パスターまことの聖書一日一生3⇒4(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第四サイクルに順次移行します。ぜひ続けてお読みください

詩篇79篇

2016年10月01日 05時48分11秒 | 詩篇
「神よ。国々は、ご自身のものである地に侵入し、あなたの聖なる宮をけがし、エルサレムを廃墟としました。彼らは、あなたのしもべたちのしかばねを空の鳥のえじきとし、あなたの聖徒たちの肉を野の獣に与え、聖徒たちの血を、エルサレムの回りに、水のように注ぎ出しました。彼らを葬る者もいません。」(1-3節)伝承のとおりであれば、バビロンに征服されたエルサレムの悲惨な状況について語るものである。都市は瓦礫の山となり、多くの住民が虐殺され、死体を葬る者もない。それらは野ざらしとなり、鳥や獣のえじきとなっている。何という光景だろうか。あまりにも不気味で、悲惨である。なぜ神はこんなことを許されるのか。
著者は、これを神の裁きの故であると告白する。神の怒りは、私たちの望みを焼き尽くすほどに、激しい。実際望みは焼き尽くされてしまっている。イスラエルの国民は、滅ぼされ、一軒残らず打ち滅ぼされてしまったのだから。
しかしこのような結果になったのは、罪故であることを、著者は認め告白する。神に背いたことが、決定的な破壊をもたらした。それは悲しいことではあるが、言い訳のきかない結末である。
普通は、そこでなおも、望みを神に抱くことなど、難しいと思うものではないか。しかし、人間は生きる限り、回復を求める以外にない。ただ神の哀れみにすがるほかはない。それはだめなのか、というと、聖書の神は、そうではないのだ、と著者は教えるのである。たとい「ひどくおとしめられている」(8節)ことがあっても、この詩篇を読むならば、人間は生きる限り自分の幸せを求め続けてよいのであり、神に愛され、回復されることを求めてよいと知るのである。
たとえ回復される望みを抱く根拠が、自分の側には何もないとしても、私たちは諦めてはならない。私たちは神の憐れみを求める権利を有している。それは、私たちの側ではなく、神の側にその根拠があるからである。著者は祈っている「私たちの救いの神よ。御名の栄光のために、私たちを助けてください。御名のために、私たちを救いだし、私たちの罪をお赦しください」(9節)。神の栄光の御名がそしられないため、神は私たちに哀れみを拒まれない。私たちが回復するのは、私たちがその回復に与るふさわしさがあるためではなく、キリストの十字架の契約のため、神の永遠に変わらぬ祝福の約束があるためである。
私たちの神は、罪を裁かれるお方ではあるが、憐れみ深い神であり、悔い改めた者に対する回復を拒まれない。私たちが真に神に向きなおすならば、神は、周囲のあざけりを取り消されるように働いてくださる。「あなたのあわれみがすみやかに、私たちを迎えますように」(8節)。「私たちの目の前で、国々に思い知らされますように」(11節)神の存在が明らかに、人々におぼえられていくように。神の確かさが人々に知られていくように。「死に定められている人々を生きながらえさせてください」(11節)。定められているものを、そうではないもののようにする。誰もが、当然のことと見なす結末を、そうではないもののようにする。それは、天地創造の神を覚えればこそである。無から有を生み出し、あるものを無いもののようにされる神を覚えればこそである。
悔い改める罪人に、回復と感謝の機会を得させて下さる神を覚え、積極的に神に立ち返り、神を求めて歩ませていただこうではないか。
ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 詩篇78篇 | トップ | 詩篇80篇 »

詩篇」カテゴリの最新記事