卍 応無所住而生其心 卍

仏教に関すること、お寺の行事、法話…

経集 10〜13

2017年12月11日 | 釈尊のことば
行きつ戻りつすることなく、「すべてこうではない」と知って貪りから離れたーーそのような比丘は、この世と彼の世を捨て去る。蛇が朽ちた古い皮を捨て去るように。
(スッタ・ニパータ10)

行きつ戻りつすることなく、「すべてこうではない」と知って、激しい欲望から離れた――そのような比丘は、この世と彼の世を捨て去る。蛇が朽ちた古い皮を捨て去るように。
(スッタ・ニパータ11)

行きつ戻りつすることなく、「すべてこうではない」と知って、憎しみから離れたーーそのような比丘は、この世と彼の世を捨て去る。蛇が朽ちた古い皮を捨て去るように。
(スッタ・ニパータ12)

行きつ戻りつすることなく、「すべてこうではない」と知って、怒りから離れた――そのような比丘は、この世と彼の世を捨て去る。蛇が朽ちた古い皮を捨て去るように。
(スッタ・ニパータ13)

…………………………

貪りや欲望や憎しみや怒り、これらは非常に強い力を持っている。これを頑張ってなくすことは難しく、ほとんど無理です。これらがラインを超えて殺人やいじめになったり、あるいは無気力や絶望に転換していく。いずれも罠にはまってしまっている状態。
ではどうしたら離れられるでしょうか。
悪しき思いはただ捨てようと頑張るのではなく、原因や状況をしっかり見極め把握して、それを慈悲喜捨の思いで包むように努力する。捨てる努力ではなく、慈悲喜捨の心を探す。それを立てる。直接的な「怒りや欲望の対象」にそれをするのが今は難しいならば、最初は別の事でも構いません。ただただ、慈悲喜捨の心を癖に出来るように練習していく。
その先に、輪廻の出口があります。
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法事の後で

2017年12月10日 | 仏教・思索
『ルカの福音書』から。

…………………………

一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。

…………………………

いつもは終わったら振り向いて法話します。
今日は振り向くと、施主と親族の女性たちがいない。焼香が終わるや否や台所でお斎の準備を始めたのです。
つまり、目の前がガランとしている。
これじゃアカンので、「お斎の準備は後で…」とこちらに呼び込んだら、次には親戚の方が「坊さんにお茶を」と言うもんだからまた施主たちが台所に戻りかける。
まぁ気持ちはわからなくはないが、そのときに何故か聖書のこの一節が頭をぐるぐる回り…。

お茶なんかなくたって良いのです。

まぁ気持ちはわかりますから腹立ちはしませんけど、しかし、焼香が終わったら法事が終わったかのように雑談が始まったりもしますから、諸々、色々と教化不足を痛感します。
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布施について

2017年12月10日 | 弘法大師聖句
「宝鑰序」

外の因縁によって忽ち節食を思う 施心萌動して穀の縁に遇うが如し

あるきっかけによって節食や布施の心が起こる。これは縁にあって種が芽を吹くようなものである。

…………………………

布施について世間には誤解がある。そもそも布施は修行の項目のひとつであり、利他の施しすべてを指すわけだから、別に金銭に限らない。眼差しや言葉まで含めて、根本は慈悲の心である。そのうち最良のものは法施であり、仏法を伝えることであり、その功徳に随喜し善行を積むために寺院や僧侶に布施を行うのだ。最高の法施の功徳に参与するのである。あるいは祖先が受ける法施の功徳にともに与るためで、そのための法の城たる寺院を護るための布施でもある。
この布施にはだから「定価」はまったくない。布施の志においては、それぞれの状況に従った適切な量があるであろうから。億万長者の百万円などは微々たる額であり、食うにも困る人の千円は死活問題。その中から、まさに利他の喜捨行をなすのである。
つまり、下限も上限もない。あってはならない。「○○以上は出しなさい」というのはナンセンス。また、「○○以上は出してはならない」と施主の行に制限をかけるというのも同程度にナンセンス。
よくよく、僕たちは考えなくてはならない。
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悪平等

