vikalpita ~波浪~

仏教に関すること、お寺の行事、法話…

議論無用の文証

2016年07月17日 | 仏教・思索
前回は「議論は無益有害」というテーマで、釈尊の聖句である『スッタ・ニパータ』からの文章を紹介しましたが、高祖弘法大師も同様の考えを持っておられました。
その言葉は、『性霊集十「理趣経答書」』にたくさん書かれています。

ざっと列挙してみましょう。



面の妍媸を知らんと欲わば 鏡を磨かんには如かじ
金薬の有無を論ずべからず

…………

心の海岸に達せんと欲わば 船を棹ささんには如かじ
船筏の虚実を談ずべからず

…………

毒箭を抜かずして空しく来処を問い
道を聞いて動かずんば千里いずくんか見ん

…………

双丸は以て鬼を却るに足れり
一匕は以て仙を得つべし
たとい千年本草大素を読誦すとも
四大の病いずくんぞ曽て除くことを得ん

…………

百歳八万の法蔵を談論ずれども
三毒の賊いかんぞ調伏せんや

…………

妙薬匧に盈てども嘗めずして益なし
珍衣櫃に満つれども著ざればすなわち寒し

…………

阿難多聞なつかしども是とするには足らず
釈迦精勤なつしかば伐柯遠からず



難しい単語もありますが、要は、「百歳八万の法蔵を談論ずれども 三毒の賊いかんぞ調伏せんや」…これに尽きます。
議論は有意義な場合ももちろんありますが、それ以上に有害無益な場合がとても多い。
「論議」という伝統も仏教にはあり、たとえばチベットや高野山、比叡山でも残っていますが、それも相手を選びます。自己顕示、勝敗、優劣などに毒された「議論」であるのなら、それらはすべて無駄です。法を明らかにするために「のみ」なされる論議には価値がありますが、現実の議論の99%はそうではありません。
その証拠に、議論によって信が「全体として」深まるよりも、怒りや惨めさ、嫌な思いが残るだけの場合がどれほど多いでしょうか。
真理探究の議論の「つもり」であったとしても、その意見の披瀝がエスカレートして優劣を競うようになり、相手を潰すことが目的となり、意見ではなくて人格攻撃に発展していくことも、とても多いように感じます。
自分がそうでなくても、相手にそういう気持ちを誘発してしまうものであれば、有害なものです。

有意義な、本当の「論議」「宗論」というものは、大切です。
でも、それは「いわゆる議論」にはほとんど見られない稀なものなのです。
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見解と論争

2016年07月16日 | 仏教・思索
論争は、無益・無駄です。

私たちは何事につけ「見解」「意見」「主張」があり、その相互合意や論争、摺り合わせ、時にごり押しによって、日常を生きています。宗教・思想・政治などというものでなくとも、日常のちょっとした行為や思いというものも同じです。「好き嫌い」もそうです。

そういうものが日常生活に存在することは避けられないし、時には「必要なこと」でもあるかも知れません。
しかし、そういう「見解」というものをよく考えると、そこに「高慢・自己顕示」の心はないでしょうか。「勝ち負け」の心はないでしょうか。自分の見解を否定されても心穏やかにいられるでしょうか。相手の心も穏やかに保たせることが出来るでしょうか。「自分」という心が「見解」を覆っていないでしょうか。

もしそのような心が少しでもあるのなら、見解を持って論争することは、無益有害です。


『スッタ・ニパータ』、釈尊の金口。


895
これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、──かれらはすべて他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。

896
(たとえ称賛を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることができない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、とわたしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。

897
すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴くのであろうか?

898
戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、誓戒を受けている。「われわれはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、<真理に達した者>と称する人々は、流転する迷いの生存に誘きこまれる。

899
もしもかれが戒律や誓戒を破ったならば、かれは(戒律や誓戒の)つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。

900
一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なき(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄であると」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。──安らぎを固執することもなく。

901
あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

902
ねがい求める者は欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も存しない者、──かれは何を怖れよう、何を欲しよう。
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煩悩即菩提

