【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読は、モノの見方を変え、イエスと共に前に進む気を起こさせてくれます。ご一緒にしませんか?

ヨハネの福音書18章

2018年02月28日 07時41分50秒 | 福音書
ゲッセマネ(油しぼりの意)の園は、オリーブ山の西麓にあり、イエスはそこを祈りの場としていた(ルカ22:40)。マルコの母マリヤの所有地であったと考えられている。オリーブ山は、ケデロンの谷から45メートル上ったあたりにある。現在は、この場所にゲッセマネ教会が建っている。テオドシウス大帝によって建立された最初の教会は、614年ペルシア軍によって破壊されたが、1919年、フランシスコ会によって、現在のビザンティン式カテドラルが再建された。この教会のために16カ国の国際的な協力があったため、俗に「万国民の教会(Church of All Nations in Jerusalem)」とも呼ばれている。中央祭壇の前部にはイエスが祈られた場所とする鉄柵に囲まれた「苦難の岩」がある。
また、ゲッセマネ教会から園を横切り、道を隔てて100メートルばかり北に「裏切りの洞穴」がある。イスカリオテのユダの裏切りによってイエスが捕縛された場所であるとされている。イエスは、イザヤが預言したように(53:8)抵抗することなくそこで捕縛された。イエスはご自分のしようとしていることを理解しておられた。しかも、ヨハネが回想するイエスは、他の福音書の記録と違って、より積極的である。イエスは、先に(14:30-31)世の支配者とその配下の人々に立ち向かう明確な意思をもって二階の広間を出て行った。そして捕縛されようとする時も、イエスは積極的にご自分を差し出そうとしている。また、剣を持つペテロを制し、進んで苦難を受けられた。それは、スタウォーズの最後のジェダイではないが、壊滅寸前のレジスタンスを逃し建て直しを配慮する姿を思い起こさせる。弟子たちはその受難の時を逃れ、小さな群れは守られていくのである。
さてイエスは裁判にかけられていく。ギリシャ語本文では、裁判の順序について異同がある。つまりアンナスからカヤパの裁判への移動の記述(24節)が、13節と14節の間に来て、ペテロの否認のエピソード(16-18節)が、19-23節の後に来るものがある。伝統的には、新改訳2017が訳出しているとおりなのであるが、整理されていない印象を持つ人は多いだろう。だが、老ヨハネは、回想的に、記憶を加えるような形でこれを書いたとすれば、このような複雑な書き方はありえないわけではない。ともあれ、ヨハネはここでもイエスが不当な裁判がなされる中でも主導的に行動されたことを示している。重大な犯罪の場合、その逮捕は夜ではなく、日中に行なわなくてはならなかった。また、裁判は複数の裁判官の前で行われなくてはならなかった。さらに、議員は、証言を聞いた後で一度家に戻り、3日後に再び議会に集まり、被告人の証言に耳を傾け判決を下すことになっていた。しかしイエスは、この不当な裁判から逃れようと思えば、いくらでもできたのだが、そうしなかったのである(36節)。イエスは、この世のものではない新しい御国を完成させようとしていた。それはイエスの十字架の苦難を自分の救いとして受入れ、魂を変えられ、イエスを王とする人たちによって構成される神の国である。それは、この地上での魂を殺められることがあっても、決して失われることのない正義と、愛が貫かれる美しい御国である。だから、イエスは正しく裁かれる神に一切を委ねながら、この時を過ごすのである(1ペテロ2:19-23)。
ユダヤ式に、神を冒涜した罪で訴えられたイエスは、続いてローマ法の手続きで死刑に処せられるために、自分をユダヤの王とした反乱罪で訴えられた(28-32節)。ピラトは、イエスに罪を認めなかったが(38節)、ユダヤ人は、イエスの死刑を求めた。ピラトはこの嫌な判決から逃れ、正義を維持し、群衆をなだめる道を探し続け、明らかに犯罪人とわかるバラバを引き合いに出し、ユダヤ人の良心に訴えようとした。その結果は19章に続くが、18章で注目すべきは、イエスとピラトとの「真理」を巡る会話であろう。真理は神の真理である(37節)。神が愛であり、義しいお方であることだ。私たちはやがてこの神の元に帰る。人生は死んで終わりではない。目に見える世界の、食べる、飲む、買う、そんな次元で生きているだけでは、私たちにイエスが語る真理はわからない。目に見えない世界、信じる、愛する、正義を貫く、という次元に生きることを意識化しない限り、イエスがこの受難によって完成されようとしたものもわからない。目に見える世界がすべてではない、目に見えない世界がある。その世界の力と支配の中で、実はこの世の世界も成り立っていることを知るべきなのだろう。神の支配にある日々を歩ませていただこう。

