です。
往々にして偉大な仏教学者が偉大な仏者でない場合があるのも、まさに「戒定慧」を兼備していないところにその原因があるのでしょう。
もちろん一方で、「戒定慧」を具備していても「経律論」を軽んじてそれに通じていないなら、「吾ただ独り」の行者としては良くとも、決して大乗の法師とは言えません。法師とはまさに、「言葉によって他者に正法を説く者」の謂いですから。
いずれにしても、理論と実践の相即がここに示されています。

最後の「陀羅尼を以て之を総摂す」の部分、これは密教の基本的な考え方に連なるものですが、念仏にしても座禅にしても題目にしても、あるいは他の様々な修行にしても、専一にまた至心にそれらを実践する「事」のうちにこそ慧が立ち上るのである…という事が根本だと思いますから、そういう意味では通大乗仏教的な思想として読んでもいいと思います。

短い文章ですが、味わい深いですねぇ。
Comments (2) | 

犀の角

2012年01月31日 | 閑話休題
同じ心ならん人と、しめやかに物語して、をかしきことも、世のはかなき事も、うらなくいひ慰まんこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違はざらんと向かひゐたらんは、ひとりあるここちやせん。
たがひに言はんほどの事をば、「げに」と聞くかひあるものから、いささか違ふ所もあらん人こそ、「我はさやは思ふ」など、あらそひにくみ、「さるから、さぞ」ともうち語らはば、つれづれ慰まめと思へど、げには、すこしかこつかたも我とひとしからざらん人は、大方のよしなしごと言はんほどこそあらめ、まめやかの心の友には、はるかに隔たる所のありぬべきぞ、わびしきや。

〜徒然草・第十二段〜
Comment (0) | 

3年先の目標

2012年01月30日 | 仏教・思索
国訳一切経や新国訳大蔵経。
いくら国訳とは言え、今の私ではこれらを現代語と同様にスラスラ読む…というわけにはいかない。どうしても理解するにはそれ相応の時間がかかります。
そもそも仏典に限らないけれど、経書にしても史書にしても、漢籍というものは背景知識が命ですから、スラスラ読めない原因のひとつは私の知識不足にあるのは間違いありません。そういう意味で、周辺知識の不足が痛く、悲しい。
同様に、訓読体のリズムや規則が血肉になっていない…というのも問題。

なるべく必要な知識を十全に身につけて、現代語と同程度のストレスで国訳を読みこなせるようになりたいものです…というわけで、「3年以内に国訳仏典を読むストレスを現代語並にする」という目標を立てました。
もちろん仏典ですから、小説みたいに読めるわけではないのですが、少なくとも現代語の専門書を読むのと同程度にはしたい。そうしないと、いちいち読むのに時間がかかって結局は死ぬまでに何ひとつまともに読めなかった…となりかねませんから…。
そのためには、基礎的な漢文のお浚いも含めて訓読体のリズムと流れをもっと体に馴染ませていくことと、仏教教理・専門知識の蓄積。このふたつを改めて徹底してやっていきたいな…と。
これが出来るようになれば、儒道史書その他の漢籍の学習にも資するわけだし、とにかく3年間は地道にコツコツ頑張って行きたいと思います。今まで以上に。
Comment (0) | 

厄除け薬師

2012年01月25日 | 寺のこと
そろそろ節分の時期です。
当寺では、2/8に「厄除け薬師法会」を行います
厳密には節分行事ではないのですが、古来より「厄除け薬師」として信仰されて来た御本尊ですので、御開帳日の8日を期して、厄除け法会を行っております。
厄除け札を家族単位でお出ししていますので、ご希望の方はなるべく早く、前日までに御連絡下さい。一家族につき2000円の志納をお願いしております。
当日は午後1時より、参詣の方とともに大数珠繰りを行い、1時半から法話・茶話を致しております。
Comment (0) | 

漢学塾

2012年01月24日 | 閑話休題
江戸時代から明治初期にかけて、日本各地に「漢学塾」というものがありました。
官立の昌平黌や各地の藩校では朱子学が教授されていましたし、大阪・懐徳堂や京都・古義堂、山口の松下村塾などの私塾も各地に大小様々あったわけですけれど、現在、すべて見る影もなく消滅しています。
もちろん東大や阪大、あるいは二松學舎大など、その原点に漢学塾の存在がある大学はありますが…それはもはや往時の「漢学塾」とはまったく違います。
それでも時々「漢学研究会」的なものがありますけれど、大抵はビジネスにどう論語を活かすのか…とか、易占絡みのものか…そういう「実利的」方向のもの、或は安岡正篤の本を読んだりする程のことで、とてもじゃないけれど朱子学だの陽明学だのの世界観的な部分まで扱っていないようです。
というか、そもそもそういう「場」すら上方・東京以外にはないわけで。

