パスターまことの聖書一日一生3⇒4(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書を一日一章読み進み、一日一生を得ることを目的に、既に四回目の通読に入りました。三年半で聖書を読み終えます。

詩篇135篇

2016年11月26日 05時18分58秒 | 詩篇
 「ハレルヤ。主の御名をほめたたえよ。ほめたたえよ。主のしもべたち」(1節)。礼拝者への呼びかけである。神をほめたたえる、その理由が続く。一つに、主はいつくしみ深いお方だからである(3-4節)。そしてそのいつくしみ深さは、主が、私たちを選び、ご自分の宝とされた、ことにある。その選びの根拠は、私たちの側にあるのではなく、神の側にある。神は、神ご自身の慈しみ深さに基づいて、私たちを選ばれた。だから、選ばれた私たちには、何のとりえもなかったり、全く取るに足りない者であったりする。あるいは、人間的な目で比較して見れば、人間的な価値の差がはっきり見て取れて、選ばれようがないと思う者すらいたりする。大切なのは、他人と比較し、おごり高ぶりやすい者すら、神は選んでくださっていることである。愛は、不合理なものであると言われるが、神の選びが、ただ神ご自身のあわれみによることのゆえに、私たちは、神を心からほめたたえるのである。
 そして第二に神は全ての神々にまさっている(5節)。神は天地創造の神である。思うままに、ご自身の創造の業を成し遂げられた。「主は望むところをことごとく行われる…主は地の果てから、雲を上らせ、雨のために稲妻を作り、その倉から風を出される。」実に、神は、この天地にあるものを自由自在に操られて、ご自分の目的を成し遂げられる。神にはすべてが可能である。かつてエジプトで奴隷状態であったイスラエル人には何の望もなかった。来る日も来る日も、抜け出せない闇の中で、彼らはただ空しく神の救いを待ち望んだ。しかし、彼らの神は、「口があっても語れず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、口には息のない」神ではなかった。彼らの神は、心のうめきと叫び声に耳を留め、確かに、選ばれた者のために、宝とされる者のために、立ち上がってくださるお方であった。
 その神をほめたたえよ、という。しるしと奇蹟をなし、歴史の流れを変えられる神を私たちは礼拝している。信仰を持つことは、いつでも、新しい望みを抱くことに他ならない。いな信仰を持っているなら、私たちは常に望みを抱き、ほめたたえることを学び訓練されなくてはいけない。
というのも、私たちは、あまりにも神を小さく考えている。それは、私たちが神とするものは、いつでも、口があっても語れず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、口には息のない神」だからだ。そんなものを神にしても無駄と、思うよなことを繰り返し、本当の神の可能性すら低く思うようになっている。私たちは本当の神の存在を知らなくてはならないし、その神の可能性の深さ、広さ、高さをわからなくてはならない。そして頑なな心を変えられなくてはならない。著者は、くり返す。「主をほめたたえよ」「主をほめたたえよ」「主をほめたたえよ」「主をほめたたえよ」(19-20)4度くり返す。聖書において4は、天地四方、全地を言い表す数であると言われる。この地上に住む皆が神をほめたたえることへの勧めだ。
なお、詩篇では初めてレビが賛美に加えられる(20節)。レビ人は、荒野の生活の間中、幕屋の奉仕を司った。彼らの任務は、会見の幕屋の管理、保護、民衆からの隔離(民1:50‐54、18:22)であったが、歴代誌によればダビデ、ソロモン時代、彼らは神殿奉仕の他に、民を教えたり、聖歌隊として歌う役割も果したりした(1歴15、23章)。明らかに捕囚帰還後の礼拝賛美の詩篇として編集されたとみれば、理解できることである。ともあれ、信仰を抱いて、神の業に期待する、期待と祈りに満ちた日々を積み重ねることとしよう。

ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 詩篇134篇 | トップ | 詩篇136篇 »

詩篇」カテゴリの最新記事