ヨハネの福音書17章

2018年02月27日 05時38分43秒 | 福音書
最後の晩餐が終わった。イエスは、教えるべきことを皆教えられた。ご自分の時が来たことを知り(18:4)、ゲッセマネの園へ向かう前に、しばらく、父に祈る時を持っている。三つのことを祈られた。自分自身について(1-5節)、弟子たちについて(6-19節)、そして教会(20-26)についてである。
まず、イエスは、ご自身について祈られる。一つは、自分の栄光が現されるように、である(1節)。というのも、イエスの死は不本意な悲劇ではなく、神に計画されたものであったからだ(ルカ 22:22)。それは、全ての人に神の裁きが行われ、信じる人々には永遠のいのちの賜物を与える目的と持った、神の計画を完成させるためのプロセスであった。だから、今やその計画が実行され、成し遂げられようとするこの時、この神の計画への従順により、イエスは再び栄光の座に戻られるように、と祈っている(ピリピ 2:5-8)。
 続いてイエスは、弟子たちのために祈られた。「あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。」(6節) 「現しました」は、覆いを取り除くことを意味する。イエスは、弟子たちとともに3年の時を過ごし、それによって神の「御名」を明かにした。つまり、神のご性質を余すところなく教えられたのである。大切なのは、元々、彼らは、神のものであった。神に委ねられたものをイエスは教え、彼らはイエスを神から遣わされたものであると理解した。そして一つの初期共同体(初代教会)を形成するようになった。しかし教会は、イエスと共に天に帰るわけではない。それは悪に渦巻く地上に残されるのである。もはやイエスは彼らの側にあって彼らを守ることはできない。だから、イエスは彼らのために祈っている。一つは、「あなたの御名よって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つとなるためです」(11節)と。イエスが祈られたのは、多様な者が一様になることではなく、一致することである。父と御子は、異なるものであるがその意志と目的において一つである。彼らも同じように、多様な者が、キリストの愛と、その使命に一つとされる必要がある。それは、人間的な一致の努力だけではなしえない事であり、実に神の守りによって起こりうることである。そしてイエスは、弟子たちを神のことばによって「聖別してください」と祈る(17節)。というのも彼らはこの世に遣わされなくてはならなかった。この世にはない、十字架愛に彩られた彼らの素晴らしい性質を、いよいよ力強く証する使命を負っていたからである。
 最後にイエスは、弟子たちのことばによってイエスを信じる人々、つまり当時の教会の人々のみならず今日の私たちのためにも祈られた(20節)。まず、同じように一つになることを祈っている(21節)。それは、私たちの証しが力強いものとなるためである。世の人々は神を見ることができない。しかしキリスト者を見、そこに、愛と一致を見いだすなら、神は愛であると悟る事できる。しかし、私たちの内に憎しみと分裂を見るなら、私たちが携える福音のメッセージに重要さを感じることはない。だからそのために、イエスは続いて、私たちが常にイエスと共にあるようにと祈られた(24節)。先の一致が完成するためには、信じる人々が日々高く上げられた主と交わり、神の高さ、広さ、深さ、豊かさを瞑想する以外にない。「神とよき時を過ごす」ことにより、イエスの栄光を味わい知る他にない。私たちは、イエスを肉眼で見たことはない。弟子たちによってイエスについて聞かされているだけである。しかし、信仰の目を持ってイエスを見、愛し、信頼し、喜びを得ているに過ぎない。そんな私たちのためにイエスは、やがて私たちがイエスに留まり続け、イエスの栄光の姿を直接目の当たりにすることができるように、祈っている(26節)。
 一致と、イエスと共にあること、それによる世に対する神の愛の証、これがイエスの祈られたことである。老ヨハネが苦難に臨もうとしている1世紀のキリスト者に語るべきこととして回想したことがそれである。私たちは知るべきことをまだ知っていない。神の栄光の高さを味わうように、神とよき時を過ごすこととしよう。



