パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

エゼキエル書13章

2017年06月16日 05時17分43秒 | エゼキエル書
 13章は、「預言をしているイスラエルの預言者どもに対して」語られたことばになっていて、エレミヤ書23章の内容に通じている。エゼキエルは彼らを「愚か」である、という。つまり神を敬わずに「自分の心のままに預言する者ども」(2節)「自分の霊に従う者」(3節)である。また、廃墟にいる狐のように、ずる賢くたちまわって生き抜くだけの者である。彼らは民に嫌われ迫害されることを恐れて、本来語るべき、BC586年のエルサレム滅亡の日の警告を語ろうとしない。平安がないのに平安の幻を語る者である。
預言は、人間的な活動ではない。まさにアモスが「神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう」(3:8)と語ったように、預言者は神の代弁者であり、神の言葉を預かりそれを伝える者である。しかし、「イスラエルの預言者ども」は、自分の心のままに、むなしい幻を語り、まやかしの占いをしているだけであるという(6節)。
偽預言者に対する主の裁きは、3つの形で現れる(9節).①「わたしの民の交わりに加えられず」②「イスラエルの家の籍にも入れられない」、そして③「イスラエルの地にもはいることができない」つまり捕囚からの帰還が出来ない、という。
彼らは主に遣わされたわけではないのに、「主の御告げ」として語っている。大切な点である。説教は聖書の翻訳である。そういう意味では、牧師もまた、神である主が聖書を通して語られたことを、そのまま語り伝える預言者的存在に過ぎない。聖書に書かれていることを越えてはいけないし、それ以下であってもいけない。「壁を建てて、それを上塗りする者」(11節)であってはならないのだ。結局、大雨が降り注ぎ、雹が降って、激しい風が吹きつけてしまったら、剝がれ落ちてしまうような、偽りのことばを語ることは許されない。誰でも、耳に優しいことを語る誘惑に曝されるものだろう。しかし、神の召しに忠実であるなら、誰でもパウロのように、「神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです」(2コリント2:17)という確信に立つはずだ。
17節からは、「自分の心のままに預言するあなたの民の娘たちに」とあり、2-16節の男預言者に対する言葉に並ぶ女預言者に対することばである。旧約時代、イスラエルには女預言者と呼ばれる者たちがいた。モーセの姉ミリヤム(出エジプト15:20)、デボラ(士師4:4)、フルダ(2列王22:14)がそうである。しかし、エゼキエルの時代の女たちの働きは、女預言者と呼ぶにはあまりにも稚拙だったのだろう。エゼキエルはこれを「娘たち」と呼ぶ。実際、それは、異教の巫女的な、またまやかし的な占いであったとされている。問題は、彼女たちが、人心の不安につけこみ宗教を利得の手段としたことだ(19節)。そして、彼女たちは、先の預言者たちが、神の意図に反したことをしたように、22節、ただしい人の心を悲しませ、悪者を力づけるようにした。
神はこうした女預言者に報復される。ここでも三つのことが言われている。主が、①彼女たちの働きを止め、②ご自分の民を、彼女たちの手から救い出される。そして③契約の神が主であることをあかしされる。
こうした偽預言者の活動は、いつの時代にもあるのであって、私たちは注意せねばならない。いつも聖書そのものに聞く心の態度が必要であるし、聖書に探られることを嫌がってはならない。私たちの心の鏡である聖書に、素直に心を開き、まっすぐな神のことばに聞き従っていくことが大切である。

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