2017年12月09日 | 弘法大師聖句
「十住心序」

悪平等の者は未得を得と為し不同を同と為す 善差別の者は分満不二 即離不謬なり

悪平等の者は、会得していないのに心得ているといって何もかも一緒にしてしまう。善差別の者は、相違を認めながらも、その根底は平等であると見る。

…………………………

「仏教は空だから」と言って何もかも言明せずに斜に構えたり、あるいは言葉の機能がどうとかこうとかいう理屈で相手の言い分を「相対化」して口を閉ざさせたり、それはまさに悪平等であり、偏見である。意外に仏教を学び始めたくらいの人に多いが、それなりの経験があるはずの僧侶にもいる。究極的には同じだからと言っても、現象世界はやはり様々に現象しているし、心は究極に住みながら安んじているわけではない。荒れ狂う波に翻弄される小舟の上で不動を偽装しても、やはり船は沈むのだ。波の性質を学び、操舵しながら、海を知り自分のものとしてはじめて真実の不動心が顕れる。
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無常と続くものと

2017年12月08日 | 弘法大師聖句
「性霊集十 九想詩」

平生には市井の華 今は白骨の人なり


生前中は世間に愛され、栄華な人生であったが、今は白骨となり、静寂に横たわっている。

…………………………

だから悲しみ絶望せよ、というのではなく、この短い人生において努め励み、急ぎ一歩でも向上しよう、ということ。楽しいことも苦しいことも過ぎ去るが、その中で為したことは必ず残り、良きも悪しきもその結果だけは死後も影のように付き従うのだから。

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経集 8・9

2017年12月07日 | 釈尊のことば
行きつ戻りつすることなく、まやかしの世界をすべて乗り越えたーーそのような比丘は、この世と彼の世を捨て去る。蛇が朽ちた古い皮を捨て去るように。
(スッタ・ニパータ8)

行きつ戻りつすることなく、「この世はすべてこうではない」(現実の世界は幻のようなもの)と知る――そのような比丘は、この世と彼の世を捨て去る。蛇が朽ちた古い皮を捨て去るように。
(スッタ・ニパータ9)

…………………………

行きつ戻りつ…とは輪廻のこと。この世は固定化した不変の実体ではなく、縁により不断に生まれ滅び流転変化している。そこに執着したり固定化して価値づけして握りしめてしまうならば、苦から苦への輪廻はやまない。
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ナイフ

2017年12月06日 | 仏教・思索
仏教は果たして「無神論」なのだろうか。一神教徒からは多神教扱いされたり無神論扱いされたり、あるいは自ら「神仏習合」と言ってみたり。

要は「神とは何か」の定義如何。

たとえば認識や定義不能な絶対存在としてのXならば、法身はそれに当たると見ることができるし(仏身論とキリスト教におけるトリニティとは構造的な近似もあろう)、真言密教ならば大日一仏論であり、一種の神観念であると言えなくもない(もちろん創造神ではないが、流出論的創造みたいに考えている仏教徒だっているだろう)。阿弥陀如来一仏崇拝などは、ほぼ神信仰と信徒レベルの信仰意識は一緒ではなかろうか。
そもそもヨーロッパやイスラームの定義する分類がすべてではなく、神の概念は世界中にあったしあるわけで、単純に無神論だとか多神教だとかで定義はできない。

「仏教は哲学か宗教か」という議論も同じだけど、見方によってどうにでもなる。一神教文化からの視点で規定しようとしても無理がある。しかし、「近代的思考」に無意識に影響された僕たちは、なんとなく無批判にその視点を使ってしまう。

仏教はもっと柔軟なものではなかっただろうか。
世界を臨機応変に切り取り実体視する僕たちの無明を確認し、ブッダは自在にその「分別のナイフ」を利他に使う。だから、無神論であれ多神教であれ一神教であれ宗教であれ哲学であれ、相手と状況によって自在に現象世界を切り取ってみせる。
それらの「観念」は、観念に過ぎない。ただ、成就への道行きの杖に役立つならば、効果的に使う。いつかは、捨てるべきものだ。

だから仏教は、あらゆる思想や宗教と矛盾し得ない。
切られた現象のカタチにさえこだわらず、内部を入れる前のXをしっかりつかまえようとしているならば、すべては仏教であり得る(Xをどう考えるかはまた次の段階として)。
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応病与薬