2016年07月15日 | 仏教・思索
悪を制する時即ち善を成す
是の故に煩悩なければまた菩提なし
              ~異本即身義三


煩悩即菩提というのは、「あるがままでいい」ということではない。
悪を制する時即ち善を成す、という以上、悪は制するのである。
煩悩を制して、菩提があるのである。
そうして、煩悩は求めるまでもなく、現前しているのだから、
我々はむしろその機縁を喜び、それを如何に超えるのか、を考えなくてはならない。
そして超えていけば、煩悩も菩提も同じ場所にあり、違うものではない。

迷悟我に在れば 発心すれば即ち至る
                ~般若心経秘鍵


同じ心の海、真如の海、如来海ひとつであり、
ただ波立つか立たぬか、それのみ。
煩悩波と菩提海は別にあらず、同一にあらず。
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信は荘厳なり

2016年07月11日 | 仏教・思索
私が高野山にいたときに言われたことのうちで大切にしている言葉として、

信は荘厳なり

…という言葉があります。

「信心・信仰」というと「心の世界」だと思われがちだけれども、それだけではない。荘厳(しょうごん)、つまり「きちんと仏前を整えること」こそ大切だ、ということです。
仏壇にしても寺院の本堂にしても、きちんと整える。それらひとつひとつには、すべて「意味」が込められている。「形式」は単なる「カタチ」ではなくて、森羅万象のあり方を表す「イコン」であり、それ自体が「真理」そのものである、ということです。

私たちは、心があります。その心というものは、現実世界に働くときには必ず何かしらの「カタチ」「働き」として現れてきます。「コトバ」というものも、形式です。立ち居振る舞いというものも、形式です。服装や慣習、文化、表情、すべて形式に則って、人の「思い」というものが現実に現れてきます。
それらはとても大切なもので、「ココロが大切だから形式はどうでもいい」とは、なりません。

仏法・世界の真実というものは、目に見えないものです。不可視です。それが根本的に大切なことは言うまでもありませんが、それらが「慈悲」の働きとしてこの世界に現れて来る時、それは何かしらの「カタチ」を伴っているのは当たり前です。
その「カタチ」の表現、約束事として、たとえば仏壇や本堂荘厳というものがあるわけです。
表裏一体なのです。

ですから、「カタチ」をいい加減に、雑に考えるという事は、その根底にあるココロというものも、知らず腐らせていき、いつしか「いい加減」なことになってしまうものです。
逆に、形を丁寧に整えることにより、ココロの世界も整えていくことが出来ます。

無論、ただただ形式だけやればいい、ということではありません。

その形式・カタチがしっかりとココロの世界と連動している、実は根っ子が同じものなのだと理解して、信じて、丁寧に整えていくこと。これが大切です。

カタチには色々なものがあります。文化や言語というカタチに色々なものがあるのと同様、仏教の心を示す形式にも、色々なカタチがあります。「このカタチでなくてはならない」という厳密な決まりは、ありません。しかし、フランス語と日本語と中国語とタガログ語は違っていても良いのですが、それぞれに文法や単語、文化的背景があってひとつの体系を為しているように、様々な「荘厳のカタチ」にも、それぞれに体系や意味があるものです。

それぞれご縁のある宗派の荘厳の仕方、あるいは自分なりの荘厳の仕方があるでしょう。
その表面上の違いはそれは結構として、いずれしても、丁寧に、「形式と言うものは心を示すものだ」と考え、ゆめゆめ「いい加減に」考えないようにしてください。

カタチは、何ごとにつけ、大切です。
ただしそれは豪華にしろとか、大きいほうが良いとか、そういう事ではまったく、ありません。念のため。心と形式は連動していて、丁寧に考えてそれを扱う、ということに尽きます。さこに豪華さやモノの大小はまったく関係ないのです。

「心の時代」「ココロがあれば形はどうでもいい」などという言葉に、惑わされないでください。
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生死観の変化

2016年07月06日 | 仏教・思索
近年、生死観(一般には死生観と言いますが、仏教では生死観~しょうじかん~です)の変化が起こってきたと言われます。葬儀を取り巻く形式はもちろん、意識の変化も大きい。
色々な要因がそれには考えられますが、土葬から火葬への移行、というのもそのひとつかな、と。

もともとインドなんかと違って即物的現世的な日本人ですから、遺体にはこだわりを持っていて、生死観にも遺体の存在が大きな影響を与えていたんじゃないかと。
だとすると、土葬と火葬は、まったく違う。生死観がそれによってかなり変わるのも不思議じゃありません。

