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ダニエル書10章

2017年07月31日 10時47分14秒 | 出エジプト記
 ペルシヤの王クロスの第三年(BC538 年)、つまりユダヤ人のパレスチナ帰還2年後、ダニエルは、本章から終わりまでに記す一連の神の啓示を受けた(1節)。ダニエルはバビロンに残り、ゼルバベルに先導されエルサレムに帰る第一次帰還民の中には加わらなかったようである。しかしそこでダニエルは、栄光に輝く荘厳な姿をした「ひとりの人」の幻を見た(5~9節)。第一の月の24日、というのは、第一の月の14日に過ぎ越しの祭、それから、1週間種を入れないパンの祭が続いたので、それらの祭の直後ということだろう。一人の人については、受肉前のキリストと理解する説、神のメッセンジャーとしての天使と理解する説(11節)があるが、黙示録1:12-16を連想させる点からすれば、前者と理解するのがよいのだろう。伝えられたメッセージは単純である。その者は、ミカエルと共にペルシヤの君やギリシヤの君と戦い、到来が送れたと言う。ペルシヤの君やギリシヤの君は、それぞれの守護天使を意味しているのだろう。つまり、天上での霊的な戦いがあることを意味している。大切なのは、この地上の王国の滅亡が、天上のこと、つまり霊の戦いとして語られている点である。私たちは、聖書の言葉を読み、祈りもするが、結局は、人や組織など目先のことで一喜一憂し物事がうまく進まないと考えている。しかし天上で起こっていることがあるのだ。確かにヨブ記には、天上で起こっている原因を知らされずに、苦悩しているヨブの姿が描かれている。パウロも「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対する者です」(エペソ6:12)と語っている。まさにこの世の色々な障害以上に、霊的な天上での障害がある。地上で起こっている事柄の背後に、天で起こっていることがある。
 そのように考えればこそ、逆に、「神に愛されている人ダニエルよ」(11節)という神の語りかけも意味がある。神様に祈ってもしょうがない、という思いになることはあるものだ。しかし、二元的に、神の霊的な世界が確かなものであれば、私たちは神に愛されているのであるから、神がなんとかしてくれるはずだと思えるようになる。そして祈りや礼拝を大切にできるようになる。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ」(19節)。イスラエルの民が、エルサレムを目指してこぞって帰還する時に、バビロンに留まるダニエルにとって、それは寂しい思いをさせられることであったかもしれない。これまで異教の国バビロンで、様々な試練に遭遇しながら、再びどのような試練に遭遇するかも知れず、そのような試練を乗り越えて最後まで信仰の生涯を全うするには、年を取りすぎていた、皆と共に帰還すべきであった、とあるいは思わされていた時だったのかもしれない。しかしどうであれ神が共におられるならば、心配には及ばない。神に愛されている者として、私たちは、恐れるに及ばないのである。神の守りを確信しよう。



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