パスターまことの聖書一日一生3(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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エゼキエル書40章

2017年07月13日 05時21分59秒 | エゼキエル書
 エゼキエルの預言はついにクライマックスを迎える。神殿の幻についての預言である。これが頂点となるのは、やはり、主が契約の民イスラエルと共に歩み、その民の中に臨在されるお方だからである。その聖所は、イスラエルの背教の歴史の中で汚され、主のさばきにより失われてしまったが、32章以降、主の契約に基づくその霊的な回復が約束された。38-39章では、これに敵対する勢力が主のさばきによって取り除かれ、主とその民の関係が永遠に揺ぎないものとなることが示され40章からは、その民の新しい秩序が語られる。
「捕囚となって25年目の年の初め」つまりBC573年の1月、エゼキエルは、神の聖霊に導かれて非常に高い山の上に連れて行かれたと言う。そこでエゼキエルはひもと測りざおとを持った人と話している。その情景は、黙示録21:10-15の終末預言によく似ている。そして幻の内に新しい町にある神殿の青写真を告げられる。
 「普通の1キュビト に一手幅を足した長さ」(5節)は、俗に「長いキュビトの単位」と言われるもので、約52センチ、6キュビトの測りざおは、312センチになる。神殿の外側を巡る厚さ312センチの壁はかなり厚い。高さも同じであるという。ともあれ、その分厚い門の入り口から神殿の外庭に通じる廊下があり、その廊下には、それぞれ両側に三つの控え室と(10節)玄関の間があり(16節)、そこを通って外庭に出るようになっている(17節)。計算どおりに図を書いてみると、14節以外は、大体、理解できる範囲内である。壁柱が60キュビト、このあたりがどうもよく理解し難いが、あまり細かいところを拘るものでもないのだろう。イメージで理解するだけでよい。
ともあれ、そこから広い外庭に出るのであるが、神殿の外側を巡る壁には、他に北向きの門(20節)と南向きの門(24節)がある。そして外庭から今度は同じような仕組みの、つまり控え室が両側に三つある廊下を通って、神殿の内庭に入る(28節)。内庭に入る門 と廊下も、南(28節)、東(32節)、北(35節)と同じように三つある。38節以降、全焼のいけにえをすすぎ清める所がどこにあるのか、位置関係がはっきりしないが、内庭で行われる犠牲の準備をする部屋とその道具の説明が続く(38-43節)。そこからさらにエゼキエルが連れて行かれるのは、内庭にある祭司たちの部屋である(44-46節)。その部屋は北向きと南向きがあって、それぞれ職務内容によって区別されていた 。内庭の大きさは、「百キュビトの正方形」(47節)、神殿本堂の前には、祭壇がある。そこに上る階段は、70人訳では10段となっており本堂が高い位置にあることを示している。 
以上、40章を概観すると、神殿を取り囲む一番外の壁から外庭に入り、中庭に入り、そして神殿本体いわゆる本堂の入り口に立つ(49節)流れになる。しかしながら、これを、文字通りに解釈するのか、それとも、象徴的に解釈するかがまた問題である。
 文字通りに解釈すれば、エゼキエルは、捕囚期終了後の、エルサレム神殿再建の青写真を神に与えられたことになる。しかし、40章の冒頭ですでに非常に高い山の上にそれが建てられていたこと自体が、文字通りに解釈することを躊躇させてしまう。では、象徴的に解釈して、終末の未来預言であると理解するなら、それは、天国やあの世のお話となって、どうも、当時の人びとにも今の私たちにも、何ら迫ってくるものはない。すでに枯骨の幻(37章以降)から、エゼキエルの預言は、象徴的に解釈してきたが、それが今の私たちに意味あるものとなるためには、単に未来的な展望ではなくて、このように、よく錬られた設計図を指し示す神が、私たちに完全な計画を持っておられる、という神のご性質を理解するメッセージとして受け止めていくことだ。また新しい再建の歩みにおいては、まず神殿が重要で、つまり礼拝が私たちの中心で、常に神を中心とした歩みをなすべきことが促されていると理解したい。今日も、私たちのために、いつも綿密に物事を考え、計画を錬っておられる神がおられる、と考えること自体、大きな励ましである。
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