考えてください。土葬と火葬の違い。

今はほぼ火葬(厳密には準火葬式納骨形式)ですが、焼いたあとは遺骨です。わずか一時間ちょっとで、骨と灰に変わります。そして以降は、基本的にはそのままです。明確な「境」をもって、区切りがあります。生きてる→死んだ、というのが、敢えて言うならば可視的にも明確。

土葬はどうでしょう。
それは、生きている時のままの姿で、そのまま土に埋めます。ということは、一定の時間をかけて、その姿が腐り、虫に喰われ、崩れていくわけです。実際にその過程を見なくとも、遺族はどうしたって「あの人の姿が」今「どうなっているか」を、想像しないわけにはいかない。
その崩れ行く過程が、生から死へのプロセスそのものだったはずです。イザナミの例を出すまでもなく、それが日本人の生死観の基礎だったと思います。

これが火葬の普及で一気に崩れた。

インドや欧米のように明快な宗教的世界観があるならともかく、日本の場合はだいたいがフィーリングの世界です。そしてそのフィーリングは、極めて モノ というのを大切にするというか、可視的なモノと不可分に精神性を考える文化であった…。

そのもっとも巨大な部分であった生死の世界、葬送の世界は、ほんの60年かそこら前に一気に普及が進んだ火葬という制度により、急激な変化を起こしてしまった。

そしてこれはもう、不可逆的な現象になったと思う。
お寺はこういう変化を意識してますか、古いやり方を固守し続けることは、もう無理なんですよ。

さて、ところで。

仏教は、遺体や遺骨についてどう考えて来たでしょうか。
固定観念を離れて、そもそも、という所から、もう一度、仏教の生死観というものを見直してみませんか? そうしたらきっと、現状は嘆くべきものとばかりは言えない、ということにも気付くところがあるかも知れませんよ。

日本において火葬を肯定的に考えていたのは、もともと我々仏教者です。
ある意味、仏教的な環境が図らずも出てきた、とも言えるわけで、この過渡期混迷の時代にこそ、明確な仏教の立場をきちんと打ち立てて、一般の方の安心を確立していく。そういう役割を、僕たちは自覚的に担っていく必要があるのだと思います。
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Facebookについて

2016年07月06日 | ★閑話休題
今まで、仏教関係の話題はFacebookに書いてきたのですが、意義が見出だせなくなり、またかなり疲労してしまいましたので、今後はこのblogでのみ、仏教のトピックを上げます。
Facebookのアカウントは仏教以外だけに限定して使います。それに伴い、仏教関係の方はじめ、野球関係以外の友達については、連絡の上でほぼ例外なく全員、外させていただきました。申し訳ありません。
仏教関係の方については、当blogをチェックいただけたら幸いです。
また、Facebookでは一切、仏教のトピックはあげませんし、話に絡むこともありませんが、それでも…と言ってくださる奇特な方は、改めて申請していただけたら喜んで承認させていただきます。

宜しくお願いいたします。
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月輪観

2016年06月28日 | 仏教・思索
『月輪観法』。

定式のやり方もありますし、数息観や阿息観と一緒にやる、あるいは座法、「阿字観」との関係など、突っ込めば色々と突っ込んでいけますが、まぁ、この際そういうことは忘れましょう。


お月さん。

満月の。

そのお月さんを縁として、この私の心の本質と菩提心とは同じものなんだ、ということ。
菩提心ってのは、まぁ、「さとりの心」「さとりを求める心」、色々と言われるけど、ここでは「さとりの心」「仏のいのち」「仏性」「法性」…まぁ、「でっかい、大きな、全部を包み込む智慧と慈悲と光いっぱいの、仏さまの心」と思ってください。
その心は、実は「この私の心と同じ」ということ、それを実感するための観法が、月輪観です。

とっても、シンプル。

シンプル過ぎて拍子抜けしますか?

まぁまぁ、まず、仏さまに礼拝してみましょう。

あれ、ご本尊…?

あー、「月輪観本尊」というものがあります。黒地に白い丸の描いてあるもの。



ない?