ヨハネの福音書16章

2018年02月26日 06時47分57秒 | 福音書
イエスが公に伝道をした期間は約3年間である。それまで魚を捕る以外に何の取り柄もなく、世間の注目を浴びることもなかった、12人の弟子たちは、この3年間、実にエキサイティングな日々を過ごしてきた。人生は、出会いである。この弟子たちもイエスに出会うことで、全く思いも寄らない人生を歩むことになった。ところが、そんな興奮に満ちた人生が突然破綻しようとしていた。イエスが去って行くという。そして、取り残された弟子たちに、迫害の嵐が起こるだろう、と予告される。確かに、初代の信仰者たちは、これがまことの神への忠誠であると信じて疑わないパウロの徹底した迫害を受け、苦しめられることになる。イエスは、困惑し、心乱す弟子たちに向けて、ご自分が去って行った後に、彼らの信仰を守り、証が弱められることのないように助け主、聖霊を遣わしてくださる、と語る。
聖霊は、キリスト者を通して世の誤りを明らかにする(8節)。聖霊は、キリスト者とともに、キリスト者の語る聖書の言葉とともに、人々に罪の自覚を与える。つまり、聖霊は、自分を神とし、神を認めようとしない事実に気づきを与える。また聖霊は、キリストの義を知らせる。イエスのことばとわざのすべては義しく、彼がまことに神の子であったことを明らかにするのである。そして聖霊は、敵対的な世に裁きがあったことを宣言する。これから悪者に対する裁きが来るというのではなく、すでに、裁きが起こったことを伝えるのだ(11節)。確かに、イエスの十字架上の死は、私たちの罪の赦しのための身代わりであった。しかし肝心なことは、私たちはこれから裁かれるのではなく、すでに裁かれたことである。だからこそ神様と共に新しい人生を歩むことが可能なのだ。なお注意すべきは、聖霊は「あなたがた」つまり教会に与えられることだろう。罪の自覚を与え、信仰を与えるのは、聖霊の働きであるが、聖霊は、真に霊的に生きた教会、キリストを愛しキリストに忠実である教会と共に働かれるのである。
ヨハネは、この十字架前夜に、イエスのことばを弟子たちがいかに理解できない状態であったことを語り伝えている(12-18節)。イエスの十字架と復活によって、罪の力が打ち破られ、救いが達成され、神の国が現実的なものとなる、その旧約預言の完全な成就が間近であることを彼らは理解できないでいた。しかし、イエスが復活する時に、エマオの途上にあった弟子たちが、聖書を解説されたイエスによってすべてを理解したように、またペンテコステの聖霊降臨によって弟子たちが、一切の不安を取り除かれ確信をもってイエスを証言したように、しばらく時が必要であった。その時のために、彼らは聖霊を祈り求めるように、と勧められる(23,24節)。その時が来れば、全てが明らかになり、もはや、その意味を尋ねる必要はなくなる。老ヨハネは、まさにそのことを実感しながら、この福音書を書いたのであろう。彼は、全てを理解したのであるが、それはこの時の信仰告白に基づくものであったことを(29節)。
 最後に弟子たちは、避けられない痛みと悲しみの中を通り、散らされること、そしてイエスが一人残されることを予告される。老ヨハネは、この書を書き進めながら、イエスの十字架の下に、イエスの母マリヤと共に立った時、確かにイエスが一人取り残された事実を思い起こしたことであろう。そして、キリスト教会に対する迫害の気配が高まる中、今のキリスト者に正に必要なことばは、この時イエスが語ったことばは、「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(33節)であることを思ったのではあるまいか。彼はただ歴史的事実を書いたわけではない。実際に苦難を生き抜き、復活の勝利を得たイエスの言葉を持って、初代のクリスチャンたちを励ましたのである。
 老ヨハネは、イエスに起こった一つ一つのエピソードを思い起こしながら、キリストにあって、無駄な苦難はなく、失望に終わる苦難もない、と語るのである。聖霊の助けによって、主にある平安を抱き、苦難の先にある希望へと目を向けていくこととしよう。
 

