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Iさんのコメントへ!

2017-04-04 02:10:52 | 日記

  

Iさん、コメント有り難うございます。
コメントについての感想を書きたいと思いますが、コメント欄はとても書きにくい
のでここに書かせていただきます。
また読んでいただく場合の便宜上、Iさんのコメントの一部をここに引用させて
いただきます。(こうした投稿欄での引用が気になるようでしたらどうぞ、削除
するかぼくにご連絡ください、すぐ消去させていただきます)

◆それからIさん以外の皆さま、下記の文章はキリスト教・宗教に関係したことが
らです。ですから、宗教・キリスト教に違和感をもっている方がおられましたらお
詫びをさせていただきます。
読み直してみて、このまま投稿をしたものかと少しまよっています。Iさんにメール
という形で読んでいただけばそれですむ話ではないかと。ただ、お互いさまに長い
お付き合いの中でお互いにこうした少しばかり内面性の一部といった話しをする機会
はそれほど多くはなかったようにも思います。ここで少しばかりこうしたことを話
す機会があってもいいし、なにかのご縁なのだとも思います。
お互いにひととしてのくびきを負う中で生きているわけです。このくびきをどうし
たものか、といったことをお互いに開陳しあうことがあってもいいのではないかと。

カール・バルトという神学者が「キリスト教信仰は、出会いの贈り物である」と
言っているのですが、たまたま30年もまえのむかしに皆さまとの出会いがなかっ
たら、ぼくの人生はまちがいなく今とは違った道筋になっていたことは確かです。

ここでの終りに、ぼくの真面目な部分での課題というのは、とにかく「ほんとうの
こと」をしりたいということなのですが、これからの残されたわずかな時間のなか
でなんとかしてということのわけです。でも、これでも、いい加減な近代主義者の
残滓もどきなのだという自覚はあります。
そのむかし、Xさんがある連絡誌の中で中島敦の『悟浄出世』のことば「身の程知ら
ぬ『何故』は、今後一切打ち捨てるのじゃ。これをよそにして、汝の救いはないぞ」
ということばを引用されていたのを想いおこすことでもあるのです。

◆Iさんは、映画『沈黙ーサイレンスー』を観た感想として、次のように書かれてい
ます。
「……1回目はノンクリスチャンの友人と、2回目はクリスチャンの友人と、3回目
は1人で観てきました。映画は1回ずつしか観た事なかった私が何故、3回も観たい
と思ったのか・・・それは『神様は沈黙しているのではなく、私と共に苦しんでいて
下さる。神様はいつも私と共にいて下さる』という再認識を、し続けたかったから
かもしれません。思い出したのが『あしあと』という詩でした。興味がある方は、
検索してご覧下さい。……」(以上コピペしました)

実は、ぼくも見終わった後にもう一度見てみたいなともおもったのです。
でも、このブログに投稿するために映画の内容を思いだしたりしているなかで、
そういう気持ちが薄くなってしまったということがありました。それに、篠田正浩
監督が半世紀くらい前に作った『沈黙』を見た後で再び見てみたいという気持に
なったら見ればいいかなと思っていました。

(篠田正浩監督の映画『沈黙』東宝・昭和46年制作を下欄にアップしました。
パソコンでもユーチューブ画面を大にすればそれなりに視聴可能です。ぼくの
PCにはHDMI端子などがついていないので、テレビへの接続ができません)

Iさんはその映画を3度ご覧になったそうですが、驚きました。でも、その理由が、
「神様は沈黙しているのではなく、私と共に苦しんでいて下さる。神様はいつも私
と共にいて下さる」ということを、繰り返して「再認識」したかったのだといわれ
ています。

Iさんが3度も映画を見たのは、映画のああした場面での信仰者の苛酷で悲劇的な
状況に対して、神さまは沈黙ではなくその人と共に(その傍らで)苦しまれていたに
違いない。そのことをIさんは「再認識」(確認・納得)をしたかった、ということ
でしょうか。そしてまた、そうした場面をIさんご自身の切実な現在性(誰にも等
しくある)を類比させるなかで、「再認識」という信仰の内実を確認するというこ
とをされた、ということでもあるのでしょうか。

またIさんは「そうした気持ちの中で思いだしたのは「あしあと」という詩です」
といわれています。それで、ぼくもその詩を検索してみました。

足跡(あしあと)/Footprints 

「ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
 暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
 どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
 一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
 私は砂の上のあしあとに目を留めた。
 そこには一つのあしあとしかなかった。
 私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。

 このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね
 した。『主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお
 いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
 一番あなたを必要としたときに、
 あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません』
 