あぁじゃあ、仏壇の前で良いですよ。

んで、イメージしてください。

目の前2mくらい先、目線よりちょっと下に、真っ白い丸がある…と。

ホンモノの月をイメージできるなら、それでもいいですよ。

いっそ、満月のお月さまの下でやってもいいかもね。



まぁとにかく、そうやって、本尊に対して、礼拝です。

おん さらばたたぎゃた はんなまんな のうきゃろみ 
おん さらばたたぎゃた はんなまんな のうきゃろみ
おん さらばたたぎゃた はんなまんな のうきゃろみ

これは、すべての如来の御足を礼拝し奉ります、という意味です。
そうして、三度、礼拝します。

そして、ゆっくりと座ります。
椅子でもいいし、正座でも、座禅みたいな座り方でも、とにかく楽に。
出来たら、背中が伸びるような座り方を。

で、お腹の前で、軽く円を作って…そう、座禅のアレです。

そして、

「我、自心を見るに形月輪の如し、如何が故に月輪を以って喩とするならば、謂く、清月自明の体は、即ち菩提心と相類せり」…と思いを定めます。つまり、「私の心はお月さまのようだと考えます。何故かというと、それは菩提心・仏性と似た姿をしてるから」…と。

で。

ここが私のやり方のミソですが、興教大師覚鑁の「月の十徳」を使って、観想…瞑想します。
「月の十徳」というくらいですから、十の文章があります。
観想では、全部は使いません。どれかひとつです。
どれを使うかは自由です。毎日順番にやってもいいし、十面体サイコロを使っても結構。決め方は自由です。

姿勢はそのまま、手もそのままで。

以下の十。

一、円満 月の円満なるが如く、自心も欠くることなし。
二、潔白 月の潔白なるが如く、自心も白法なり。
三、清浄 月の清浄なるが如く、自心も無垢なり。
四、清涼 月の清涼なるが如く、自心も熱を離れたり。
五、明照 月の明照なるが如く、自心も照朗なり。
六、独尊 月の独一なるが如く、自心も独尊なり。
七、中道 月の中に処するが如く、自心も辺を離れたり。
八、速疾 月の遅からざるが如く、自心も速疾なり。
九、巡転 月の巡転するが如く、自心も無窮なり。
十、普現 月の普く現ずるが如く、自心も遍く静かなり。

どれかを選んで、好きなだけ、月と自分の心を交流させてください。
月は、仏さまのいのちです、心、光です。

暫くしましたら、次は、その月と自分の心をひとつにして、大きく大きくしていきます。
宇宙いっぱい。

小さく小さく、胸の中に宇宙ぜーんぶを収めてください。

また大きく大きく、小さく小さく…。

これを広斂観と言います。

姿勢はそのまま、手もそのままですよ。

そして最後に自分の胸にすべてを収めて…光いっぱいになりましょう。

それからゆっくりと、「光いっぱい」の仏さまのマントラを唱えましょう。
三遍、あるいは七遍。

光明真言でもいいです。おんあぼきゃべいろしゃのう…。
阿弥陀小呪でもいいです。おんあみりたていぜいからうん。
六字名号でもいいんです。南無阿弥陀仏。

え、なんで阿弥陀さん?

無量光如来と言うのですよ!

手は「合掌」もしくは「定印」等々。

私は往生呪。これも「無量光」の真言。

さあ、そうして最後に、

おん さらばたたぎゃた はんなまんな のうきゃろみ 
おん さらばたたぎゃた はんなまんな のうきゃろみ
おん さらばたたぎゃた はんなまんな のうきゃろみ…

…。

あれ、何も変わった感じがないなー、って。

それでいいんです。

この観法は、ちょっとずつ、仏さまに近づく自分の心を整理するためのものだから。
というか、仏さまの心を、自分の心のなかに発見するための環境づくりのものだから。

真剣にやったら、これだけで「仏さまに、あなたはなれます」けれど、なれなくたって、全然、構いません。そういうことじゃなくて、まず「落ち着け、自分」と、そうやって、自分自身を静めて、大きないのちと自分とが連結していると、そう「信じる」ための第一歩の行です。

だから、とりあえず、変わらなくてOK。

そのうち、ちょっとずつ、変わるから。

ありがとうございました。
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飲酒

2016年06月27日 | 仏教・思索
特にコメントはつけません。
『スッタ・ニパータ』より。

Abrahmacariyaṃ parivajjayeyya,aʼngārakāsuṃ jalitaṃva viññū;
Asambhuṇanto pana brahmacariyaṃ,parassa dāraṃ na atikkameyya.
Sabhaggato vā parisaggato vā, ekassa veko na musā bhaṇeyya;
Na bhāṇaye bhaṇataṃ nānujaññā, sabbaṃ abhūtaṃ parivajjayeyya.