ヨハネの福音書15章

2018年02月25日 05時46分36秒 | 福音書
ここでイエスは、いよいよ、この世の支配者との霊的な戦いに出て行くことを決意し、弟子たちに挙党一致を呼びかけている。そして、ヨハネはこの時、イエスが、いくつかの共通意識を持とうとしていた、と回想している。それは、最も親しい弟子たちに対する、最も重要なメッセージであった。イエスは三つのことを語られた。
 第一に、1~11節で、弟子たちとご自分との関係について。鍵となる言葉は、二つ。「とどまる」と「実を結ぶ」である。3節「わたしにとどまりなさい」、ギリシャ語では強調形が使われており、「まさにこの私にこそとどまりなさい」となってる。イエスはご自身を「まことのぶどうの木」に例え、「あの人でもなく、この人でもなく、私にとどまりなさい」そうすればあなたがたは豊かに実を結ぶ、と言う。
 こうしたことばの背景には、神から離れ実を結んでこなかったイスラエルの歴史を覚える必要があるだろう(イザヤ5:1-4、7)。バプテスマのヨハネも、悔い改めにふさわしい実を結びなさいと語ったが、イスラエルは神から離れ、相も変わらず悪と不正、そして流血に満ちた、実を結ばない荒れ果てたぶどう畑にたとえられるものであった。そこでイエスは言う、イエスとともに生まれる新しいイスラエルは、イエスにしっかり結び付き、イエスから霊的な糧を得て生きるように、と。そしてイエスが与えられる永遠のいのちを喜ぶために、イエスのきよさの中にいることが勧められる。御子の尊い血潮で、私たちの魂がきよめられること、そして、それが維持されるために不要な枝葉末節が切り取られること、つまり刈込がなされ続けることが大切なのだ。それは、具体的にパウロが言う敬虔のための鍛錬を意味する(1テモテ4:7)。
キリスト者の人生は、神の義、正しさにあずかる人生であるが、現実は厳しく、必ずしも聖書にあるとおりの歩みができるわけではない。自分がつくづく罪深い人間で、罪の泥沼から抜け出せないと思わされるような現実に直面することがある。そんな罪深さに失望する時であっても、十字架の恵みと赦しによって、あきらめることなく自分の救いを完成するのである。私たちがクリスチャンとして完成されていくためには、多くの罪の赦しと神の恵みが必要である。多くの失敗を重ねながらも、キリストの愛によって支えられ、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という実を、豊かにならせていくのである。それによる結果は、信仰者の祈りはどのようなものであれ、かなえられることになる(7節)。というのもキリストご自身の祈りを自分の祈りとすることができるからだ。
第二にイエスは、兄弟姉妹に対する愛の実践について語っている(12,17節)。それは、教えというよりもむしろ戒めである。動詞は現在時制で、継続の意味あいがある。「互いに愛し合い続けること」を意味している。つまり、しばしば、きまぐれに、衝動的な感情で愛するのではない。愛は、持続力のある行為である。人のために最上のものを求め続ける意志力である。その模範は、イエスにある。イエスはちょうど「わたしがあなたがたを愛したように」と言われた。つまり、究極的には十字架愛として現された個人的な犠牲をいとわない愛で愛することである(13節)。また、仲間内、身内として愛する愛である(14節)。一つ心にされていく愛である(15節)。仕事を越えた全てを分かち合う愛であり、相手が最大の満足に導かれるため互いに助け合おうとする愛である(16節)。その愛はまさに天来の愛、主イエスに結び付いたいのちの結果として起こる愛と言うことができるだろう。
18~27 節では、弟子たちと世との関係が取り上げられている。鍵言葉は、「憎しみ」と「証」。あなたがたは世から憎まれるであろう。しかし恐れず証せよである。
 神であるイエスに対しては「留ま」り「実を結ぶ」こと、兄弟姉妹に対しては十字架の愛によって「愛する」こと、そして世の敵意に対しては恐れず「証し」するのだ。世から徹底した敵意と憎しみを向けられた弟子たちが、それと同じ敵意と憎しみを受けないですむわけがない。実際、使徒の働きは、弟子たちがキリストと同じ理由なき憎しみを受けたことを記録する。そして同時に、イエスがここで約束されたように、聖霊が、彼らを助けたことを証ししている。そこに恐れることのない理由がある。あなたは一人ではない。聖霊があなたとともにいて、聖霊が必要なことをお語りくださるのである。


