パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

エレミヤ書34章

2017年05月11日 05時53分40秒 | エレミヤ書
エレミヤはエルサレムが救われるためにバビロニヤに降伏すべき事を語ってきた。そしてついに神の裁きの道具であるバビロンは、ユダの城壁のある町々を陥落させ、エルサレムを攻め取ろうとしていた。「見よ。わたしはこの町をバビロニヤの王の手に渡す。彼はこれを火で焼こう」(2節)。実際にエレミヤの預言は、その通りに実現していくのであり、エレミヤの預言を聞くゼデキヤに求められていたことは、素直に降伏することであった。しかし、彼は、カルデヤ人の攻撃に際し、降伏せずに、逃げようとした(2列王25:1-7)。結果、彼は見つけられ、目を潰されて、バビロンへと連れて行かれてしまうのである。
 そうなる前に、ゼデキヤが、ヘブル人の奴隷を所有している者たちに解放する誓約を行うように勧めたことが記録される。それは、自分たちのあわれみ深い行為によって神が、バビロニヤ包囲の危機から救ってくださるかもしれないと期待したためである。そこで、首長と民は、それぞれ自分の奴隷や女奴隷を自由の身にして、二度と彼らを奴隷にしないことに同意して、奴隷たちを解放した、という。するとそこに、エジプト軍がエルサレム解放のために、進軍している知らせが届いた。この知らせに、バビロニヤ軍は、エルサレムの包囲を解き、エジプト軍に対抗する戦列を整えるために一時退却した(21節)。この一時の動きは、ユダヤ人に一抹の希望と安堵を与えた。
 そして危機が過ぎ去ったと思うや否や、ユダヤ人の首長や民は心を翻したのである(11節)。彼らは誓約を取消し、再び奴隷を連れ戻して使役した。彼らはただ約束を破ったのみならず、誓約において用いられた神の名を汚した。神を畏れない彼らに、神が報復を宣言されるのも無理はなかった(17節)。
 レビ記には、ユダヤ人は、神の奴隷であるから、奴隷にしてはならない、と規定されている(レビ25:42、55)。しかし、当時、経済的な理由から、自発的に奴隷になる者があった。おそらく外国に身売りをして、イスラエルに売り戻された者たちのことなのだろう。そのような場合は、7年目には解放しなくてはならなかった(申命15:12)。神殿ではそのような奴隷の解放手続きが、公になされたようである。けれども奴隷所有者はその約束を破ったのみならず、これを手放したがらなかったのである。神は報復を宣言される(17節)。エルサレムの人々は危機的な状況においては、神の加護を求めて、神に従順な態度を取った。神を喜ばせようとした。しかし一度、危機が過ぎ去ろうとするや否や、再び、神に反逆的な態度をとった。私たちも同じようなものであろう。危機が訪れる時に、私たちは神の加護を求めようとする。善人になりすまそうとする。しかし根が善人ではないから、物事が好転し、自分に有利に動き始めると、いとも簡単に神に背を向けてしまうのである。神に従うことは、状況に左右されるものではない。いつでも、心から神に従うべきであり、時が良くても悪くても、神を喜びとし、神の最善を信頼し、神のみこころに服従して歩むことである。今日も神に従う歩みをさせていただこう。

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