私はあくまで仏教者ですから、宗教的な意味で必ずしも朱子学だのを学ぶ必要性があるわけじゃないんですが、しかし漢学の素養は、東亜の仏教者として当然の教養として知っておくべきです(そうしないと、俯瞰的に漢訳大乗仏教世界を総覧できない)。それを学ぶ場が、かつての寺院や漢学塾だったのだと思いますが、今やどちらもダメ。寺院僧侶に漢学の素養はなく(漢文訓読の素養すらも)、塾は皆無。
私も現代教育を受けた者ですから、当然の如く、素養ナシ。

これじゃいかんと思って、以前から片手間に勉強はしているのですが、愈々このままじゃダメだと、最近になって本当に勉強しないとな…との気持ちが強くなっています。
とは言うものの、山口にそんな場があるわけもなく、完全独学の茨の道が眼前に続くだけ…。

しかしそれにしても、漢学・漢籍というのは宝の山なんですけれどね。
千年以上も日本の骨格を形成してきた漢学(広義の国学もそうですし、もちろん漢訳仏典に基づく硬質な日本仏教も含め)を捨ててしまって表層的な事象や経済性に翻弄されるだけの現代日本が、絶望的なくらい精神性の薄っぺらい国になったのも当然です。
時代は変わると言いますが、温故知新とも言います。過去と断絶した現在などあり得ないのに、それを敢えてしてしまうと、根っこもなく茎と花だけを愛でるような、脆弱な人間しか生み出されないことでしょう。
自分を土着の土から離して、別の根っこに接木してしまうなら別ですが(その是非は問いませんが、現実として現代日本人は既に土着の土から掘り出されてしまっていますので、いずれにしても根を下ろすべき土を見つけなくてはなりません…個人として、日本民族として、日本国として、東亜また世界の一員として…)。
Comment (1) | 

覚性還本

2012年01月23日 | 仏教・思索
私が死を迎えるその時は、目と鼻の先にある。
しかしだからと言って、長生を望むべきだろうか。

宇宙はいずれ終焉するし、その遥か以前に太陽は冷たくなる。
太陽が冷たくなるよりも以前に地球は焼け落ちるだろうが、
その瞬間を人類が目にすることはないだろう。
人類が滅ぶのはそのもっともっと以前の事だろうから。
そして私の死は、見える距離だ。
如何に長生したところで、時間の問題に過ぎない。

波はどれほど大きくとも、いつか凪になり、大海は鏡面となる。
虎は死して皮を残し、人は死して名を残すとは古人の言。
しかし宇宙の 否 地球の 否 人類の 否 
「この私の」死という現実の前に
いったい何程の意味があろうか。
積み上げたものはすべて、移り変わり、滅する。
モノもカネも名誉も友人も家族も愛も悲しみも誇りも。
人生とは何か…生きるとは何か…なぜいのちがあるのだろうか。
いずれすべてが
掛値なく すべて が夢幻と消え、跡形もなくなり、見る者もいなくなる時が来る。

静寂。

その静寂を感じる者はどこにもいないだろう。
誰も感じない静寂など、果たして静寂ですらない。

この人生は、それだけでは無意味だ。
何をなすべきか。
移りゆくものは美しい。愛しい。しかしそれだけでは無意味だ。
何をなすべきだろうか。

静寂の根源にあるもの、存在それそのもの、見る者なき主客孤絶の__

「それ」…という指示代名詞で指示せない「それ」 __
それをこそ覚しそれに還ること。
還るとはいえど、それは不動の還帰行。
それこそが、移りゆく無常の宇宙の本当の姿だ。
それこそが、移りゆく無常の我々の本当の姿だ。
それを知らぬなら、諸行は果てしなく美しい幻花に過ぎない。