ヨハネの福音書14章

2018年02月24日 04時36分23秒 | 福音書
 最後の晩餐の時に、イエスが開口一番に教えられたことは、十字架の遜りであり、その聖めの力であった(13:1-17)。その後、イエスは、裏切り者が現れることを予告している(13:18-24)。最初にヨハネが質問した。「裏切り者は誰であるか」と(25)。イエスは「ご自分が手ずからスープに浸したパンを与える者だ」と答えている(26-30)。次に、イエスは自分が去っていくことを予告した。そこで次にペテロが質問した。「どこにいらっしゃるのか」と(36)イエスは「父が住んでおられるところ」(14:1-4)と答えている。そこでトマスが重ねて質問した「どうやってそこにいくのか」と(5)。イエスは「自分の足跡に従ってくることだ」と語っている(6-7)。  
イエスは、ご自分のたどった道についてくるならば、私たちも神の御前に立つことができるという。しかし、イエスのたどった道を踏みゆく者は少ない。刻々と変わり行く時代の流れの中で、私たちが歩むのは、自分のそれであってイエスのそれではない。いつでも私たちは、自分の道、自分が身分や地位を得、財産を築くことに熱中する歩みをしている。しかし、その先には何もない。一方イエスの辿った道は、十字架の道であり、自分を捨て、神に仕え、死にまで従われた道であり、それは、神に至る道である。それは、神と人間に関する「真理」そのものであり、神の「いのち」をもたらすものである。
さてイエスは、ご自分がいなくなって取り残される不安にさらされている弟子たちに、自分がいなくなっても、聖霊なる助け主がともにいてくださること、イエスが帰ってくることを約束される(4:15-21)。そして恐れを克服するため、四つのことを語られる。
第一に聖霊の御業により頼むことである(25-26節)。聖霊は、キリストに代わって、教え、思い起こさせる。第二に、キリストの平安を求めることである(27節)私たちは恐れを自分でコントロールしようとする。しかし、イエスは、ご自分の平安をそのまま与えるという。恐れ、ざわつく私たちの心にイエスの平安が宿る時に、私たちの心も静められる。自分で平安を造り出すのではない。キリストの平安を心の内に持つ経験を私たちは知らなくてはならない。
第三に、神のご計画を知り、受け止めることである(29節)。イエスは、弟子たちにご自分が、去って行かれることを語られた。しかし、同時に、再び戻ってこられることを約束された。神の約束を静かに信頼することが、私たちの恐れを取り除く。私たちは神のご計画があり、そのご計画に生きることが最前であることを知らなければいけない。しかし多くは、自分の計画にしがみつき、イエスにたかる者のように生きているからこそ、イエスが見えなくなると不安になるのである。私たちが真に神を愛するなら、恐れはないのである。
最期に、キリストに倣うことで、私たちは恐れを克服することができる(31節)。イエスは、父を愛し、死にまで父の命令に従った。そのような愛に動機付けられた従順は、キリストに平安を与えた。この愛に動機付けられた従順は、私たちが踏み行くべき模範の道である。
私たちに恐れは尽きない。いつでも恐れることはある。しかし、キリストが、まず自分の力の源であることを認めることだろう。そして恐れた時には、キリストの平安を求めるべきだ。そして、神のご計画に生きているかどうか、確認しよう。そして、悲観的、否定的な心の習慣を捨て去り、キリスト共に信仰的な戦いに出ていく決心をしよう。「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」(31節)は、イエスがこの世の支配者との霊的な戦いに出て行くことを決心したことを意味している。私たちも同じ決意を持って進みたいものである。