【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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エレミヤ書48章

2017年05月25日 05時43分17秒 | エレミヤ書
エジプト、ペリシテ、そして48章はモアブに対する裁きのメッセージとなる。モアブは、民族的には、創世記に出て来るアブラハムの甥ロトの子孫であるから、イスラエルとは非常に近い関係にある。ダビデの家系に加えられたルツもこの民族の出身である。しかしモアブは、イスラエルとはそれほど友好な関係にあるわけではなかった。出エジプト後、ルベン族が、その土地を自分たちのものと主張して以来イスラエルとモアブは闘い続けた。エホヤキムの時代、モアブはバビロニヤの同盟軍となり、ユダに対抗したが、ネブカデレザルによって滅ぼされている。モアブが滅びることはアモス(2:1-3)とイザヤ(15、16章)によって既に預言されていたが、エレミヤもこれを繰り返す形になっている。
エレミヤ書は希望を与えることばもあるが、どうも通読してみると、裁きのメッセージが長い。神の怒りと報復のメッセージが続くと、どうも早く読み飛ばして、先へ進みたいような気もしてくる。しかし、このように語られる時代の特徴もあったと言うべきだろう。来る日も来る日も、何か希望がないようなことはあるもので、ただ時が過ぎゆくのを、上手に待たねばならないことがある。しかしどのように、苦しい時を過ごすかは、その人の考え方次第、受け止め方次第である。ただ希望がないと思い続けて生きていくのか、それとも、希望がないはずの所に、これらすべてが終わらない限り、次のステップには進めないのだ、と達観し、前向きに過ごしていくのか、大きな違いである。どうせ、そのような時を過ごさねばならないとしたら、その期間は信仰的に過ごすのが得策である。
ともあれ聖書のメッセージは単純であるが、いつも人生の核心をついている。モアブは、神ではなく、ものに頼ったが故に、足をすくわれた(7節)。モアブは、高ぶったが故に、低められた(29節)。ある意味で普遍的な真理であって、確かに拝金主義、物質主義は、いつ足をすくわれるかわからないような脆弱な人生基盤である。お金があれば、ものがあれば安心する私たちであるが、そういうものは、私たちに本当の永続的な平安はもたらさない。また、高ぶる者は低くされる。結局人間は謙虚に生きる時に最も安定している。
モアブはワイン酒造でよく知られていた。「それゆえ、見よ、その日が来る。その日、わたしは、彼に酒蔵の番人を送る。彼らはそれを器から移し、その器をあけ、そのつぼを砕く」(12節)。モアブが自ら自分を低くしていれば、神によって砕かれることもなかったことだろう。神の御前ではだれも誇らせない、神のみが栄光の主であることを、私たちは心しなくてはならないのである。結局、私たちが人間というものはどういうものなのか、ということをいつも問い、苦難にあってどう生きるべきか、順境にあって、高ぶりをよしと思わされるような時に、どうあるか、神が造られた人間のあるべき姿を、よく理解して歩むことが大切なのだ。人間であるからこそ、こう歩んでいくという自分なりの哲学をもっていく、というべきか。今日も神の前での高ぶりを捨て、遜って神の時を過ごす、そして神の御業が進められることを願う者であろう。

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