パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

Pastorまことの聖書一日一生は、第三サイクルに入りました。ぜひまたご一緒に聖書を読み進んでまいりましょう。

詩篇121篇

2016年11月12日 06時17分15秒 | 詩篇
「都上りの歌」、ヘブル語で読むと、この121篇だけが、シール・ラ・マアロット(他はシール・ハ・マアロット)と、前置詞が加えられている。この前置詞は、方向や所有を意味するものであるから、「都上り」そのものへの関心があると見て良い。
となればこの「都上り」をどう理解するかがまず問題である。少なくとも三つの解釈があるようだ。一つは、神殿の階段(イスラエル男子の庭から婦人の庭への出口にある15段の階段)を上ることと解するものがある。また、バビロン捕囚から帰還民がエルサレムに帰国する途上のこと、あるいは、聖所エルサレムへの巡礼の途上のことと解するものがある。大方の都上りの歌は、巡礼の途上の歌と解されるのであるが、この121篇は、前置詞がついていることから、ユダヤ教では、これに加えて、霊的な意味で解し、天の世界に引き上げられる途上の歌と理解する伝承があったとされる。確かにそうやって読むと深みを感じるところもあるが、巡礼歌として単純に読んで差し支えないだろう。
構造的には、1,2節の「私」、3から8節の「あなた」に注目され、これも交唱歌として歌われたものであることを思わせてくれる。
ともあれこの歌は、エルサレムに近づく途上で口ずさまれ、エルサレム近郊の山々を見上げながら、天地をお造りになった神を思い、礼拝への期待感を高めるものであった。神は天と地そのものではなく、それらをお造りになったお方である。高くそびえる山々の高嶺を形作られた方、また谷の深みを形作り、広大な大地を延ばされた方である。あらゆる環境を整え、その最善の場に、ご自身の民を置かれた方である。そのような配慮に富んだ想像の業である山々を見上げる時に、私たちの助けは、「天地を造られた主から来る」と思わずにはいられない。「主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない」と告白せずにはいられないのである。
 当時の巡礼者は、一人で旅することはなく、共に群れをなして聖地エルサレムへと向かったという。それほど旅には、危険が多く、共に行動したというわけである。イエスとイエスの家族の巡礼の旅、ナザレからエルサレムまでは、三日の旅であった。うららかな春の日射しに包まれて、ナザレからエルサレムへと向かう者たちは、この都上りの歌を交唱しながらエルサレムへ出かけた。第一泊はサマリヤの北10キロのサーヌールに、第二泊は、サマリヤの南22キロのレボナに過ごし、三日目に残りの32キロを進んで、エルサレムへと達したとされる。そういう意味では、宿泊するポイントも大体決まっていた。
 そのような旅路の中で、彼らは、先に120篇で読んだように、神殿礼拝が神の業を確認し、神の恵みを覚える時でもあったように、エルサレムの途上で眺める山々に、宇宙を思い、さらに宇宙を越えてそれを作られた方へと思いが飛躍している。つまり彼らを愛し、守り、祝される人格的な神を思わされているのである。
主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手を覆う陰。右は、特権や代表の資格を示すことばであった。私たちに種々の困難があろうとも、その困難に勝る神がいる。目の前の山々が、いかに高いものであろうと、さらに高くにおられる神がいる。その神が、「すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主はあなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる」(7,8節)という。行くにも帰るにもは、直接的には巡礼の旅のことを言うのだろうが、それは日常の営みについても言えることだ。神が私たち具体的な日々の歩みの上に、そして永遠に至る歩みの上に、ご自身の手を差し伸べ、守られているのである。主の平安。
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