【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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エゼキエル書2章

2017年06月05日 07時29分17秒 | 出エジプト記
神は、エゼキエルに語りかけられた。「人の子よ。立ちあがれ。私があなたに語るから」(2節)。「人の子」は、イエスが好んで用いた称号でもあるが、これは単に、エゼキエルが神に造られた被造物に過ぎず、「人間のような姿をした」天使的な生き物(1:5)とは区別される者であることを意味している。エゼキエルは神に召しだされたとしても、特別な存在ではない。一介の人間である。ただ神の霊によって立つ、神の器である、というわけだ(2節)。パウロも語っている。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」(2コリント4:7)。まさに私たちは、神の格別なあわれみによって、神の恵みを知らせ、伝える務めに任じられているのである。
 神は、エゼキエルが誰に遣わされるのかを語る。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす」(3節)。「あつかましく、かたくなな」(4節)国民。神の預言者が遣わされる民は、いつでも、このような民であったと思われるが、エゼキエルが相手にしたのは捕囚の民である。エルサレムに残された民ではない。捕囚の地に捕虜として連れ去られた民であった。残された民の中で苦戦するエレミヤに対して、捕囚の民の中で神のことばを語る重荷を担うエゼキエルがいた。
5節、7節、神は語る。「聞いても、聞かなくても」語らなければいけない、と。聞かれないようなものを語るのは、自分の評価を下げるようなものである。しかしそれでも語れ、と神は言う。だから、神の言葉を語るのは、自分を無にすることに等しい場合がある。自分を保ちながら語ろうものなら、混ぜ物をする他ないことがある(2コリント2:17)。そういう意味で、神のことばを純粋に語り続ける努力は大変なものがある。神のことばに素直に耳を傾ける者は少ない。神のことばを聞いてそれを行う者は、ましてである。しかしそれらの困難と苦しみを乗り越えて語り続けるのが、神の器としての使命である。6節、「彼らや、彼らのことばを恐れるな」「恐れるな」「恐れるな」「ひるむな」。繰り返し語られることばが印象的である。神の民一人一人を建て上げようとする神の熱心さが感じられる。宣教も、教会を建て上げることも、私たちの意思や理想によるものではない。それは、私たちの事業ではなく、神の事業である。神がなさろうとしておられることに、私たちは仕えているに過ぎない。
だから、無機質な機械として語るのではない。神の思いを自分の思いとして語る。神の愛を自分の愛として伝える。それが神の器に期待されていることである。預言者は神の代弁者であると同時に、代思者でもある。エゼキエルが、神のことばの素晴らしい味わい、それを語らざるをえなかったように(2節)、私たちの内側の思いが燃やされて、エレミヤのようにそれを閉じ込めておくことに堪えられず(エレミヤ20:9)、またペテロとヨハネのように、それを話さざるを得ないのである(使徒4:20)。
もちろん、現実問題として、私たちが素晴らしいと思うことを、相手が同じように受け止めるとは限らない。捕囚の民も同じであった。実際、これまで散々神に敵対し、偶像崇拝に陥り、不道徳の中を歩んで来た民が、心柔らかに、神の言葉を受け入れて歩むようになるとは限らなかった。だからこそ、宣教は難しいのであり、痛みを負う。エゼキエルが直面していたそんな試練に、神の語り掛けが面白い。ユダヤ人は鉄面皮だから、あなたの顔も同じように「堅く」しよう、という(8節)。「堅く」するはヘブル語でハーザーク、そう語られたエゼキエル自身の名は「神が堅くする」を意味する。無賃乗車をする人のことを薩摩守と言う。薩摩守が平忠度(ただのり)という人であったことによるが、そこには「音」ではない「意味」の語呂合わせがある。神は、困難な宣教に助けを与えるとエゼキエルに冗談を交えて語っている。神とよき時を過ごす楽しさがこんなところにも ある。

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