また飲酒を行ってはならぬ。この(不飲酒の)教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてもならぬ。
他人が酒を飲むのを容認してもならぬ。―これは終に人を狂酔せしめるものであると知って―。
けだし諸々の愚者は酔のために悪事を行い、また他の人々をして怠惰ならしめ、(悪事を)なさせる。
この禍いの起るものとを回避せよ。それは愚人の愛好するところであるが、
しかし人を狂酔せしめ迷わせるものである。
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真っ黒な絵

2016年06月24日 | ★法話関係
私たちはどうしても、ものを一面的に、自分の考えを中心にして見て判断してしまいがちです。そうやって、相手の本当の心を誤解して他人を傷つけてしまうことも多いものです。「あぁ、自分の見方が間違っていた」と気づけばいいのですが、大抵は誤解したままで過ごしてしまいます。

仏教学者の木村清孝氏の著書に出ていたエピソードですが、ある自閉症の男の子A君がいました。
支援学級(昔は養護学級とも言いました)で、「お母さんに感謝の絵を描きましょう」というテーマの授業があったのですが、A君は、赤・黄・緑のクレヨンでいくつか丸を描き、その後で画面いっぱいを黒に塗りつぶしてしまった絵を描いたそうです。
完成した絵は、赤・黄・緑の丸はぜんぶ消されてしまい、ただ真っ黒な一枚の絵が残りました。

先生はこの絵を見て悩んだそうです。

「何か不満や、怒りがあるのではないか」「家庭環境や学校に問題があるのではないか」「この子は大変な子供かも知れない」と。おそらく頭の中では、心理学的にどういう意味があるのだろうか、ケアをどうしたらいいのだろうか、お母さんにどういう話をしたらいいのだろうか…と、色々な思いが渦巻いていたと思います。

ところがお母さんに絵を見せてこの話をしたところ、お母さんは自閉症の我が子に向かい、「ありがとうA君、お母さん嬉しいよ」と。

実は絵を描く前日に、A君とお母さんはふたりで買い物に行って、リンゴとバナナとメロンを買ったそうです。この果物はA君が大好きな果物で、その果物を買って、大きな真っ黒のカバンに入れて家まで持って帰って、おいしく食べた。
だからA君は、その果物を赤・黄・緑のクレヨンで丸を描いてあらわして、それを真っ黒のカバンに入れたことを画面を真っ黒にして赤・黄・緑の丸を塗りつぶして隠すことで、「買い物ありがとう」を表現したわけです。
カバンに入れたら、果物は見えなくなります。だから、塗りつぶして、見えなくした。

結果、絵としては「黒一色」になってしまったんです。

このように、私たちは、この「真っ黒の絵」だけを見て「なんだこれは」「おかしいんじゃないか」と考えて、「A君はおかしい」と思いがちですが、お母さんは「ピン」と理解して、A君に「ありがとう」と言えたわけです。A君はお母さんにそう言われて、とても喜んだそうです。

私たちも日常生活の中で、自分の見たもの・聞いたものを、自分のものさしで勝手に「ああだこうだ」と判断して相手を「こうだ」と決めつけてしまいがちですが、実はもっと違う意味や思いがそこに隠されていたりするものです。
仏教は、そういう「決めつけ」をやめましょう、もっともっと、自分が思うよりも違う意味・相手の思いがあるんだよと、そういうことを教えています。

難しい教義や思想哲学もたいへん素晴らしいですが、日常生活の中で、「決めつけ」や「自己中心」を手放して、もっと融通無碍に考えてものを見る、ということの方が難しく、大切です。
私たちも、時には自分の心を見直して、「自己中心じゃないか」「相手の気持ちを勝手に決めつけてないか」ということを考えてみるのも、大切なことではないでしょうか。
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密教浄土教