2017年12月06日 | 弘法大師聖句
「宗秘論」

薬に貴賎あること無し 病を差すをすなわち妙とす


薬には良いも悪いもない。それぞれに病気を治す勝れた特徴がある。

…………………………

僕たちの悩みや煩悩の種類浅深、性格や機根の違い、周辺環境や人間関係など、ゴールは同じでもスタートが違えば道も違います。道が違えば景色も違う。ゴールを無視して、道から見える景色の優劣を論ずるなどマヌケな話ではないでしょうか?
宗派や実践の違いは意味がありますが、あなたのベストが他人のベストとは限らないのです。便秘の人に下剤は効きますが、下痢の人に下剤は拷問。
常に隊長を見ながら薬を服用するように、仏教八万四千の法門は常に時機に従って僕たちを導いてくださいます。
凝り固まった教条主義、万人にひとつの薬を押し付けてはならない。言葉で表現された教えは真理そのものではないのですから。
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娑婆即…

2017年12月05日 | 弘法大師聖句
「性霊集十 九想詩」

娑婆は厭うべき所 閻浮は楽しみ寝ぬべきに非ず

この世は苦しく厭うべき所であり、楽しんで生活できる世界ではない。

…………………………

娑婆即寂光土、娑婆即密厳国土ではあるが、三毒無明の目で眺めたら、まったくの娑婆世界にしか見えない。苦の巷である。どこか別の世界があるわけではない。逃げ込めるサンクチュアリはない。四苦八苦はどこまでもまとわりつき、生まれ変わり死に変わりしようとも、必ずまた追いついてくる。
見方や考え方が変革して世界の実相を正しく見抜けるようになれば、娑婆は相対的な苦楽を超えた大平安の浄土である。ここがそのままサンクチュアリとなる。

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深信

2017年12月04日 | 法話関係
興教大師覚鑁上人という方は真言宗の歴史上、弘法大師に次ぐ重要性を持った方であると思われます。この方は数々の著作をなされていますが、今回は「真言密教を実践するものが心得るべきこと」について書かれた(恐らく)メモを紹介します。これは覚鑁上人自身に、あるいは真言僧に対して述べられたものでしょうが、信心や修行をする者だけでなく、誰にとって参考になるものですから、読んでみましょう。
現代語訳は僕がしましたので、間違っていたならばご指摘ください。

『末代真言行者用心』

経にこのように説かれている。

「どのような心を起こすものが、覚りを成就するのだろうか?」と問われたならば、それは「深信ある者がそれを成就するのだ」と言える。ではその「深信とは何か」であるが、それは「長く修行してまったく成果が現れずとも、仏法に疑いを抱かず止めてしまわない」、その心を「深信」という。このような人が必ずいずれ覚りを実現するのである。
あるいは本尊が行者の心の成熟度を試してみようと、またあるいは諸天の神々が行者の信心の度合いを見てみるために、我々の覚りへの進歩を一時的に抑える場合がある。また、自分自身の能力不足や宿縁が回らないために覚りの方向に迷い目の前の優れた道を見逃したり、悪魔などのような妨げをなすものが邪魔したりする。
様々な因縁で信心しても修行してもまったく進歩も実感もない場合があるが、そこで疑ったり信心をやめず深信を持ちこつこつ実践を続けたならば、必ず成就・往生・成仏は間違いないのである。



私たちは普段の生活や仕事でも、「すぐに結果が欲しい」「答えを見たい」となります。我慢ができないものです。
やるだけ無駄・無意味ではないか、やればやるほど却って悪くなってるのではないか、そうやって、先が見えないと「やらない理由」「やめる理由」を探し始め、「疑わず、やめない」という心がバカバカしくなってしまいます。
もちろん間違った信心や考え、良くない仕事や向いてない仕事はあります。それはきちんと見極めなくてはならないですが、「結果が出ないから」というだけの理由で見切ってしまうのは、結局は何も成し遂げられないことにつながります。

釈尊は6年間、苦行をされてまったく成果がありませんでしたが、覚られた後には決して無駄な6年間ではありませんでした。様々な出来事がありましたが、投げ出しませんでした。
私たちも地道にこつこつ、結果だけに右往左往せず、なすべきことをやり抜きましょう。そして、深信を抱いて手を合わせて参りましょう。
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