幻花を愛でるのをやめよ。
幻花を通して実花を看よ。
実花を看てこそ幻花は真実に輝く。


移りゆくものは、なんと美しいのだろう!
Comments (6) | 

社会思想社

2012年01月21日 | 閑話休題
かつて社会思想社という出版社がありました(2002年に倒産)。まぁ、名前の通り確かに「そっち系」で、左翼がかった書物も出していたのですが、この出版社の命だったのは「そっち」では決してなく、紛れもなく「現代教養文庫」シリーズの存在でした。
小学生・中学生時代には私も随分とお世話になったものです(FFシリーズや雑誌『ウォーロック』含め)。
特に山室静・井村君江の北欧神話&妖精学関係等、ヨーロッパ文化系の知識の基礎は、この時期にこのシリーズの本から吸収したものが大きいんですが、特に山室静『サガとエッダの世界』は本当に素晴らしく、実は仏教に関心を持った原因のひとつはこの本にある、と言っても過言ではありません。まぁ「風が吹けば」の類で、話すと長くなるのでそのあたりの話は省きますが。

で、何が言いたいのかと言うと。

もちろん社会思想社は倒産していますので、現代教養文庫も絶版になり、入手困難になっています。古書店ではたまに見かけますが、御世辞にも良い状態といえるものは少ないです。
が。
実は文元社という出版社が「教養ワイドコレクション」という名前で、現代教養文庫(の一部)を復刊させています。良書が軒並み闇に葬られていくだけの昨今、なんともまぁ嬉しいことです…が、高い。価格設定が高すぎる…。
現代教養文庫は基本、500円〜800円まででしたけれど、復刊されたそれは3000円〜4000円が中心価格帯。ちょっとこれはなぁ…そのくらいの設定じゃないと採算も採れないんだろうけど…。
子供でも気軽に買える学術入門書、というのがかつての私には嬉しかったんですが、この価格設定では子供は無理でしょうね。それは少し残念なんですけれど、まぁ、それを差し引いて考えてもやはり素晴らしい事業ですし、こういう良書は息長く出版され続けていって欲しいものです。
Comment (0) | 

宗教と文学

2012年01月19日 | 仏教・思索
評論家の宮崎哲弥が近著で、「宗教的な方向に向かう人間と、文学をやるような人間はクロスしない」的な発言をしていました。
ま、なんとなくわかる気はするんですが…。
巷には宗教文学という分野(?)があって、古典は別にしても、例えばドストエフスキィやトルストイ、あるいはジッドもそうだし、日本だと宮沢賢治や倉田百三、遠藤周作、三浦綾子…まぁ、色々といるにはいますが…ただ、宗教文学を書いている人が宗教的人間とは限らないですし、宗教的人間が書くものが果たして「文学かどうか」というのも難しい問題ではあります。実は信仰告白書の類ではないのか、という見方もあるわけですから。
そもそも宮崎哲弥の言う「文学と宗教」の定義自体が不明確ではあるのですが、具体的なカタチ自体というのではなく、両者の抱えている性向・世界認識の相違というレベルでの話であれば、それは何となく、わからなくもないです。
私も高校時代は相当に近現代文学(日独仏露&SF)を読んでいましたが、ある時期からパタリと読まなくなりました(古典は読みますけど)。何というか、(少なくとも近現代の)文学と宗教の空気感・世界観の違いは、確実にあると思います。ただ、どんな人にも、どんな作家にも、この両者が絶対にクロスしないかと言われると…それも難しいけれど。
Comment (0) | 

復興バブル

2012年01月19日 | 時事関連
仙台が「復興バブル」というニュースを見た。

夏以来、国分町という歓楽街がバブル期以来の大繁盛で、連日満員でドンペリは入るしカネ払いも上々、キャバクラの新規出店ラッシュ、ホステスの時給も東京並の平均3500円に上昇。水商売業界はウハウハのボロ儲け。また高級時計や外車の販売も絶好調で、百貨店の売り上げも爆上げ中。
その理由としては、まず建設復興需要の増大でカネが仙台などの都市部で回り始めているかららしいけれど…まぁ確かに、「消費も復興支援だ」とばかりにマスコミも散々煽って来たわけだし、事実そういう側面も否定はできないんだけれど…うーむ…バブルねぇ…浮ついたカネとモノの洪水…ねぇ…単なる「復興支援」とは違う臭みを感じざるを得ませんけれども。

なんだかこういう派手な動きを見るほどに、私はうら寂しい感じがします。
それにしても、こんなんで良いのですかね…復興支援を錦の御旗にしてればこういう風潮も肯定されるのでしょうか…私にはよくわからん。
「東北の光と闇」という特集だったんですが、どうしても私はバブルの仙台が「光」には見えないんですよね。被災地と別の意味で、仙台もかなりの闇の中に感じました。仙台は…というか、「人間は」と言うべきかも知れませんが。


…私は現実逃避して本でも読みます。
Comments (2) |