2016年06月11日 | 仏教・思索

密教浄土教における阿弥陀と極楽の定義について。
以下は覚鑁上人の『五輪九字秘密釈』『阿弥陀秘釈』などの理論です。

覚鑁の思想が整理されていてわかりやすいので紹介すると、まず阿弥陀如来については四重釈あります。
浅略釈は法蔵菩薩の成仏するもの。
深秘釈は大日の一門別徳の弥陀。
秘中秘釈は大日即弥陀。
秘々中釈は衆生本具の心即弥陀。
これは阿弥陀如来に四種類あるというのではなくて、実践の進展によって実現する阿弥陀如来の顕現の仕方と言うか、視点の移動というか、自覚の深まりです。

極楽については、自心胸中の極楽が基本で、いわゆる指方立相ではありません。もちろん浅略では西方浄土と説くものの、本来十方空。

また、四十八願は六道衆生それぞれが本来具足している八葉蓮華(胎蔵中台八葉院)の展開であると配当していきます。8×6=48。

その思想の当否は立場によって捉え方は違いますが、ひとくちに「浄土教」と言っても、多様なものがあるということです。法然・親鸞流、あるいは善導流がすべてではない、ということです。

……………………………………………………

覚鑁の考え方は基本的に妥当なものだと僕自身は考えています。

自力と他力というものを、基本的には重視していない浄土教…というか、密教の立場ですから、三力の立場に立ちます。
この立場からの、法然親鸞流の浄土教への評価というか、違いは…。

あなた、海=他力と波=自力と、どっちをとりますか?
海を取るなら波は捨てなさいね、と。
自他力分離の議論は、そのくらい無茶苦茶だと思う。
海から考えるか、波から考えるか、というのが法門の別。
最終的には海波双入の自他不二しかないし、あえてどちらから入るか、なら、自己を見詰める波=自力から入るのが王道。
その自力=諸々の波や潮の絡み合う法界の力が自他を繋ぎ、無分別な真如となる。

波を考慮しない海というのは「立てられた概念的真如」で、それを報身仏というのかな、と。それはもちろん体としては「全体」だけど、相としてはある側面に過ぎない。一門別徳の阿弥陀如来がそれ。極楽浄土は場としての阿弥陀如来。
この海の体は常に不変だけど、相は様々な形で示され得る。だから阿弥陀如来じゃない、不動明王でも観音菩薩でも釈尊でも、僕でも犬でも月でも玉葱でもいい。
原理的にはそうなんだけど、実践的に玉葱では法の体が隠れすぎてて役に立たないので、密教では選仏を行います。
その選仏として、無量の寿命と光を示す阿弥陀如来は、もっとも入りやすく正面の如来だと考えるのが、秘密浄土、密教浄土教です。

その特定の仏を門として、海波双入の無分別の真如法身に入る。これを大日といい、密厳国土といい、沙婆即寂光土といい、究極的には言語道断。

……………………………………………………

だから往生も二段階往生説。沙婆(波)→極楽(海)→密厳(海波不二)と言うのですが、これは上記の故です。
しかしあくまで海と波を分けるのは実践上の要請なので、原理的には極楽即密厳ですから、別体じゃないのは言うまでもなく、沙婆世界のほかに極楽があるわけでもない。
極楽はこの世界であり、この世界であるということは、「この私が現に関わり、私そのものであるこの世界」にほかならず、つまり心即弥陀即大日即極楽即密厳。自心胸中の極楽。大日即弥陀であり、衆生本具の心即弥陀です。波=海=海波不二ですから。

……………………………………………………

ま、僕自身の話はもっと単純で、念誦は「波」として「海」である阿弥陀如来と対面し、入我我入して即一となるという観想をする、に尽きます。その即一した状態を我即弥陀即極楽、総じては大日即真如即密厳海会であって、三種成仏の第二段階であると。
加えて持戒菩薩行を地道に意識して、いつか日常に自利利他円満したとき、顕得成仏する、と。それだけです。そんなに難しい理屈はないです。はい。
阿弥陀如来じゃなくても、顕得成仏へのルートはほかにもありますから、選仏の上下はないですし、他宗派の方法でも一向に構いません。自由です。
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