パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

エゼキエル書42章

2017年07月15日 05時14分33秒 | エゼキエル書
 祭司たちが使う2つの建物について語られる。しかし、これらの描写から、その位置や構造を正確に知ることは難しい。
まず構造についての説明であるが、どうやらエゼキエルは、神殿中央の祭壇のある内庭から北側の外庭に連れ戻されている(1節)。内庭から外庭に出る通路があり、そこに建物が作られている。それは、神殿本体側つまり聖域に面する建物と外庭に面する建物の二棟からなっている(8節)。本堂に面した棟の長さは百キュビト、外庭に面した棟の長さは50キュビト、それぞれの幅は50キュビト、その真中を幅10キュビトの通路が通っている。またいずれも三階建てになっていて上の階に行くほど、通路が設けられ部屋の幅も狭くなっている。北側に出る通路だけではなく南側に出る通路にも同じ建物が作られている。
次にその用途が語られる。聖域に面する部屋は、「主に近づく祭司たちが最も聖なるささげ物を食べる所」(13節)そこで、穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえのうち、祭司の分を食べるのである。また、そのささげものを保管し、祭司の装束を着替える場所として使われる(14節)。繰り返し読むと、構造やその用途がわかるだけではなく、神の奉仕のために、自分自身をきちんと聖別するように心が説得されてくるところがある。神殿における働きは特別なのであり、教会も同じであろう。
神が週ごとに、教会の礼拝に招いてくださる。礼拝において神に向かい、神を認め、神にひれ伏していく。ただその礼拝のための会堂のみならず、その準備のためにも聖別された部屋がある、という意識。本当に尊いものを尊いものとする、何重にもその思いを強くする、神の偉大さを思えば自然なことでもある。私たちの罪の深さが、神礼拝を軽々しいものにしてはいないか問われるところでもあろう。
さて神殿内部の測定が終わると、15節、エゼキエルは再び東向きの門(正門)に連れ戻され、そこから外庭の外に出ている。そして今度は、神殿全域の規模が測定されるのを観察している。興味深いのは、「東側を測ると、測りざおで500さお」(新改訳)とあるが、口語訳では「500キュビト」、新共同訳では「500アンマ」と訳されているところだ。混乱するところである。500さおならば、1さお6キュビトであるから、3000キュビトとなる。しかし、それは、これまでの外寸を足したものとは随分かけ離れている。正方形の外寸を指すから、これは、今までの建物全体の、つまり外壁の寸法を言っていると理解するならば、やはり500キュビトが適切な長さだろう。なおアンマはキュビトと同じであるから、これはどうもヘブル語本文通りに訳した新改訳が不都合な寸法を示していることになる。ヘブル語のギリシャ語訳である七十人訳に沿って500キュビトと訳すのが本当ではないか。
ただ大切なのは、長さ云々ではなく、ある尺度をもって区切られた聖域があったと理解することである。聖なるものと俗なるものとが区別されているところだ。確かに、この神殿が、捕囚期後に再建される神殿というのではなく、ヨハネ黙示録に描かれる、新天新地の象徴に通じるものであるとするならば、その区別の意義は重要である。その神殿には、俗なる者は入れない。聖なる者だけが入れる。そして、その神殿の中央にあるのは、祭壇であり、そこでは、穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえが捧げられる、ということ自体が救いであり、私たちの希望なのであろう。
穀物のささげ物は、私たちの労働の実をささげること、罪のためのいけにえは、私たちの無意識、過失の罪の赦しのためにささげられるもの、罪過のためのいけにえは、私たちの故意の罪のためにささげられるものとしたら、私たちが謙虚にそのいけにえを私たちのものとして受け入れ、ささげるのならば、その聖域に踏み進みゆくことができる。神は私たちをも、エゼキエルと同じようにご自身の聖域に招いてくださるのである。
ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« エゼキエル書41章 | トップ | エゼキエル書43章 »

エゼキエル書」カテゴリの最新記事