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『沈黙ーサイレンスー』をみました!

2017-02-12 11:21:19 | 日記



『沈黙ーサイレンスー』をみました。Xさんもご覧になったことと思います。
それで、ぼくも少しばかりの感想はあります。でも、その映画のテーマと内容が重たく、大きすぎて、感想をまとめるのは大変です。この映画はアカデミー賞の撮影賞にノミネートされたそうですが、さまざまな情景として表現された画面にはこころを動かされました。でも、外国の人に見てもらう場合のことをかんがえたら、理解しにくい部分が多かったと思いました。たとえば、この映画のイントロの部分ですが、小説を読んだことがある僕にしてもアレっとおもってしまったのです。この映画のイントロとしては、外国の人だったら僕以上に強い違和感をもつなかで、わかりにくさが多かったと思います。これはシナリオの問題だと思うのです。たとえば、小説の世界でだったら序章がなくて、突然、主人公が事件の渦中に巻き込まれてしまうような構成ではないかと。推理小説のようになぞ解きが主題だったら、それでもよかったのかもしれません。

そして、内容についてですが、難しすぎる問題でしかありません。ただ、これから日本製の篠田正浩監督作品『沈黙』をみてみたいと思っています。しかし、ぼくが感想を考える場合にとても難しいとおもうのは、この映画のテーマが神学の問題として位置づけ、考えざるを得ないということになるからです。たとえば、ぼくが一番に感じたことは、人がひとを理不尽に殺害するという殺人・残虐行為・罪の問題です。また、そうした歴史・現実と、神の現在性・存在根拠・沈黙の問題。神義論という問題。万人救済説、予定説との関係。……いずれにしても、キリスト教の教義の根幹の問題と直接するわけです。

また、カトリックとプロテスタントの問題(主人公の神父達はカトリック・イエズス会の所属で-上智大学も-踏絵を踏む踏まないという是非の問題もそのカトリックの神学と直結する)。新約聖書でキリストを権力に売り渡したとも表現されているユダの問題。旧約聖書では神と対峙した苦難の象徴でもあるヨブの問題をどのように考えたらよいのか。しかし、十字架(磔刑)に象徴されるキリストの生きざま・死にざまの意味とは。その贖罪としてのキリストの行為とことばの意味とは。信仰(信じる)とは。理神論・汎神論とはまったく無縁であるキリスト教とは。キリスト・全能の神と悪・虚無・罪の問題は。神(キリスト)と歴史(自然史・人類史)の関係(意味)は。キリスト教倫理にとっての踏絵とは。

そしてまた、日本の宗教的風土の歴史的固有性の問題、日本と日本人とキリスト教の土着化の問題。また、歴史的時間が近接する「島原・天草の乱」との関係をどのように考えたらいいのか。などなど、そうした問題・課題のすべてが相互に関連するなかで、この映画のテーマが問われているということだと思うのです。
そうしたら、ぼくはこれからの余生の時間のすべてを使って学習し、かんがえても、この映画の感想は言えそうにもない、ということになりそうです。
映画、『沈黙ーサイレンスー』……神の沈黙……神の存在(十字架のキリスト)……人間の現実……遠藤周作。
でも、しかし、「 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである 」と、新約聖書のルカさんは言われるのです。無くてならぬもの!とは。

しかし、この『沈黙』のテーマは、宗教・キリスト教の固有の問題・課題としてとし設定されていることは確かなことです。そして、この宗教・キリスト教にたいしては、たとえば「宗教は人間と世界を捨象する」(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)という宗教批判の一つの側面がよく主張・引用されています。また、「宗教の内部で、他者成立の前提を観念的に一だれのものでもない一般的思惟の立場でとり扱っているか、それとも『実践的に』、その『魂とみぞおち』において対決しているかどうか」(梅本克己『思想と科学』)という、宗教者批判ともいえる鋭い問題提起もあります。そしてそうした批判にたいして、宗教・キリスト教を信仰していると自己確認をすることができるひとは、そこでの問題提起にたいしてどのように向き合い、自己総括をすることが出来るのか。信仰者にはそうした相互連帯的な課題がつきつけられているのだともおもうわけです。

(上記の2著の引用文章は、故横田勲牧師「信仰の『位相』をめぐって」(雑誌『福音と世界』1972)から。横田牧師のそこでの論文にはつきない興味を引かれます。また、残された2冊の著書『傍らに立つ者Ⅰ』、『傍らに立つ者Ⅱ』も、ぼくにとっては必読・必携の優しい、しかしむずかしい本です。

そして、この映画をみての感想もどきのまとめとして、「しかし、あの時あの場所で、『沈黙』の登場人物の一人ひとりは例外なく、だれしもが「決断的に」、その「魂と腹わたで」、強いられた情況と対決していたことだけは、まちがいないとおもうのです」。

 


いったい、人間の大地では何が起きて!『海は燃えている』

2017-02-12 02:48:23 | 日記

◆下記の文章は、昨日の投稿記事で紹介させて頂いた映画、『海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~』を紹介した『カトリック新聞オンライン』(リンクした)の文章です。リンクを張ったサイトの文章なのに、更に繰り返してしまいます。気が向いた方は、ぜひ、ご一読ください。

「 アフリカ大陸からイタリアを目指して、多くの難民が海を渡る―。北アフリカに最も近いイタリア最南端の小さな島を舞台にしたドキュメンタリー映画は、詩情あふれる静かな景色の中で、「難民の死」はいったい誰のせいなのかと、辛辣な問いを投げ掛けてくる。

ランペドゥーサ島は人口5千5百人の小島だが、数万人の難民が漂着しては送り出される。過去20年間でこの島に上陸した難民の数はおよそ40万人。しかし、その陰で1万5千人がシチリア海峡で命を落としている。難民たちは大金を支払って小舟に乗せてもらい、7日間、飲まず食わずの旅に出る。衰弱して死ぬ者、また船の難破で水死する者など、無事に上陸できるのは奇跡的なことなのだ。

しかし、島民たちは、そうした難民たちと関わることなく、その悲劇を知ることもなく、何事もないように〝普通の日常生活〟を続けている。この事実に直面しているのは、救助艇の関係者と、島でたった一人の医師だけだ。

医師はこう語る。

「船内で死んだ子どもや母親の遺体を多すぎるほど見て、怒りがたまり、腹の中が空っぽになり、穴があく。検死で遺体は切り刻まれ、彼らは死後も冒涜を受ける。…こうした難民を救うのは人間の務めではないか」

大海は小舟では渡れない。いったい人間の大地では何が起きているのか。「無関心」という〝人類の罪と暴力〟について問題提起をした作品である。

ベルリン国際映画祭・金熊賞(グランプリ)など数々の賞を受賞。カトリック中央協議会広報推薦。2月11日より東京・渋谷Bunkamura(ブンカムラ)ル・シネマほか全国順次公開。
詳細は、公式ホームページ(http://www.bitters.co.jp/umi/)」