 主はささやかれた。
 『私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
 あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
 あしあとが一つだったのは、私があなたを背負っていたからだ』」
(この詩の中の「主」とは「イエス・キリスト=神」のことです。僕の注です)

この詩の創作にいたる背景には、とても劇的なあるご夫妻の現実があったようです。
ユーチューブでその詳細が、音楽と共にテロップで紹介されていました。
https://www.youtube.com/watch?v=SJXZqckChnM 

ぼくはこの詩を知らなかったのですが、読んでみるとこの詩は意味深く重たいことば
の連続で、一点一画でもおろそかに読み流すことはできないように思いました。
そしてぼくはこの詩を読んだあと、あの有名な、さまざまな所で引用されている詩編
第23編を連想してしまいました。

「……たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。
   あなたがわたしと共におられるからです。……」

上記の詩“あしあと”でも、この詩でも、そしてIさんのコメントの中の言葉でも
そこで繰り返されている言葉は「共に」です。この「共に」という言葉は『精選版
日本国語大辞典』だと、「あるものが、他のものと同じ状態であるさま、また、
他に伴って同じ行為をするさまを表わす。いっしょに。同じように」。広辞苑でも
「ひとつになって。いっしょに。相連れて」とあります。
聖書の言葉はすべて、主にギリシャ語やヘブライ語から日本語へ訳した言葉のわけで
すけど、この「共に」という副詞は、聖書の言語総体に精通していて最も原語に忠実
な訳といわれている(異論はあるにしても)田川健三さんの訳でも同じ「共に」です。
また他の訳も殆ど同じだしこの日本語辞書と同じような意味合いで理解できるとおも
うのです。

つまり、そうした「共に」は「一心同体」と同じ意味と言えるわけです。
四国88ヶ所を巡るお遍路さんは頭にかぶる編み笠の裏側に「同行二人」と書かれる
みたいです。これは弘法大師と一緒に歩くので一人ではないという、「共に」と同じ
ような意味合いの表現ではないかとおもいます。

そしてぼくは思うのです。この「共に」という言葉は、「イエス・キリスト(神)が
わたしと共に」(Christ with me,with us)ということがらのわけですけど、この言葉
「共に」の意味するところは、聖書のメッセージの核心部分だとおもうのです。
なぜそういえるのかですけど、興味のある方がおられたらすみません聖書に直接お聞
きいただくのがベストだとおもうのです。ぼくが間違っているかもしれません。

ようするに、ぼくが上述のことから理解(想像)するところはつぎのようなことです。
Iさんが「あしあと」という詩に感銘をされたのも、またIさんが「神様は沈黙して
いるのではなく、私と共に苦しんでいて下さる。神様はいつも私と共にいて下さる」、
といわれるのも、その「共に」という事実とこの関係性を、“信仰・希望・愛”という
言葉にも象徴されるイエス・キリストの十字架(磔刑)への生き様、その全生涯、その
『イエス・キリストの真実・真理・美しさ』と共にありたいというIさんの“祈り”、
だというように理解したいとおもうのです。
こうしたぼくの想像は、Iさんのおもいから外れている部分があるかもしれません。
じぶんでもよくわからないことばかりを書かせていただいていて、すみません。

◆ 時間と興味がおありの方は、下記ユーチューブの合唱をぜひ。
上記の詩篇第23編「主は私の羊飼い」を二つの合唱団がうたいます。
①明治大学グリークラブ男声合唱団(歌詞付)。この合唱の後にそのまま続けて②へと移行。
②インターカレッジ女声合唱団、ハンガリー演奏旅行で収録されたもの。
 ハンガリーの首都ブダペストの荘厳な教会堂での詩編の歌唱です。
https://www.youtube.com/watch?v=5QJlIWjBsc0&list=RD5QJlIWjBsc0#t=19

◆ それから、遠藤周作原作・篠田正浩監督の映画『沈黙』がユーチューブにアップ
されています。昭和46年東宝制作、脚本:篠田正浩と遠藤周作。主演:岩下志麻、
三田佳子、丹波哲朗。
映画の最終場面は小説とは異なる設定です。この点について篠田と遠藤の間で対立
があったけれど、結果は篠田の原作にたいする解釈のとおりになったそうです。

この映画は面白いことにロシア語の字幕入りです。日本人の発語の部分はもちろん
日本語です。少し目ざわりですけどPCでも映像画面を最大にすればそれなりに味
わうことができるとおもいます。
日本映画『沈黙』 https://www.youtube.com/watch?v=jCLzLqNkS_c

 

コメント (1)
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