パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

詩篇117篇

2016年11月08日 03時06分12秒 | 詩篇
 わずか2節の詩篇であるが、その中身は、壮大である。「すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え」宣教の究極的な結末が述べられている。ヨハネは、黙示録7:9-12において、終末の人類の姿を描いている。終末においては、「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、誰にも数えきれないほどの大ぜいの群衆」が集まり、神の前にひれ伏し、礼拝をささげるという。キリストのもとに全人類が一つとされる、絵が描かれている。この詩篇は、わずか2節で、その壮大な光景を思い描かせてくれる。
 しかしそれは、どのようにして可能となりうるのか。そもそもの出発点は、創世記12:1-3のアブラハム契約にある。そして神がアブラハムと契約を交わされたのは、創世記1-11章に描かれた人類の堕落と罪によって、人類が神の呪いを受けて散らされた、という事実に基づいている。神はバベルの塔を築き連帯しようとする人類を散らされたのであるが、それで終わりとはされなかった。むしろアブラハムとアブラハムの子孫によって、人類を再び一つにする計画を明らかにされた。神はアブラハムに言われた。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」(創世記12:3)。つまりここで言う祝福の意味は、物質的な繁栄なのではなく、散らされた者が罪から救い出され、一つにされる祝福である。旧約聖書は、一つのミッションのために神に選ばれたアブラハムの子孫、いわゆるイスラエル民族がどのように生きたかの記録である。それは、まさにミッションに失敗した記録である。
 イスラエル民族は、自分たちが神に選ばれたのは、神の寵愛を受けるためであると勘違いした。そうではなく、自分たちを通して、彼らが異邦人として蔑視したあらゆる民族が救い出され、神の下に集められるためであったのである。
 こうしてパウロは、ユダヤ人に与えられた使命が、新しいイスラエル、いわゆるキリストを信じる者、キリスト教会に与えられたことを明確にしている(ローマ9:6)。つまり、新約は、キリスト教会を通して、散らされた者が罪から救い出され、一つにされる祝福のミッションがどのようになされたかの記録である。キリストの救いは、そういう意味で二つの目的を持つ。キリストの裁判において、大祭司カヤパがいみじくも預言したように、一つは、キリストにあって個々の魂が救われること、そしてキリストにあって人類が一つとされることである(ヨハネ11:15、52)。
イエスが与えられた大宣教命令(マタイ28:18-20)、つまり全人類への宣教命令は、ただ単にキリスト信者の頭数を増やすための命令ではない。その中身は、罪人の魂が救いだされること、そしてその作業によってすべての人類がキリストの下に集められて、キリストの平和に与ることである。そこを押さえないと、私たちもまた旧約聖書のユダヤ人同様の過ちを繰り返すことになる。選民思想に胡坐をかき、救われていない人を見下すようになる。数だけが取り柄の教会を建て上げることになる。
パウロは、このことばをローマ15:11に引用した。パウロの解釈は、ヨハネが黙示録に描いたものと同じである。やがて人類が心を一つにし、キリストを神として褒め称える日が来ることを思い描いている。散らされたあらゆる国民、民族が神の前にひれ伏し神を称える壮大な祝福のビジョンがそこにある。こうして宣教は、人類社会の主にある永遠の平和の実現というテーマに帰結する。そしてこの働きへと神の民は招かれているのである。もちろんこれを完成させるのは、人間の努力や熱心さではない。主の熱心さ、主の聖霊の働きによる。私たちに期待される最善は、祈り、証することである。

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